2016年10月30日 礼拝説教「十字架の主に従う」

イザヤ書53:1~12
マタイによる福音書20:17~19

櫻井重宣

 本日は教会創立89周年記念礼拝です。み言葉に耳を傾け、教会が創立されてから今日までの89年にわたってわたしたちの教会の歩みを守り、導いてくださった教会の主イエス・ キリストの恵みを心深く覚え、神さまの御名を心から崇めたいと願っています。

   さて、今、お読み頂いたマタイによる福音書20章17節~19節には、イエスさまが弟子たちに語られた三度目の十字架の死と復活の予告が記されています。今日のわたしたちですと、 イエスさまは十字架の死を遂げ、三日目によみがえられたと告白しますが、イエスさまと三年間歩みを共にし、イエスさまに従うことを喜びとしていた弟子たちにとって、 イエスさまが十字架に架けられて、殺されるということは想像することすらできない、信じたくないことでした。そのためこれまでも二度、そのことを予告されたのですが、 弟子たちは理解できませんでした。理解しようとしませんでした。一回目の予告は16章21節以下でした。
 「このときから,イエスは,御自分が必ずエルサレムに行って,長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっていり、 と弟子たちに打ち明けられた。」
 そうしますと、ペトロはイエスさまをわきへお連れして「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」といさめ始めました。 イエスさまが大好きなペトロからすれば当然なことです。

 二回目は17章22,23節です。
 「一行がガリラヤに集まったとき、イエスは言われた。『人の子は人々の手に引き渡されようとしている。そして殺されるが、三日目に復活する。』弟子たちは非常に悲しんだ。」
 弟子たちは非常に悲しんだというのです。イエスさまが殺されるということは悲しみ以外のなにものでもありませんでした。
 三回目が今日の箇所20章17節から19節です。17節にこう記されています。
 「イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。」
 なんとか十二弟子には分かって欲しいという願いで、イエスさまは十二弟子だけを呼び寄せられたのです。そして18節と19節でこうおっしゃいました。 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、 十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」
 三回目の予告には引き渡されるが二度用いられます。最初は、イエスさまが祭司長たちや律法学者たちに引き渡される、これはイスカリオテのユダによってです。そして、 祭司長たちや律法学者たちから異邦人に、ローマの総督ピラトに引き渡される、と。そして三回目の予告の特長は、異邦人に引き渡し、異邦人は人の子を、これはイエスさまのことですが、 侮辱し,むち打ち、十字架につけるというのです。
 マルコ福音書に記される三回目の予告を見ますと、「侮辱し」と「鞭打ち」の間に、「つばをかけ」、とあり、具体的になっています。いずれにしろ、引き渡され、 十字架につけられることが予測される、そのことが避けられないのに、逃げることをせず、エルサレムに向かって行かれるのです。 そしてこのあとに記されるのは弟子たちが偉くなることを願う姿です。イエスさまの思いは弟子たちに最後まで理解してもらえませんでした。イエスさまは,本当に孤独です。

   先ほど、イザヤ書53章に耳を傾けました。イエスさまのお生まれになる540年位前に活躍した預言者が、来たらんとする救い主、メシアはどういう方か、 ということで四つの主の僕の歌をうたっています。
 第一の歌は、主の僕すなわちわたしたちが待ち望んでいるメシアは、かっこうのいい人ではないが、どんなに傷ついた葦であっても折らない、 今にも消えそうな灯心であってもそれを消さない方だ、だからといって真実をいいかげんにしない、というのです。   
 第二の歌では、疲れを覚え、自らの働きが徒労に思われ、苦悩する主の僕がうたわれます。傷ついた葦を折ることなく、 ほのぐらい灯心を消さないで神さまの御旨を遂行しようとすると疲れます。けれども主の僕はどんなに時間がかかっても、傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、 神さまの御心を地の果てまでもたらすというのです。
 第三の歌でうたわれる主の僕は、御心を遂行するとき、どんなにむち打たれても、ひげを抜かれても、つばをかけられてもそれを避けません。     
 第四の歌は、先ほどお読み頂いた53章です。主の僕には、みるべき面影がなく、輝かしい風格もありません。主の僕は軽蔑され、人々に見捨てられ、 わたしたちもその方を軽蔑していたというのです。けれどもその方が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのため,彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであったのです。 その方が受けた懲らしめによって、その方が受けた傷によってわたしたちに平安が,癒やしが与えられたとうたうのです。
  十字架の道を歩まれようとするイエスさまのお心にはこの主の僕の姿があります。イエスさまが、十字架刑が予測されるエルサレムに赴こうとされるのは、 何としても一人一人に慰めを、いやしを、赦しをという願いからなのです。

  わたしたちの茅ヶ崎教会が創立されたのは1927年10月30日です。本日は89周年になります。けれども、89年前の10月30日に突然教会が誕生したのではなく、 今日の週報に記しましたが、前史があります。教会が誕生する十数年前から、日本における結核病院の草分けともいうべき南湖院、そして、 製糸工場の純水館で平塚教会の水野重吉牧師によって定期的な集会が始められました。
 今日は、わたしたちの教会の60年史を読んで心動かされた三つのことに思いを深めたいと思います。
 一つは、南湖院、純水館のことです。製糸工場の純水館は、館長の小山房全(ふさひろ)さんも立派な方ですが、妻の喜代野さんの働きに思いを深くさせられます。 小山喜代野さんは、内村鑑三先生の影響のあった方です。工場で働く人と家族は同じ食事でした。大家族のように生活しました。女工哀史と言う言葉は純水館にありませんでした。 けれども小山喜代野さんは1923年の関東大震災のとき、 家屋が倒壊し、圧死されました。
 南湖院では副院長の高橋誠一さんの働きは大きいのですが、妻の美也さん の存在を忘れることはできません。美也さんは、岩手県の宮古の出身です。 1908年に南湖院の医師になりました。高橋誠一さんが南湖院においでになるより3年前です。大正4年にお二人が結婚され、そのときから南湖院で集会が始まりました。 高橋美也さんは、貧しい人からお金をもらいませんでした。患者さんのため重湯をつくりました。患者さんが亡くなった時、遺体の消毒を率先してされました。 けれども美也さんは1937年10月25日、ご病気のため亡くなりました。教会が創立されて11年目でした。
 南湖院では、クリスマスを医王祭と言って、総理大臣、県知事まで、さらに北は北海道、南は沖縄、満州まで五千通の招待状を出し、多くの人が集いました。 純水館は日本で一二の生糸を作りました。そうしたことも教会の創立に影響があったかもしれませんが、病気の人や工場で働く若い人に身を低くして尽くす、 そうしたキリスト者の姿が教会を形作ったのです。小山喜代野さん、高橋美也さんは、わたしたちの教会の創立前後に一粒の麦となって死んでいった人と言えます。
 二つ目は、木下芳次先生の存在です。1941年に青山学院を卒業して赴任 されました。赴任して一年もたたずに戦地に召集されたのですが、木下先生は赴任してすぐ、 教会とは何かということを考え、まことの教会を建てることを神さまから命じられたと示され、教会を建てるのは神の言葉だ、説教によって教会は立ちもするし、倒れもするので、 日曜の礼拝を午前に行おうとしました。木下牧師は茅ヶ崎教会ではじめての専任牧師です。創立以来夕礼拝で、日曜日にそれぞれ仕事をして夕べに集まって礼拝をささげていたのですが、 木下先生は、神さまを第一にする生活を、と語られ、日曜日の午前の礼拝に行おうとしました。実施まで9ヶ月かかりました。日曜日の午前10時から礼拝するようになったのは、 創立して14年目でした。
 しかし、木下牧師は赴任して一年もたたない1942年2月に召集され、茅ヶ崎教会を辞任して戦地へ赴きました。戦時中、当教会は高田彰先生が牧してくださいました。戦争が終わり、 木下先生は1946年5月に復員され、7月に高田先生が辞任し、木下先生は再任されました。 
 木下先生は戦時中、人間の罪、戦争の罪を深く思わされたのですが、戦地から帰ると、戦前と変らない教会の姿に大きな衝撃を覚え、1948年2月に進退伺いを出し、 教会は大きな衝撃を受けました。数週間後、木下牧師は進退伺いを撤回されました。どうして撤回されたのか分かりません。
  実は、89年前の10月30日、一教会員から献げられた会堂で、献堂式を行い、その日の礼拝が茅ヶ崎教会の最初の礼拝で,創立記念日としたのですが、 1951年、会堂を献堂したはずの一会員から会堂の返還要求がだされたのです。4月1日、臨時教会総会が行われ、会堂を献堂された方と10数名の会員が茅ヶ崎平和教会へと転じ、 会堂を返還することになりました。文字通りの出エジプトで、礼拝堂がなくなったのです。
 出エジプトしたわたしたちの教会が祈り求めた課題は、「キリストのからだなる教会」、「教会のかしらなるキリスト」、「キリストにある交わり」、 「罪と悔い改めによる歩み」でした。もう少し言うとすれば、十字架の主に従うことを決断し、真の教会を形づくろうとしたのです。 そして、罪と悔い改めによる業として会堂建築に着手しました。他からの援助を一切断り、自力でブロックを数年かけて積んで建築し、 会堂建築後は自らの奉仕の業を一切誇ることをしませんでした。そして、人間の罪、とくに戦争の罪を真剣に負い続けようとしたのです。 
 ですから、89年前、茅ヶ崎教会は創立され、その日に献堂式を行ったのですが、その礼拝堂を24年後に返還し会堂が無くなるという、 そのつらいことを思い起こさざるをえないのがわたしたちの教会の創立記念日なのです。けれども1951年に会堂を返還し、その後自力で10数年かけて会堂建築し、 今日の茅ヶ崎教会があるのです。
 三つ目は開拓伝道です。創立51年目の1978年に香川に伝道所を開設し、29名の会員を送り出しました。今日の茅ヶ崎香川教会です。創立63年目の1993年、 南湖に伝道所を開設し、このときも29名を送り出しました。今日の茅ヶ崎南湖教会です。この教会から香川に行く人も,南湖に行く人も、 送り出すわたしたちの教会も祈って十字架の主に従うことを決断したのです。
 個人的なことを申し上げますと、香川と南湖の開拓伝道のため茅ヶ崎教会が全勢力を注いでいた時期、わたしは秋田で10数年、自らの身をけずってまで教会を産み出す業に従事し、 1983年2月20日、臨時教会総会で、開拓伝道に着手する件が可決されました。わたしは議長として採決のとき、賛成の人の起立を求めたところ、全員が起立しました。 これから直面するであろう困難、不安を教会に連なる一人一人が覚えつつ、一人一人が十字架の主に従うことを決断してくださいました。わたしは感動し涙が止まりませんでした。 
  実は、そのとき、茅ヶ崎教会の決断を三浦公さん、淑さんから聞き、励まされていました。身をけずってまで教会を産み出すのは、自分たちだけでない、 十字架の主に従うことを決断し教会を産み出そうとする群れがあることは大きな励ましでした。

 こうして本日、89年目の創立記念日を迎えたわけですが、礼拝堂を失うというつらいことに直面したのですが、自分たちは十字架の主に従って、 困難な歩みであっても新しい歩みを始めよう、その信仰が目に見える教会だけでなく目に見えない教会を形作ったのです。それが茅ヶ崎教会です。 それが先人の信仰です。
 二千年前、イエスさまが十字架の道を歩もうとされたとき、理解できずに逃げ出したり,三回も知らないと言ってしまった弟子たちでしたが、 復活の主に招かれ、一人一人が今一度新たな思いで十字架の主に従い、そこに教会が誕生したことに思いを深めたいと願うものです。

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