ミカ書4:1~3
エフェソの信徒への手紙6:10~20
櫻井重宣
私たちの教会が連なる日本基督教団は今から51年前に、8月の第1日曜日を平和聖日として定めました。いうまでもなく、68年前の8月6日に広島に、9日に長崎に原爆が投下されたこと、8月15日には、15年に及ぶ戦争が終結したこと、そうしたことを覚え、地に平和をと祈るためです。それとともに8月15日は中国や韓国、北朝鮮などアジアの国々は光復節、光が回復した記念日としてお祝いがなされます。長年にわたって私たちの国がアジアの諸国に大きな苦しみを与えてきたことを思わされますが、そのことを懺悔するためです。
本日は、説教に引き続き、週報に挟んであります「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」を皆さんとご一緒に告白しますが、アジアの国々に大きな苦しみを与え続けたのは、わたしたちの教会も大きな責任があったことを真摯に覚えたいと願うものです。
実は、「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」は、敗戦後22年目の1967年3月26日、イースターの日、復活主日に当時の日本基督教団議長・鈴木正久先生の名で発表されました。
どうしてこの告白が、8月15日ではなく復活主日に、しかも議長名で発表されたのかと申しますと、敗戦の前の年、1944年の復活主日に当時の日本基督教団を代表する統理・富田満先生の名前で「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰」がアジアの諸教会に送られました。この手紙はパウロの手紙にならって第1章から第4章まである長文の手紙です。
「我が日本と日本国民とがいかに高遠の理想と抱負を抱いているかは、次第に諸君の了解されつつある所であろう。」
「教団統理者は畏れ多くも宮中に参内、拝謁の恩典に浴するという破格の光栄に与かり、教団の一同は大御心の有難さに感泣し・・・」
いかにこの戦争が神さまの御心にかなう戦争かを繰り返し述べた書翰です。鈴木正久先生は、第二次大戦下にあって、教会が陥った過ちをアジアの諸教会に真摯に告白しなければならないことを覚え、1967年の復活主日にこの告白を表明したのです。
ところで、夏の礼拝で、毎年、旧約聖書の中の一つの書を取り上げ、地に平和をと祈ることにしています。今年は預言者ミカに耳を傾けています。今年の夏、ミカ書を取り上げようとしたのは、矢内原忠雄先生が1941年8月24日と25日、そして1942年11月にミカ書の講義をされたことです。すでに中国との戦争は始まっていましたが、アメリカやイギリスとの戦争が始まる直前、そして戦争が始まって1年、泥沼に入り込みどうしようもない現実のただ中で、1941年と1942年、昭和で申しますと、昭和16年の8月と17年の11月に矢内原忠雄先生はミカ書を取り上げておられます。
私たちの国は今、近隣諸国から、過去の歴史に目を閉ざしているのではないか、と批判されています。今から28年前、敗戦40年を記念して『荒れ野の40年』と題して連邦議会で演説したヴァイツゼッカー大統領は「過去に目を閉ざすものは、現在にも盲目となります。過去の非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです」と語りました。今年の夏は、矢内原先生、ヴァイツゼッカー大統領に励まされて、預言者のミカの語ることに耳を傾けたいと願っています。
預言者のミカはイザヤとほぼ同じ時代、イエスさまのお生まれになる700年位前に活躍した預言者です。先回は1章と2章に思いを深めましたが、今日は3章と4章を学びます。
3章の冒頭に「指導者たちの罪」とあります。いつの時代も、戦争の道へと国が進みゆく時、指導者に責任があります。冒頭の1節にこうあります。
「わたしは言った。聞け、ヤコブの頭たち イスラエルの家の指導者たちよ。正義を知ることが、お前たちの務めではないのか」、と。2節には、善を憎み、悪を愛する者、3節には、わが民の肉を食らい、皮をはぎとり、骨を解体して 鍋の中身のように、釜の中の肉のように砕く、とあります。指導者たちすなわち政治家は、民一人一人のために心を砕かなければならないのに、民の肉をくらい、皮をはぎ取るような存在となっているというのです。
そして、5節には「わが民を迷わす預言者たちに対して 主はこう言われる。彼らは歯で何かをかんでいる間は 平和を告げるが その口に何も与えない人には戦争を告げる」、と。
預言者たちは、歯ごたえのある食物をもらえば平和を告げる、その口に何も与えない人には戦争を告げる、というのです。エレミヤは、国に危機が迫っているのに、平和だ、平和だという預言者は偽りの預言者だと言っています。ミカは、政治家から、おいしい食べ物をもらって平和だ、平和だという預言者は、わが民を迷わす預言者だ、というのです。
そうした預言者は、6節に記されているのですが、危機が迫っても語るべき言葉を持ち合わせない、というのです。
けれども、と言って、ミカは自分の全存在をかけてこう語ります。8節です。
「しかし、わたしは力と主の霊 正義と勇気に満ち ヤコブに咎を イスラエルに罪を告げる」、と。
自分ひとりかも知れない。わたしは主の霊を与えられ、ヤコブに咎を、イスラエルに罪を告げる、と。矢内原忠雄先生が戦時下にミカに心を寄せた思いがここにあります。
エレミヤも、「主の名を口にすまい もうその名によって語るまい、と思っても 主の言葉は、わたしの心の中 骨に閉じ込められて火のように燃え上がります。 押さえつけておこうとして わたしは疲れ果てました」、と語っています。
ミカも、エレミヤも、どうしても語らざるをえない、と言って語るのです。
そして9~12節にこうあります。
「聞け、このことを。ヤコブの家の頭たち イスラエルの家の指導者たちよ。正義を忌み嫌い、まっすぐなものを曲げ 流血をもってシオンを 不正をもってエルサレムを 建てる者たちよ。頭たちは賄賂を取って裁判をし 祭司たちは代価を取って教え 預言者たちは金を取って託宣を告げる。しかも主を頼りにして言う。『主が我らの中におられるでは ないか 災いが我々に及ぶことはない』と。それゆえ、お前たちのゆえに シモンは耕されて畑となり エルサレムは石塚に変わり 神殿の山は木の生い茂る聖なる高台となる。」
ミカが自分の全存在をかけて、指導者たち、祭司たち、預言者たちの罪を指摘するのです。
そして、先程お読みいただいた4章1節から3節でミカは、こう語ります。
「終わりの日に 主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち
どの峰よりも高くそびえる。もろもろの民は大河のようにそこに向かい
多くの国々が来て言う。
『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。
わたしたちはその道を歩もう』と。
主の教えはシオンから 御言葉はエルサレムから出る。
主は多くの民の争いを裁き はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。」
今、指導者たちの罪、人間の罪から戦争が相次いでいるが、終わりの日には、主の神殿はどの峰よりも高くそびえる。もろもろの民が主の山に登ってくる、そして、神さまは多くの民の争いを裁き、強い国々を戒められる、そうすると、彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする、国は国に向かって剣をあげず、もはや戦うことを学ばない、とミカは預言するのです。
そして、6節と7節でこう語ります。
「その日が来れば、と主は言われる。わたしは足の萎えた者を集め
追いやられた者を呼び寄せる。わたしは彼らを災いに遭わせた。
しかし、私は足の萎えた者を残りの民としていたわり
遠く連れ去られた者を強い国とする。シオンの山で、今よりとこしえに
主が彼らの上に王となられる。」
戦争になると、強い人が期待される、足の不自由な人は追いやられる、しかし、終わりの日、足の不自由な人も呼び寄せられる、というのです。
この3節の預言は、預言者イザヤも同じ預言をしています。どちらが先か、ということで意見の相違があります。ある人はイザヤ、ある人はミカ、またある人は、イザヤでもない、ミカでもない、だれかが語った預言をイザヤもミカも引用しているのだ、と。
それでは、この預言は、どういう背景でなされたのでしょうか。
預言者のヨエルは、「お前たちの鋤を剣に、鎌を槍に打ち直せ」と語ります。戦争を繰り返す民、指導者に対する逆説的な預言です。イザヤやミカは平和への願いが繰り返し挫折するという苦しみを味わい続けたのですが、絶望することなく、「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」と預言したのです。
広島の平和記念公園に時計があります。この時計には三つの時計があります。一番上の時計は時間を知らせる時計です。二番目の時計は、広島に原爆が投下されてからの日数です。24837日とあります。三番目の時計は、世界のどかで核実験されてからの日数です。どこかの国が核実験するとゼロになります。昨年、アメリカが臨界前核実験でゼロになり、今年は北朝鮮が核実験を行い、今175日です。三番目の時計がゼロになると、意気消沈します。終わりの日まで、戦争がなくならない、つらい思いになります。
けれども、預言者は絶望しません。終わりの日、必ず、剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とし、国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない、そのことを預言するのです。神さまはそうした平和を用意しておられるというのです。
関根正雄先生は、イザヤもミカもこの預言を、白鳥の歌、すなわち、人生最後の歌として、預言しているとおっしゃっています。すなわち、人生の最後に、剣を鋤に、槍を鎌に、もはや戦うことを学ばない、とイザヤとミカは歌ったというのです。
先月、7月12日 国連本部で16歳のパキスタンの少女マララ・ユスフザイさんが演説しました。昨年10月、パキスタンで女子教育の権利を求めていたマララさんがイスラム過激派に銃撃されました。奇跡的に回復し、今、イギリスで学んでいますが、7月12日はマララさんの16歳の誕生日でした。マララさんはこう語りました。
「わたしは過激派を憎んでいない 過激派の子どもたちを含むすべての子どもに教育の機会を与えて欲しいと伝えるためにやってきた。」「本を手に取って。一人の子ども、一人の先生、一冊の本、一本のえんぴつが、世界を変えることができる」、と。
本を手に取って、一人の先生、一冊の本、一本の鉛筆が世界を変える、というマララさんの演説に世界中の人々が感動しました。
マララさんの演説を聞いて思い出したのは美空ひばりさんが歌った「一本の鉛筆」という歌です。今から39年前、1974年に広島で初めて平和音楽祭が開催されました。美空ひばりさんはこの音楽祭のため、松山善三さんに作詞を依頼しました。松山善三さんが、美空ひばりさんの要請に応えて作ったのが「一本の鉛筆」でした。美空ひばりさんは原爆の痛みを、悲しみを心深く覚えながら歌いました。
「一本の鉛筆があれば 私は あなたへの愛を書く
一本の鉛筆があれば 戦争はいやだと 私は書く
一本の鉛筆があれば 八月六日の朝と書く
一本の鉛筆があれば 人間のいのちと書く」
美空さんは、「どんなに茨の道が続こうと、平和のため我歌わん」、そうした思いでこの歌を心を込めて歌いました。
5年前の8月12日、広島教会員であった東光 理さんという方が83歳で亡くなりました。68年前の8月6日、東光さんは爆心地から1キロの地点で被爆しました。東光さんは長年にわたってあの日のこと、すなわち原爆が投下されたときのことをお話しになりませんでした。話すのがつらい、いやだ、とおっしゃっていました。そうした東光さんが被爆40年目のとき、50年目のとき、ようやく重い口を開いてお話し下さいました。
8月7日、原爆投下の翌日、相生橋のところで、二人の白人に石を投げている光景が目に入ったというのです。その白人は7月末、広島で米軍機が撃墜され捕虜となった米兵でした。その二人の米兵に軍人が扇動し、そこに居合わせていた人々が、お前の国がこんなひどい爆弾を落としたので、こんな惨状を引き起こしたと言って石を投げつけていたのです。原爆で23名の米兵が亡くなりました。そのうちの何人かはこうしてリンチで殺されたのです。
東光さんは、1945年2月、戦争末期、御両親の信仰受け継いで洗礼を受けました。19歳でした。東光さんは子どもの頃から、「平和ならしむる者は幸い」という聖書の言葉に励まされ、「和」という字が大好きでした。洗礼のときも、この聖句に励まされました。しかし、8月7日、石を投げつけていた人々に、米兵への石投げやめろ、と言えなかったのです。そのことが東光さんの心を苦しめたのです。その苦しみを戦後60数年にわたって負い続けたのです。
東光さんは、そうした苦しみを負い続けながら、「平和をつくり出す人たちは、さいわいである」という聖句の持つ重みを証し続けました。東光さんの「白鳥の歌」は「平和をつくり出す人たちはさいわいである」です。
わたしたちの世界は平和がなかなか実現しない世界ですが、「平和を作り出す」ことに絶望せず、平和の種を蒔き続けたいと心から願うものです。