2013年4月7日 礼拝説教「教会の土台はイエス・キリスト」

詩編127:1~5
コリントの信徒への手紙 一 3:10~17

櫻井重宣

 今日は、今年度2013年度の最初の日曜日です。毎年、週報の右上に、本年度の主題と聖句を掲げています。今年度のわたしたちの教会の主題は「教会の土台はイエス・キリスト」、聖句は、コリントの信徒への手紙(一)3章11の「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれも他の土台を据えることはできません」です。
 実は、咋年10月28日、わたしたちの教会の創立85周年記念礼拝のとき、今日と同じコリントの信徒への手紙一3:10~17をテキストにして御一緒に学んでいます。そのときは、コリント教会が形作られる経緯、そして、わたしたちの茅ケ崎教会の創立前後のことに思いを深めながら、教会の土台はイエス・キリストである、ということを心に留めました。そこで、今日は、イエスさまが「教会」ということで、どういうことをおっしゃっているの、そのことに耳を傾けながら、今年度、わたしたちの教会が主題として掲げる「教会の土台はイエス・キリスト」ということに思いを深めたいと思います。
 さて、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書で、イエスさまが、「教会」という言葉をおっしゃっているのは、たった三回だけです。使徒言行録やパウロの手紙やヨハネの黙示録には何度も「教会」という言葉が記されていますが、イエスさまが「教会」という言葉を口にしているは、マタイによる福音書16章18節と18章17節に二回、計三回です
 最初のマタイによる福音書16章18節にこう記されています。
 「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上に教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」
 これは、イエスさまが、弟子たちに、人々は、人の子、すなわちイエスさまのことを何者だと言っているか、とお尋ねになったとき、弟子たちは、洗礼者ヨハネだという人も、エリヤだという人も、エレミヤだという人もいますと答えました。そうしますと、イエスさまは、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と言われました。そうしますと、ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。このペトロの告白は、口語訳では「あなたこそ生ける神の子キリストです」です。ペトロがそう答えたとき、イエスさまは「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」とおっしゃり、それに続いて「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」とおっしゃったのです。
 岩という語は、ギリシャ語で「ペトラ」です。ですから、ペトロは「岩」という意味を持つ名前です。その、ペトロに向かって、イエスさまは、この岩の上に、わたしの教会を建てるとおっしゃったのです。ですから、古来、イエスさまが教会を建てるとおっしゃったのは、ペトロの上なのか、ペトロの信仰告白の上なのか、ということについて見解が分かれます。
 実は、カトリック教会では、ペトロの上に教会を建てる、と理解しています。最初の教会はペトロだ、そういう受けとめ方です。先日、新しい法王としてフランシスコ法王が即位しましたが、カトリックの場合、法王はペトロの後継者です。それに対して、プロテスタントの側は一般的に、「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰告白の上に教会が建てられる、という受けとめです。
 けれども、わたしは、カトリックとプロテスタントのどちらの見解を取るかということに関心を示すよりは、「あなたは神の子キリストです」と告白したペトロの上にわたしの教会を建てるとイエスさまがおっしゃっておられることに思いを深めたいと思います。
 どういうことかと申しますと、ペトロはこの直後、イエスさまが、エルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、とおっしゃったとき、わきへお連れしてとんでもないことです、そんなことがあってはなりません、といさめました。そうしますと、イエスさまは、ペトロに、サタンよ、引き下がれ、わたしの邪魔をするものだ、とお叱かりになりました。また、十字架を前にして、ペトロはイエスさまを三回も知らないと言ってしまいました。
 けれども、その破れのあるペトロ、弱さを持つペトロが、精一杯なした信仰告白の上にイエスさまの教会が建てられたのです。もう少し言うなら、わたしたち一人一人も小さなものです。弱さを持ち、破れがあります、そのわたしたちが精一杯「イエスさまがわたしたちの救い主だ」と信仰告白する、その上にイエスさまは教会が建ててくださるのです。
 ペトロが何度失敗しても、イエスさまがペトロの立ち直りのため祈ってくださいます。立ち直ったそのペトロが「あなたは神の子キリストです」と告白する、その告白の上に教会が建つというのです。そのことが、教会の土台はイエス・キリストだということです。ペトロが岩のような、堅固な信仰を持っていたので、その上に教会が建てられたというのではないのです。
 パウロは、教会の土台はイエス・キリストだ、ということを語るに先立って、神さまは、無きに等しい者をあえて選ばれて教会を形作られた、だから、教会が語ることは、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリストのことだけだ、と語ります。このことは、ペトロの上に教会を、ということと通じ合うことです。すなわち、神さまが教会を形作るとき、弱さのあるわたしたちを大切なメンバーとして位置付けられるのです。

 もう一か所は、同じマタイ福音書18章15~17節です。こう記されています。
 イエスさまの思いをお伝えしながら読んでいきますと、こうです。
 兄弟が、ギリシャ語の原文は、[あなたの]兄弟です。あなたの兄弟が、あなたに対して罪を犯したら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れてくれたら、[あなたの]兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ教会に申し出なさい、と。
 イエスさまは、教会というところは、あなたの兄弟が罪を犯したら真剣に祈る、そうした群れ、共同体だというのです。教会は「あなたの兄弟」のために真剣に祈るところですが、どうしても教会の言うことも聞き入れられないときがある、そのときは、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい、とイエスさまはおっしゃっておられます。
 トゥルナイゼンという牧師は、ここは、こういうことだと言います。イエスさまは異邦人と徴税人に繰り返し憐れみを、赦しを差し出した、教会が真剣に祈っても聞き入れられない時は、イエスさまに委ねよう。イエスさまはその兄弟のために祈り、その兄弟を憐れみ、赦しを差し出される方だから、と。
 教会では、どんなことがあってもこの人は駄目だと言わないで、祈る、どうしても聞き入れられない時はイエスさまにおゆだねしよう、というのです。
 何度失敗しても、弱さをさらけだしても、イエスさまはペトロのため、わたしたちのため祈ってくださいます、そのことを感謝して受けとめたとき、イエスさまこそまことの救い主と告白します、教会はこうしたペトロ、わたしたちの信仰の告白の上に建てられます、ですから、教会の土台はイエス・キリストなのです。そして、あなたの兄弟が罪を犯したら、その兄弟のため真剣に祈る、だめなら二人また三人で真剣に祈る、20節にあるように、イエスさまも一緒に祈ってくださる、それでもだめなら教会に委ねよう、教会はその兄弟が立ち直るようあきらめないで祈る群れだ、それでも聞き入れられないなら、自分たちで判断せず、イエスさまにお委ねしようというのです。
 こうしたイエスさまの心を心としてパウロが、コリントの教会へ宛てて書いた手紙で、「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません」と語っているのです。

 週報に記しましたが、先週の木曜日4月4日、わたしたちの教会から祈りをもって送り出した柳田剛行先生が逝去されました。61歳でした。一昨年10月の教会創立記念日にお招きして説教して頂きましたが、悪性の病のため、咋年から闘病生活をおくっておられ、4日に逝去されました。先週の日曜日、イースター礼拝の日をもって辞任され、隠退されたばかりです。
 柳田先生は、農村伝道神学校を卒業後、25年にわたって兵庫の和田山地の塩伝道所、埼玉の所沢みくに教会、神奈川の橋本教会、そして台湾長老教会国際日語教会、そして新潟の見附教会で伝道、牧会に励まれました。
 柳田先生が奉仕した教会は、最後の任地となった見附教会に象徴されるように小さな教会が多かったことを思います。

 ある一人の牧師がこういう趣旨のことを書いておられたことをいつも印象深く思い起こします。
 「教会はこの世では、弱い、小さな存在だ、ほとんどその存在価値をもっていないと思われるほどささやかな世の片隅におかれた存在だ。そして教会が証しするイエス・キリストは、『侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、侮られた』方だ。しかし、この教会の存在を軽んじてはならない。教会にイエス・キリストがいまし、ここがイエス・キリストの体であるということは深い意味を持っている。」

   柳田先生は、25年間、教会に仕え、イエスさまを証し続けました。わたしたちは、「教会の土台はイエス・キリスト」という主題を掲げて今年度歩み出そうとしたとき、この教会が祈りをもって伝道の第一線に送り出した柳田先生の死という悲しい知らせを受けたのですが、柳田先生から、自分が仕えた教会の土台はイエス・キリストだ、イエスさまが土台となって、わたしの上に教会を建ててくださった、そうしたメッセージをご一緒に聴きたいと願うものです。
 パウロは、コリント教会へ宛てた手紙の最後のところで、イエス・キリストのよみがえりを語り、「主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはない」と語っています。教会に仕え、御言葉を宣べ伝えた柳田先生の労苦は無駄になりませんし、先生が蒔かれた御言葉は終りの日まで成長し続けるのです。

 教会の土台はイエス・キリストである、ということは福音そのものです。

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