2014年2月9日 礼拝説教「和解しなさい」

創世記4:1~15
マタイによる福音書5:21~26

櫻井重宣

 今、私たちが学んでいる山上の説教は、イエスさまの周りに弟子たち、さらにその弟子たちを取り囲むようして病気に悩む人々やいろいろな苦しみを抱えている人々がいました。イエスさまを囲んで、イエスさまのお話しに耳を傾けている多くの人々は、当時のユダヤ社会の指導者層から、律法を守っていない、だから、いろいろな苦しみに直面するのだ、あなたがたはだめな人間だ、そういうことを言われていた人々です。
 そうしたことを言われ続けていた人々に、今日の個所から5章の最後のところまで、とくにイスラエルの人々が大切にしていた十戒のうちのいくつかを取り上げ、この戒めが何を求めているのか、そのことを語り、あらためてイエスさまの説教に耳を傾けている人たちを励まそうとしておられます。
 いつものように少しずつ読みながら、イエスさまがここで語ろうとしておられることに思いを深めていきたいと思います。

 先ず、冒頭の21節をもう一度読んでみましょう。
 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。」
 「殺すな」というのは、十戒の6番目の戒めです。第6戒は、「殺してはならない」です。先週、寄留者、孤児、寡婦に優しくしなさいという申命記の記事を学ぶ時も心に留めたことですが、どうして寄留者、孤児、寡婦に優しくしなさい、というかと言うと、あなたがたはかつてエジプトの国で苦しい生活を余儀なくされていた、そのあなたがたの先祖のうめき、助けを呼ぶ声に神さまが耳を傾け、モーセを遣わし、エジプトを脱出し、40年の間荒れ野を旅し、その旅を神さまは導いてくださったからです。困難なとき、神さまが守ってくださった、その恵みを覚え、今、困難な生活を余儀なくされている寄留者、孤児、寡婦に優しくしなさい、というのです。
 十戒が記されているのは、出エジプト記20章ですが、その冒頭に「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」とあります。十戒を学ぶ時、どれだけ十戒を守ったかを誇るのではなく、神さまの恵み、恩寵、すなわち、神さまはエジプトの国、奴隷の家から導き出してくださった、その恵みを感謝しよう、というのです。
 奴隷の状態が長年続き、生きることにも疲れていたあなたがたの先祖の助けてくださいという叫びに神さまは耳を傾けてくださった、その恵みを覚えるとき、どうして他者の存在を抹殺し、殺すようなことをしていいだろうか、それが「殺してはならない」の戒めにある思いです。けれども時がたつにつれ、イエスさまの時代のイスラエルの人々は、わたしは殺していない、この戒めはちゃんと守っている、と言っていたのです。
 ところで、21節のイエスさまの言葉に該当する聖書の言葉は、出エジプト記21章12節「人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる」の引用と思われます。けれどもイエスさまは、この出エジプト記の言葉を引用するとき、「人を殺した者は裁きを受ける」というのです。「必ず死刑に処せられる」を「裁判を受ける」と言いかえておられます。
 ここには、旧約の民、聖書の民の葛藤がありました。人の命は大切です。どんなことがあっても殺してはなりません。けれども間違って人の命を奪ってしまうこともあります。間違って殺した人のために「逃れの町」を設けました。また、「人を打ったものは死刑に処せられる」ということで、報復の論理が産み出されました。果てしなく殺し合いが続きます。そのため、殺された人の命を「あがなうもの」ゴーエールは、神さまとする、ということになりました。何よりも、こうした苦悩から、カインとアベルの記事も産み出されました。
 最初の人間のアダムとエバから生まれたのがカインとアベルですが、カインがアベルを殺してしまいました。しかも、カインは自分のしたことをなかなか認めようとしません。ようやく自分の犯した罪を自覚したとき、カインは「わたしに出会うものはだれでも、わたしを殺すでしょう」とおののきます。そのカインに神さまは、カインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、しるしをつけられました。
 毎年8月6日の広島の原爆投下の日、原爆記念日の集会で、広島市長が平和宣言をします。今から12年前の平和宣言で、当時の広島市長、秋葉市長は、報復の連鎖を断ち切り、和解の道を探ろうと世界にアピールしました。神さまがカインにしるしを付けたことは報復の連鎖を断ち切ることです。

 こうした聖書の民の葛藤をふまえて、イエスさまは、「人を殺した者は裁きを受ける」と命じられている、というのです。
 そして、22節でこうおっしゃいます。
 「しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」
 今日の個所の直前のところでイエスさまは、「わたしが来たのは、律法を廃止するためではなく、完成するためである」とおっしゃいましたが、「殺すな」といい戒めの目指すところはこうだ、というのが22節です。
  で21節と合わせて読むとはっきりするのですが、21節でイエスさまは、昔の人は「殺すな。人を殺した者は裁きを受ける」とおっしゃいましたが、22節で「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」と言います、イエスさまは、人を殺した者、そして、兄弟に腹を立てる者は、だれでも裁きを受けるというのです。殺していない、という人に、兄弟に腹を立てていないか、と問われるのです。
 それだけではありません。兄弟に「ばか」と言う者は最高法院に引き渡され、「愚か者」という者は火の地獄に投げ込まれる、というのです。
  「ばか」と訳されている語は、「ラーカー」です。アラム語系のことばで、罵声です。空っぽな者、アホ、間抜けという意味がある語です。「愚か者」と訳されている後は、「モーレー」です。ギリシャ語系のことばで、侮辱の言葉です。 ややこしいですが、口語訳では、ラーカーを愚か者、モーレーをばかものと訳されていました。いずれ大切なことは、人の人格を否定するような、「ばか」とか「愚か者」と言ってはならない、そういう言葉を発する者は、最高法院で裁かれたり火の地獄に投げ込まれる、それほどの大きな罪だというのです。 

 今から50年近く前ですが、三井三池争議がありました。その争いのさなか、労働組合の組合員から「犬」と呼ばれたある警察官が「犬にも言わせて欲しい」という文章を新聞に投書しました。それを読んだ九州大学の滝沢克己というキリスト者の先生が新聞に投書し、労働組合の人に釈明を求めました。けれど労働組合の人から、一言も答えがありませんでした。
 そのことが全キリスト者平和会議で問題になり、ある牧師が、滝沢先生の投書はキリスト者の良心的な態度としては理解できるが、結局は自己満足にすぎず、三井三池争議のために何の役にも立たず、むしろマイナスの役割しか果たさない、と発言し、その発言を巡ってやりとりがあったというのです。
 そのとき、その場にいた井上良雄先生は、『福音と世界』という月刊誌に「犬と呼ばれた警官の問題」という題で文をかきました。井上先生は、戦後神学校でドイツ語を教えながら、カール・バルトの翻訳を続け、わたしも含め井上先生から神学校時代はもちろんのこと、その後の牧師としての歩みで励ましを受けていた先生です。
 井上先生は、その論文で、三井三池争議で、警官に対する侮辱は末梢的なことだという世間の論理がキリスト者の間でも自明のことだとしてはならない、どんな場合にも、だれに対しても誠実でなければならない、とおっしゃいました。この50年近く前の井上先生の文をいつもわたしは思い起こします。
 イエスさまはだれに対しても誠実でした。イエスさまの説教に耳を傾けている人は、ときによって、おろかもの、ばか、あほ、と言われることがあったことでしょう。けれども、イエスさまはそうした言葉で隣人に相対してはならない、というのです。
 パウロがローマの教会やコリントの教会に宛てた手紙で、偶像に供えたものを食べていいかどうか、いう問いにパウロが答えている個所があります。
 パウロは、偶像に供えた肉を食べていいか、ということは、本質的なことでないが、もし、自分が食べることで、つまずく人がいるなら、自分は食べないというのです。そして、「あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです」(ローマ14;15)、「その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです」(コリント一8:11)と書き記します。

 23節から26節をお読みします。
 「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」
 イエスさまがここで私たちに告げられていることは、人間と人間との関係が破れたままで、それが修復されないままにしておいて、神と人間との関係の修復はありえない、それゆえ、訴える人と一緒に行くとき、途中で和解しなさい、というのです。
 イエスさまのこの言葉、説教を聞いている人たちだけでなく、わたしたちにも問いかけています。
 わたしは殺していない、と言う人に、人の存在を否定するような言葉を発していないか、和解できないまま行動を共にしている人がいないか、もしいるなら和解しなさいというのです。

 明後日、2月11日は「建国記念の日」です。1966年に、昔の「紀元節」の2月11日に「建国記念の日」が制定されてから、キリスト者や歴史学者は、思想・信教の自由を守る日として、集会を続けています。明後日は、西湘南地区の集会がこの教会で行われ、わたしが奉仕させて頂きます。
 聖書は、どの人の命をも、神がひとり子をたまうほど愛された、それほど重みのあるものだと言います。けれども、日本の教会の明治以来の歴史をていねいにみていきますと、一人の人の命の重み以上に天皇の重みがありました。そのため、ホーリネス教会への弾圧に抵抗できず、近隣諸国に神社参拝を強要してしまいました。何よりも人の命を奪う戦争を、天皇が決断したので、教会も戦争に勝利するよう祈りました。
 2月11日は、神さまが、どの人の命も大切である、どの人の命も神さまは重きをおいておられる、そのことをたしかめる日ではないでしょうか。 

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