エゼキエル書34:11~16
マタイによる福音書18:6~14
櫻井重宣
本日はこうして皆さんとご一緒に聖霊降臨日・ペンテコステの礼拝を捧げることができ、心より感謝しています。
イエスさまがよみがえられてから50日目に弟子たち一人一人に聖霊が降り、それまで逃げ隠れしていた弟子たちが力強く、十字架の上で死んで三日目によみがえられたイエスさまこそまことの救い主と告白し、教会が誕生しました。ですから、聖霊降臨日は教会の誕生日とも言われます。
本日の説教題を「誕生した教会の使命」としましたが、実は、先回、マタイ福音書18章の1節から5節を学んだ時に心に留めたことですが、シュラッタ―という聖書学者は、マタイによる福音書18章は1節から35節まであるのですが、一つのまとまりがあり、18章は「教会に対する原則」が記されていると語っています。ですから、今日は、マタイ福音書18章6節から14節を学ぼうとしているわけですが、この箇所の学びを通して、ペンテコステの時に誕生した教会がどういう使命を持っているのか、そのことをご一緒に考えたいと願い、こうした題をつけさせて頂きました。
いつものように少しずつ聖書を読み、みことばに思いを深めて参りたいと思います。
先ず6節です。こう記されています。
「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。」
今日の箇所に先立つ1節から5節に、イエスさまが、自分は十字架に架けられ、殺されるが三日目に復活することを二度目に予告されたすぐあと、弟子たちがイエスさまのところにやってきて、「いったいだれが、天の国でいちばんえらいのでしょうか」と質問したことが記されていました。ルカ福音書によりますと、最後の晩餐の席上でも、弟子たちの関心は、自分たちの中で一番偉いのはだれなのか、ということでしたが、ここでは、さらにエスカレートし、天の国でいちばん偉いのはだれか、とイエスさまに質問しました。イエスさまが十字架の道を歩まれることは、弟子たちには最後の最後まで分かってもらえませんでした。
こうした問いを受けたイエスさまは一人の子どもを呼び寄せ、弟子たちの中に立たせて、「自分を低くして、この子どものようになる人が、天の国で一番偉いのだ」とおっしゃいました。
先回も心に留めたことですが、子どもは無垢だから、汚れを知らないから、というのではなく、大人の間に立たせられた子どもは自分がいちばん小さいことを自覚しています。天の国では、地上でいちばん小さい人がいちばん偉い、すなわち、地上の価値観が天の国に持ち込まれないとイエスさまはおっしゃるのです。
ですから、イエスさまは、この6節で、小さな者の一人をつまずせる者は大きな石臼を首に懸けられて深い海に沈められた方がましだというのです。
この世は、大きい者に関心が行きます。
先週、アメリカのオバマ大統領が5月末に広島を訪問することが報じられました。その際にも、紹介されましたが、今でもアメリカの多くの人々は、原爆を投下したことで、戦争が早くに終結した、多くのアメリカ人の命が失われずに済んだと言って、原爆の投下は間違いでなかったと思っています。
これはアメリカだけではありません。今から40年以上前ですが、山口の教会員である中谷康子さんの夫が勤務中、岩手県で交通事故のため亡くなりました。中谷さんの夫は自衛官でした。中谷さんが、夫が亡くなったという知らせを受け、山口から岩手にかけつけたとき、殉職した夫は自衛隊の人々が丁重にかかわり、夫を抱いて涙することもできませんでした。葬儀が終わってまもなく知らされたことは、隊友会の名で護国神社に祭るということでした。中谷さんはそれを断りましたが聞き入れてもらえませんでした。
そのため中谷さんは、裁判で隊友会を訴えたところ、1979年、山口地方裁判所の判決は、人は、自己に最も親しい者の死について他人から干渉を受けず、静かにその人の宗教で葬ることは宗教上の人格権であると、中谷さんの訴えが認められました。けれどもそれから9年後、最高裁判所では隊友会は中谷さんの信教の自由を侵していないので、中谷さんに寛容であるべきという判決を出したのです。小さい者は大きな流れに寛容であるべきだ、というのです。
原爆の投下を正当化する論理も、中谷さんに寛容を求めた判決も多数の人の幸せが大切だというのです。
マタイ福音書の10章にはイエスさまがおしゃっていたこういうことが記されていました。
「この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」、と。
小さい者をつまずかせてはならない、神さまがわたしたちを見る目は大きなことをしたかどうかではなく、小さな者に冷たい水一杯飲ませたかどうかです。
7節をお読みします。
「世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸だ。」
ここの原文の意味合いは、「この世はどうしても小さい者をつまずかせてしまう。わざわいあれ。しかしだからやむをえないというのではなく、自分を厳しく見つめよ」です。他の人はともかく、あなたは小さい人をつまずかせていないか、とわたしたち一人一人に迫ります。
それが8節と9節に続きます。
「もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。」
手も人をつまずかせます。自分の技術、技能を誇る時でしょうか。人より速く走れるというとき、足がつまずかせます。目もそうです。
厳しいことがここで言われますが、あくまでもその人が命にあずかるためです。ちょうど、外科の医者は、手術はぎりぎりまでしないのですが、手術をしなければ命に関わるとき、手術に踏み切ります。そうした真剣さがここにあります。あくまでも、命にあずかるため小さな者をつまずかせる手や足や目を切り取ってしまいなさい、というのです。
10節をお読みします。
「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。」
いつもこの箇所に深い思いをさせられますが、本当に慰めに満ちています。わたしたちは自分がいかに小さな存在かを嘆きます。けれども、どの人にもその人を守る天使がいるというのです。地上では軽んじられていても、その人を守る天使は神さまを賛美している、天では大切にされているというのです。
11節は、後から付け加えられたのではないかということで削除されています。削除されたのは、「人の子は失われた者を救うために来た」です。地では小さな者が大切にされていない、失われた小さな者を救うためにイエスさまは来られたというのです。
そし100匹の羊を持つ羊飼いのお話をされます。12節から14節です。
「あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」
先ほど旧約の預言者エゼキエルの預言にわたしたちは 耳を傾けました。今、水曜日の朝の聖書研究祈祷会でエゼキエル書を学んでいますが、エゼキエルという預言者はユダヤの歴史で本当に暗い時代のただ中で預言者として働きをなした人です。
耳を傾けた34章で預言者が語っていることは、この時代の為政者は、自分たちはおいしいものを食べ、着るものは高価なものだ。けれども群れを養おうとしない。弱い者を強めず、病気の人をいやさない。傷ついた者の手当てをしない。追われた者を連れ戻さず、失われた者を捜し求めない。力づくで群れを支配する。こうした現状に心を痛めた神さまは自ら自分の群れを捜しだし、世話をする。神さま御自身が群れを養い、憩わせる。失われた者を尋ね求め、追われた者を連れ戻し、傷ついた者を包み、弱った者を強くし、肥えた者や強い者を滅ぼすというのです。
小さな者をつまずいている現実を神さまは放置なさらず、自らさがしだす、それがイエスさまをこの世界に送ってくださったことなのです。
ペンテコステのときに誕生した教会の大切な使命は、小さな者をつまずかせないこと、そして迷いでた者をそのままにせず捜しだすことです。
昔、迫害の嵐の中にあった教会は地下にもぐりました。ローマの地下の教会の礼拝堂、カタコンベの壁に、迷い出た羊を捜しに行き、見出した時、その羊を肩車して戻る羊飼いの姿が描かれています。
教会は今こうした迫害下にあるが、イエスさまはどんなときにも羊飼いとして関わってくださることに励まされていたのです。それと共に、迫害のため散りじりになったメンバーのために祈ること、自分は傷ついても迷い出たものをさがしだすことを教会の使命としていたのです。