創世記18:9~15
マタイによる福音書19:23~30
櫻井重宣
本日は、ただ今お読み頂いたマタイによる福音書19章23節から30節を学びたいと願っています。
ここ数回、心に留めていることですが、イエスさまは30歳のとき神さまのご用を始めましたが、その働きはユダヤの国の北の方、辺境の地と言われるガリラヤでした。ガリラヤでおよそ3年、讃美歌に歌われておりますように、
「食するひまも うちわすれて しいたげられし 人をたずね 友なきものの 友となりて こころくだきし この人を見よ」という歩みをされました。そして最後の一週間、エルサレムで過ごされ、金曜日には十字架に架けられ殺されてしまうのですが、実は、エルサレムを目ざしてガリラヤを出発したことが19章の冒頭に記されていました。そして21章の冒頭にはイエスさまがろばに乗ってエルサレムに入城したことが記されていますので、この19章と20章には、イエスさまが十字架に架けられ、殺されることも予測しながらエルサレムを目ざして旅を続けたときの出来事が記されているのです。
そしてこの19章と20章には、家庭、夫婦間の危機に直面している人、子どもの祝福、富める青年のこと、ぶどう園で朝から働いた人も夕方ようやく職にありつけた人も同じ賃金であったこと、自分の息子たちをイエスさまの右と左に座らせて欲しいと願い出た母親のこと、そして目の見えない二人の人が、イエスさまがおいでになったと分かった時、大声で目を開けてくださいと願い出たことが記されています。
すなわち、生まれつき苦しみをもった人、思いもかけない苦しみに直面した人、世の中で弱い立場にある人を抱えこみながらイエスさまは十字架への進んでおられることを福音書記者マタイは書き記そうとしているのです。
ですから、今日耳を傾ける個所もそういう光のなかで読むことが大切ではないかと思います。
ところで、今日の箇所は先回学んだ富める青年、金持ちの青年の続きです。それまで一生懸命に生きてきた富める青年にイエスさまが「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」とおっしゃいました。そうしますと、この青年は悲しみながら立ち去りました。たくさんの財産を持っていたからです。
先回も心に留めたことですが、マルコ福音書の方には、イエスさまはこの青年を慈しんでおっしゃった、と記されています。慈しむと訳されている語は、神さまがわたしたちをまるごと愛してくださることを言い表すアガペーです。讃美歌には「富める若人 見つめつつ嘆くはたれぞ 主ならずや」と歌われていました。去っていく青年を愛し、嘆かれるイエスさまは弟子たちにこうおっしゃいました。23節、24節です。
「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
「はっきり言っておく」は原文で、「アーメン、わたしはあなたに言う」です。イエスさまが、大切なことをいうので耳を傾けて欲しい、というとき用いる語です。ヨハネ福音書では、アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う、です。
イエスさまは、青年が立ち去る姿を見ながら、弟子たちによく聞いて欲しい、心に留めて欲しい、金持ちが天の国に入るのは難しい、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい、とおっしゃったのです。
イエスさまのたとえは極端です。山上の説教でも「兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」とおっしゃいました。ここもこのまま素直に読んでもいいのですが、人によっては、らくだはカメロン、太いツナはカミロンですので、太いツナは針の穴を通すことがむずかしい、とおっしゃったのではないか、あるいはエルサレムの町の門の脇に「針の穴」という小さな門があったことから、そこをらくだが通ることが難しいとおっしゃのではないか、と言う人もいますが、次の25節で、このことを聞いた弟子たちが非常に驚いて「それでは、だれが救われるのだろうか」と語っていることから、金持ちが天の国に入ることの難しさをイエスさまがこのたとえでおっしゃったものと思われます。
イエスさまは非常に驚いた弟子たちをみつめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」とおっしゃいました。金持ちが天の国に入るのは難しいのですが、百パーセント無理だというのではなく、神さまの分野だというのです。
このことで思い出すのは、先ほど読んで頂いた創世記に、高齢のアブラハムとサラに男の子が生まれるということを天使が伝えたとき、サラは人間の常識では考えられなかったので、ひそかに笑いました。そうしますと、神さまは「主に不可能なことがあろうか」とおっしゃいました。
また、天使がマリアに身ごもって男の子を産み、イエスと名づけなさいと告げたとき、マリアは「どうしてそのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と言ったとき、天使は「神にできないことは何一つ
ない」と言いました。
悲しみながら立ち去った青年のことで心を痛めている弟子たちにとって、神にはできるというこのイエスさまの言葉は慰めです。富める青年の救いの可能性が示唆されています。
しかし、ペトロはなかなかイエスさまの思いが理解できません。27節でペトロはイエスさまにこう言います。
「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」、と。捨てて従う、ということにも報いを求めています。
イエスさまは、ペトロだけでなく、そこに居合わせた人々にこうおっしゃいました。「はっきり言っておく。」また、アーメン、わたしはあなたがたに言う、大切なことを伝える、よく聞いて欲しい、です。「新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」、と。
人の子が栄光の座につく新しい世界は、十字架の死を遂げたイエスさまがよみがえられて栄光の座につく世界です。人々の上に君臨するというのではなく、一番低いところにイエスさまが位置して、一人一人のために祈ってくださる世界です。
さらにイエスさまは「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者は、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ」とおっしゃいました。マタイより先に記されたマルコ福音書にはこう記されます。
「わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、母、子ども、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。」この世で家、兄弟等を捨てた者は、迫害も受けるが、この世で家、兄弟、も百倍になり、後の世では永遠の命を受ける」と。そして最後に「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」というのです。
富める青年へのメッセージがあります。持ち物を売り払って、貧しい人に施してわたしに従って来なさい。そのとき、ただ捨てるだけでなく、迫害も伴うに違いない。けれどもそのとき、わたしは青年と一緒に迫害され、なお苦しむ青年を励まそう、そのとき、先のものが後になり、後なるものが、すなわち青年が先になるというのです。
10月の第一日曜日は世界聖餐日です。今日、世界中で深刻な課題があり、心痛む日々を過ごしておりますが、わたしは本日この聖書の個所を学ぶことができ心から感謝しています。世界中の教会が本日聖餐式を守るということは、十字架の死を遂げ、よみがえられたイエスさまが、いろいろな問題がうごめくこの世界の一番底の底のところで支えておられることを心深く感謝するからです。
世界中の教会で、10月の第一日曜日に聖餐式をと提案したのはアメリカの長老教会で1936年、昭和11年のことです。その後世界的な規模の戦争になろうとしたとき、危機を覚えたアメリカのキリスト教同盟協議会という諸教派の協議会が、長老教会が実施していた10月の第一日曜日を世界聖餐日と定め、わたしたちもこの日に聖餐式をしよう、平和への願いが聞き入れられない状況だが、そうであればあるだけ、十字架の死を遂げ、よみがえられたイエスさまがこの世界を根底で支えておられることを覚え、聖餐式を守ろうということになったのです。
実は、わたしたちの教会が連なる日本基督教団が創立したのは1941年6月24日ですが、合同の二ヶ月前の4月に、アメリカとの戦争が回避できないかという祈りのもとに、平和使節団として日本の教会の代表者7名が平安丸という船でアメリカに赴きました。賀川豊彦先生、メソジストの阿部義宗先生、霊南坂教会の小崎道雄先生、恵泉女学園の園長の河合道先生、YMCAの斉藤惣一先生、霊南坂教会員で国会議員の松山常二郎さんそして日本で長く伝道されていたアキスリング先生です。最初にロスアンゼルスの郊外でアメリカの教会の代表の人たちと戦争を回避できないか、話し合い、祈り合いました。その後7人は手分けしてアメリカの各地を回り、話し合い、祈り合いました。そして6月の教団創立総会に間に合うよう帰国したのです。日本の教会が派遣し、祈りあったのは世界聖餐日を制定した教会であったのです。
11月末、アメリカの伝道者スタンレー・ジョーンズ先生から賀川豊彦先生に戦争が始まるのではないか、と電報が届き、アメリカと日本で12月1日から7日まで毎晩平和のために祈祷会が行われました。日本では毎晩十数人多いときは40人近く集って祈りました。けれども、12月8日真珠湾攻撃でアメリカやイギリスと日本との戦争が始まってしまいました。
たしかに教会は無力でしたが、世界祈祷日を行うようになったアメリカの教会と日本の教会が戦争を回避するために祈りを重ねたことは事実です。そのことを大切に心に刻んだ日本のいくつかの教会は、戦争が終わって二ヶ月もしない1945年10月の最初の日曜日に世界聖餐日を覚えて礼拝をささげました。そして、1946年9月に教団の総務局長であった日野原善輔先生、明後日105歳のお誕生日を迎える日野原重明先生の父上ですが、全国の教会に世界聖餐日を遵守しようと要望したのです。
世界平和が実現することは人間の力では無理かもしれませんが、神さまはおできになる、そのことを信頼して本日聖餐式を守りたいと願うものです。