2016年1月16日 礼拝説教「安心しなさい、わたしがここにいる」

イザヤ書65:1:5
マタイによる福音書14:22~36

櫻井重宣

 新しい年、2016年を迎えました。今年も主の日毎に御言葉に耳を傾け、御言葉に励まされ、慰められ、力を与えられ、歩んで参りたいと願っています。
 さて、ただ今司会者にマタイによる福音書14章22節以下をお読み頂きましたが、実は14章の冒頭に洗礼ヨハネが殺されたことが記されていました。
 ヨハネの弟子たちからそのことを聞いたイエスさまは大きな衝撃を受け、先週心に留めた箇所ですが、イエスさまは舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれ、祈ろうとされました。けれども、こうした権力者のもとで苦しみを余儀なくされているたくさんの人たちがイエスさまに助けを、慰めを求めてやってきたので、その人たちを深く憐れまれ、病気の人をいやされました。そうこうするうちに夕暮れになったので、弟子たちが持ち合わせていた五つのパンと二匹の魚で五千人の人々を満腹させました。五千人というのは男の大人の数ですので、女性や子どもを加えると一万人を越える人々にパンを、魚を分け与えました。

   そして今、耳を傾けた22節と23節にこう記されていました。
 「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。」
  「それからすぐ」とあります。何としても一人で祈りたい、そうした思いから群衆を解散させ、弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸に先に行かせ、イエスさまは祈るためにおひとりで山に登りました。
  領主ヘロデが弟の家庭を崩壊させ、弟の妻ヘロディアと結婚する、それを非難した洗礼者ヨハネを逮捕して獄に入れる、自分の誕生日にヘロディアの娘が踊りをおどり、それを喜んだヘロデが、願うものは何でもやろうと約束する、そうしますと、ヘロディアの娘は母親と相談し、ヨハネの首を盆に載せて欲しいと願う、ヘロデは客の手前その通りにする、そうしたおそろしいまでの現実に直面したイエスさまは荒れ野で、山で、ひとりきりになって夕方まで祈り続けられたのです。
 わたしたちも新年早々、北朝鮮の水爆実験、中東で国と国が断交する、さら経済の不安に直面しています。特に北朝鮮の核実験に対して、世界中の国がこぞって非難し、日本の国会でも全会一致で北朝鮮を責める決議をしていますが、核兵器は、そして核は人間が手にしてならないものであることを世界中の人が認識しなければならないことを思わされます。
 イエスさまは十字架に架けられる前の晩にもゲッセマネで夜を徹して祈られ十字架の道に進まれるわけですが、イエスさまが今もこうした現実のただ中で夜を徹して祈られていることに思いを深めたいと願うものです。

  ところで、イエスさまがひとりで、山で祈っておられたとき、向こう岸に行こうとして弟子たちが乗った舟が逆風のため波に悩まされていました。舟は既に陸から何スタディオンか離れていました。一スタディオンは約185メートルですので、仮に5スタディオンとしても陸から1キロ位ですから、陸からはかなり離れています。
 イエスさまは、権力者ヘロデのもとで苦しむ人々の中で、最後的には御自分が十字架の道を歩まねばならないのか、御心を問うておられるわけですが、逆風のため波に悩まされていた弟子たちのためにも祈っておられるわけです。弟子たちは自分たちだけで右往左往していると思っているのですが、イエスさまは背後で祈っておられるのです。

  夜が明けるころ、イエスさまは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれました。弟子たちは、イエスさまが湖の上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげました。
 このようにおびえ、助けて下さいと叫ぶ弟子たちにイエスさまは話しかけられました。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」、と。
 「安心しなさい」「わたしだ」「恐れることはない」、この三つのイエスさまの言葉は本当に慰めに満ちた言葉です。
  先ず、「安心しなさい」というのは、原語で、サルセオ―という語です。元気を出しなさい、大丈夫だ、安心しなさい、勇気を出しなさい、と訳されます。イエスさまがよくおっしゃいます。
 たとえば、中風で苦しむ人に、「子よ、元気をだしなさい」と語ったときの言葉がサルセオ―です。あるいは12年間、出血がとまらない婦人病で悩む婦人がイエスさまの服の房に触れたとき、その婦人の12年に及ぶ苦しみに思いを深め、「娘よ、元気になりなさい」とおっしゃいましたが、そのときの「元気になりなさい」がサルセオ―です。あるいは、ヨハネ福音書で、十字架を前にしてイエスさまが告別説教をされていますが、その説教のしめくくりで、イエスさまは「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」とおっしゃいましたが、そのときの「勇気を出しなさい」がサルセオ―です。
 また、「わたしだ」は、エゴー エイミです。英語でいうと、アイ アムです。わたしはここにいるよ、わたしがここにいるではないか、決してひとりぼっちにしていない、わたしが一緒にいるではないか、と言う意味です。
 先程お読み頂きましたが、預言者イザヤは、「わたしに尋ねようとしない者にも わたしは尋ね出される者となり わたしを求めようとしない者にも 見いだされる者となった。わたしの名を呼ばない民にも わたしはここにいる、ここにいると言った」とおっしゃる神さまの言葉を伝えています。
 イザヤにとって、神さまがここにいる、とおっしゃるのは、神さまが遣わすメシアは、わたしたちが苦しんでいる時一緒に苦しむ方、もっというならわたしたちに代わって苦しみ、わたしたちに癒しを与える方だからです。
  「ここにいる」ということで、いつも思い起こすのは、第二次大戦下、ユダヤ人であるゆえ、強制収容所に入れられたヴィクトール・フランクルが、その書で紹介している婦人のことです。
  その婦人は恵まれた環境に育った人でした。それだけに収容所の生活の厳しさに耐えきれず、日に日に衰弱していきました。死の数日前に彼女はこう言いました。「私に辛くあたった運命を私は今となっては感謝しています」と。そして窓ごしに咲いているカスタニエンの木を指さして「この木は私の孤独における唯一の友だちです。この木は言ったのです。・・・わたしはここにいる・・・・わたしはここにいる・・・わたしは生命だ・・・わたしは永遠の生命だ・・」 この婦人は、辛い収容所の中で、わたしはここにいる、わたしはここにいると語りかける永遠の生命を差し出す方に会うことができたのです。  
 ここでの弟子たちもそうです。水の上を歩いて来られ、舟に乗り込み、一緒に悩み、おろおろされながら、ここにいる、一緒にいるとおっしゃり、「恐れることはない」、「こわらがなくていい」と励ますイエスさまにお会いできたのです。

  マタイ福音書を書き記したマタイは、イエスさまの誕生のとき、インマヌエル、神は我々と共におられることが実現したと書き記し、福音書の最後は、復活されたイエスさまの「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という言葉です。
 そのマタイが、湖の上で、逆風のために悩んでいる弟子たちにイエスさまが「安心しなさい。わたしだ、恐れることはない」とおっしゃったということは、マタイがイエスさまとの出会いで最も心動かした言葉で、どうしても伝えたいメッセージなのです。
 わたしたちもこの一年間、いろいろなことに直面するかもしれません。絶望的な状況に陥り、うろたえることもあるかもしれません。そうしたとき、イエスさまが「安心しなさい、わたしが一緒にいるではないか、大丈夫だ、恐がらなくていい」とおっしゃってくださることに励ましを与えられたいと願うものです。

  28節以下を読んでみましょう。
 「すると、ペトロが答えた。『主よ、あなたでしたら、わたしに命令してそちらに行かせてください。』イエスが『来なさい』と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けて下さい』と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。」
 非常に印象的な光景です。ペトロは水の上ですが、イエスさまが来なさいとおっしゃったとき、水の上を歩いてイエスさまの方へ進みました。常識的には困難なのですが、イエスさまを見つめて歩き出しました。
 湖の上を、イエスさまを見つめて歩き出したペトロでしたが、強い風が吹いてきたとき、怖くなり、沈みかけました。そして、ペトロは「主よ、助けてください」と叫びますと、イエスさまはすぐ手を伸ばしてペトロを捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」とおっしゃいました。
 イエスさまはペトロに信仰がない、とおっしゃいません。信仰が薄いとおっしゃり、沈みかけたペトロに手を差し出されます。沈みかけても、イエスさまが手を伸ばせばすぐ捕まえられる近さにイエスさまはいらっしゃいます。
 ペトロはイエスさまの十字架を前にして、イエスさまを3回も知らないと言ってしまうのですが、そのことに先だって、イエスさまは、「わたしはあなたのために、あなたの信仰が無くならないように祈った」とおっしゃいました。信仰が薄くても、三回もイエスさまを知らないと言ってしまうようなことがあっても、信仰が無くならないように祈り続けてくださる方がおられるのです。
 33節で、舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言って拝んだ、とありますが、ペトロがイエスさまを信じたときも、風が怖くなったときも、イエスさまはペトロをしっかり支えてくださっていることを知ったからです。

  最後のところを読んでみましょう。34節~36節です。
 「こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレという土地に着いた。土地の人々は、イエスだと知って、付近にくまなく触れ回った。それで、人々は病人を皆イエスのところに連れて来て、その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。」
  このように、マタイは真実を語った洗礼者ヨハネを殺してしまうような為政者の支配下にあることを語りつつも、その支配は絶対ではなく、こうした世界のただ中で、イエスさまはどんなときにもわたしたちのために祈っておられ、どんなに大きな苦しみを持つ人も、病のうちにある人も、悲しみのうちにある人も憐れみ、抱え込んでくださっていることを証しするのです。

  この後、ご一緒に歌う讃美歌Ⅱ‐186の1節は、「日ごと主イエスに よりすがりなば 恐れはあらじ、たよれ、ただイエスに。ただ主にすがり 日ごと夜すがら み手にゆだねて おそれずすすまん」
 戦後、長い年月、沖縄や秋田で伝道した宣教師のバーベリー先生は、好きな讃美歌というと、いつもⅡ-186をあげ、わたしたちはこの讃美歌に励まされながらイエスさまに従い、伝道してきたとおっしゃっていました。
 わたしたちも、この一年、日ごと主イエスによりすがり、日ごと夜ごとみ手にゆだねて歩んでいきましょう。

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