2017年12年17日 礼拝説教「御自身のからだを賜物として下さる主イエス」

エレミヤ書31:31~34
マタイによる福音書26:26~35

櫻井重宣

本日は午後から教会学校のクリスマス礼拝が行われます。そして来週の日曜日の午前はクリスマス礼拝、夜はクリスマスイヴ賛美礼拝が行われます。今朝はクリスマスを前にして、御一緒に耳を傾けた御言葉を通してクリスマスによってわたしたちに与えられた恵みに思いを深めたいと願っています。

 ただ今司会者に読んで頂いたマタイによる福音書はイエスさまが十字架に架けられる前の日、木曜日の出来事が記されています。イエスさまはこの後、ゲッセマネの園で祈られ、祈り終えた直後、逮捕され、裁判にかけられ、十字架刑が宣告されました。そして金曜日の朝9時に十字架に架けられ、午後3時に息を引き取られました。十数時間後には十字架に架けられる、そうした時に何があったのか、福音書記者マタイは緊張した思いで書き記しています。

 さて、この26章の学びで、最初に心に留めたいことは、14節以下に、銀貨三十枚と引き替えにイエスさまを引き渡そうとしたイエスさまの十二弟子の一人イスカリオテのユダのことが記され、引き続いて過越の食事、そして今日のわたしたちの教会もそうですが、代々の教会が大切にしている聖餐式の原型ということができる主の晩餐の記事を記し、そのあと弟子たちが皆イエスさまにつまずく、とくに筆頭弟子ともいうべきペトロにイエスさまが、あなたは今夜わたしを三度知らないと言うだろうとおっしゃったことが記されます。3年間イエスさまと寝食を共にしてきた12人の弟子たちが皆、十字架を前にしてイエスさまにつまずいてしまうわけですが、12人の中で最も印象深い破れをさらけだしたユダとペトロのことを記す出来事をはさむようにして最後の晩餐の記事が記されています。最後の晩餐、主の晩餐の記事を真ん中にしてユダの引き渡し、ペトロが三度しらないと言ってしまうことが記されていることを先ず心に留めることが大切なことを思わされます。

 これは、どうしようもない弱さ、破れを抱える弟子たち、そしてわたしたち一人一人を抱え込むためにイエスさまの十字架の出来事があったこと、代々の教会はそのことを記念するため主の晩餐、聖餐式を大切にしてきたことを心に留めながら今日の箇所を学んでいきたいと思います。もう一度26節を読みます。

《一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」》

 マタイは、「一同が」と言います。この主の晩餐の場に、12人の弟子一同がいたことをマタイは記します。イスカリオテのユダもペトロもいたのです。この食事はこの箇所に先立つ17節以下に記されている過越の食事です。エジプトを脱出できたことを記念しての食事です。ユダヤの人々がこの季節になると大切に守ってきた過越の食事の後半、イエスさまは特別の思いでパンを取り、賛美の祈りを唱え、それを裂き、弟子たちに「取って食べなさい。これはわたしの体である」、とおっしゃって与えられました。本日の説教題を「御自身のからだを賜物として下さる主イエス」としましたが、これはこの箇所の説き明かしをしている聖書学者シュラッターの言葉です。イエスさまは彼らのため、わたしたちのため、十字架の死を遂げようとしておられます、からだはイエスさまの全存在です、イエスさまが十字架の死を遂げられたのは、わたしたちに命を、赦しを与えるためです、イエスさまからのパンを食することによって、そのパンは内側から彼らを、わたしたちを捕らえ、新たにし、イエスさまと一つに結ぶのだと、まさに御自身のからだを賜物としてわたしたちに下さろうとしている、とシュラッターは言うのです。

 そして27節と28節にこう記されています。

《また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるようにと、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。言っておくが、わたしの父の国であなた方と共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」》

 パンを裂いて弟子たちに与えるときの言葉と杯を取ってイエスさまがおっしゃった言葉は弟子たちが初めて聞く言葉です。過越の食事の流れは弟子たちもよく知っているわけですが、26節~28節は初めて聞く言葉です。杯を取ってイエスさまがおっしゃったのは、罪が赦されるようにわたしが多くの人のために流す血だ、契約の血だというのです。

 神さまとわたしたちは約束の関係です。双方が約束に忠実でなければなりません。しかし、神さまはどんなとにもわたしたちに誠実ですが、わたしたち人間はその約束に誠実であり続けることができないので、神さまとの約束関係を破棄されてもやむをえません。しかし預言者エレミヤはいつの日か、神さまとわたしたちの間に新しい約束関係が結ばれることを語りました。エレミヤの言葉でいうなら、神さまがわたしたちの罪を赦し、わたしたちの罪に心を留めることがない、そういうときです。すなわちこの主の晩餐でのイエスさまの言葉は、イエスさまが十字架の死を遂げることにより、十字架で血を流されることを通して、わたしたちの罪を赦し、どんなことがあっても神さまとわたしたちの約束は破棄されない関係になるというのです。イエスさまの十字架の死によって神さまとわたしたちは新しい約束関係が結ばれたのです。ユダの引き渡しとペトロの三回も知らないということの間に主の晩餐があったということは、イエスさまが十字架の死を遂げることによって、ユダ、そしてペトロの罪を赦し、ユダとの約束、ペトロとの約束を破棄しない、そのことを主の晩餐で伝えようとしておられるのです。それだけではありません。神さまの国でもう一度ユダもペトロも共に晩餐にあずかるというのです。イエスさまがこの主の晩餐の時におっしゃった言葉は本当に慰めそのものです。

 30節を見ますと、最後の晩餐、主の晩餐を終えたあと、一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけました。マタイはここにも「一同は」と記しています。ユダもペトロも一緒です。

 ゲッセマネの園に行く途中、イエスさまは弟子たちにこうおっしゃいました。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると羊の群れが散ってしまう』と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」

 ここで、わたしたちが心に留めたいことは、つまずくのは「あなたがたは皆」だ、とイエスさまがおっしゃっていることです。ユダやペトロだけではありません。最後の晩餐に居合わせた12人の弟子一人残らずつまずくとおっしゃるのです。このところで、括弧の中にあるのは預言者ゼカリアの言葉です。

 ゼカリアの時代、羊飼いであるべき為政者は失われたものを尋ねず、若いものを追い求めず、傷ついたものをいやさず、立っているものを支えもせず、肥えたものの肉を食べていました。ゼカリアは、神さまがこうした悪い羊飼いを打つので、羊が散り散りに散らされるというのです。羊飼いが悪いので、散ってしまった羊は散らされたままです。

 イエスさまは、わたしは善い羊飼いであるとおっしゃり、迷い出た羊をどこまでも出かけて行って探し出し、傷ついた人をいやす方でした。善い羊飼いであるイエスさまは、お金と引き替えに引き渡したユダ、イエスさまを三度も知らないと言ってしまったペトロ、つまずいてしまう弟子たちの弱さ、破れ、罪は羊飼いの責任だとおっしゃり、十字架の道を歩もうとしておられます。善い羊飼いは羊のために命を捨てるとおっしゃったイエスさまは、ユダのために、ペトロのために御自分の命を賜物として差し出そうとしておられるのです。そして羊が散らないように、イエスさまは復活した後、弟子たちより先にガリラヤに行くというのです。ガリラヤは弟子たちが初めてイエスさまにお会いしたところです。ガリラヤで待っている、どんなに弱さ、破れをさらけ出しても、ガリラヤで待っている、もう一度一緒に歩もうとおっしゃるのです。

 33節以下はイエスさまとペトロとのやりとりです。

《するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った。イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うだろう。」ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。》

このやりとりのあと数時間後にペトロはイエスさまを三度知らないと言ってしまうのですが、10月に行われた秋の伝道礼拝のとき、岡崎先生がお話しくださったように、ペトロは、あなたは必ず立ち直る、そういうイエスさまの愛のまなざしで立ち直るのです。

 最初に、ユダとペトロの弱さ、破れの出来事の間に主の晩餐のことをマタイが記していることを心に留めました。12人の弟子にとって自分たちが皆こうした弱さをさらけ出してしまったということは大きな衝撃でした。だれかが間違い、だれかが正しいというのではないのです。 

 先週、一人の青年が母親を殺すという痛ましい事件がありました。その青年はお金を浪費し、母親に何度もお金を求め続けていたようです。ついに母親は、お前など産まなかった方がよかったと言ってしまい、その言葉に青年は逆上し、気がついた時にはお母さんを殺してしまっていたというのです。本当に悲しい事件でした。お母さんが悪い、青年が悪い、と言うことができません。

先日亡くなった村上伸先生は40代の時ドイツに留学し、帰国されてからラジオのキリスト教の時間でドイツでの経験をお話しされていましたが、今でもわたしが感銘深く思い起こすのは一人の年老いた牧師と若い牧師のことです。若い牧師は将来を嘱望され留学し、数年ぶりに帰国するとき、将来を約束し合っていた恋人を驚かそうとして、帰国したあと突然彼女を訪ねたところ、彼女は他の男性と親しくなっていました。大きな衝撃を受けた彼は気がついたとき相手の男性を殺してしまっていました。そして牢獄につながれました。年老いた牧師はその若い牧師を育ててきた人でした。大きな衝撃を受けたその年老いた牧師は、御自分の祈り、愛の足りなさを懺悔し、定期的に牢獄に訪問し続けておられたというのです。その姿に村上先生は深く感動され、そのことをお話しされていました。わたしも今日までの牧師として歩む中で途方に暮れるようなことを何度も経験しました。毎日留置場を訪ねたこともあります。

32節に「つまずく」という言葉がありましたが、神の子であるイエスさまが十字架の道に進まれるというのは、弟子たちにとってつまずきでした。クリスマスもそうです。救い主が王さまの家にお生まれになりベッドは黄金であったらつまずかないのでしょうが、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子が救い主であるということはつまずきの出来事です。けれどもイエスさまが飼い葉桶に寝かせられ、十字架の道を歩まれたので、ユダの罪もペトロの罪もそしてわたしたち一人一人の罪も赦され、神さまとわたしたちの約束関係は破棄されないのです。

 聖書が語ることは、そのことです。先週の事件でいうならその青年のためにも、母親のためにも、村上先生のお話でいうなら大きな罪を犯した青年のためにもそのことを悲しみつつ牢獄に通う年老いた牧師のためにも、わたしの経験でいうなら、今なお途方に暮れるわたしのためにも、まぶねのイエスさま、十字架のイエスさまがおられるのです。イエスさまは、罪あるもの、自らの破れを覚えているものを低い所で、深みでなお招いておられるのです。そして痛ましい出来事で命を絶ったり、命を絶たれた人に対してなお神の国で執り成し続けておられるのです。それがクリスマスの恵みなのです。

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