2013年1月27日 礼拝説教「キリストの系図に登場するタマル」

創世記38:1~11
マタイによる福音書1:1~6a

櫻井重宣

 私たちは聖書から慰めを、励ましを、希望を与えられたいと願って耳を傾けるのですが、今司会者に読んで頂いた創世記38章からどのようなメッセージをここから聞きとったらよいのか、とまどいを覚えます。少し忍耐を必要とするかもしれませんが、聖書の語らんとしていることに忍耐して耳を傾けたいと願っています。
 創世記12章から、アブラハム、イサク、ヤコブの物語を学び、前回の37章からヨセフ物語が始まりました。50章まで続きます。けれども、38章はヨセフ物語ではなく、ヤコブの息子ユダとユダの息子のお嫁さんタマルの記事です。
 私たちが既に心に留めてきたように、ヤコブには12人の息子が与えられました。ヤコブと妻レアの間に、ルベン、シメオン、レビ、ユダです。そして、もう一人の妻ラケルの召し使いビルハとの間にダンとナフタリ、レアの召し使いジルパとの間にガドとアシェル、そして今一度レアとの間にイサカルとゼブルン、そしてラケルとの間にヨセフとベニヤミンの12人です。最後のベニヤミンはラケルが自分の命と引き換えのように産んだ息子です。
 そういうわけで、今日の38章はヤコブの四男ユダとユダの息子のお嫁さんタマルの記事です。
 1節を見ますと、ユダは兄弟たちから別れて、アドラム人のヒラという人の近くに天幕を張りました。遊牧生活です。アドラムはベツレヘムのおよそ西南20キロにあり、兄弟たちがいたヘブロンから言いますと10数キロ北に位置した地です。ユダはその地でカナン人のシュアという人の娘を見染めて結婚し、エル、オナン、シェラという三人の男の子を与えられました。
 三人の息子たちは成長し、ユダは長男のエルにタマルと言うお嫁さんを迎えました。ユダの妻も息子の嫁タマルもユダヤ人からすれば異邦人です。おもしろいことに、ユダは、自分はシュアの娘を見染めて結婚したのですが、息子のお嫁さんは父親のユダが探し出しています。けれども、何があったのでしょうか、長男のエルは結婚してまもなく若くして死んでしまいました。創世記の著者は「主の意に反したので、主は彼を殺された」と記しています。長男が死んだので、ユダは次男のオナンに「兄嫁のところに入り、兄のために子孫を残しなさい」と言ってオナンとタマルを結婚させました。
 実は、その家の名前と財産を継ぐために。兄が子どもを残さないで死んだとき、弟が兄嫁と結婚することが聖書の世界でも求められていました。申命記にこう記されています。
 「兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子どもを残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。」
 こうした結婚はレヴィラ―ト婚と言われます。ルツ記の背景にもこのレヴィラ―ト婚があります。
 ユダはオナンにタマルと結婚し、兄弟の義務を果たし、兄のために子孫を残すように求めたのですが、オナンはその子孫が自分のものとならないことがわかっていたので、「兄嫁のところに入る度に子種を地面に流し」ました。けれども、このオナンのしたことは「主の意に反することであったので」彼もまた死んでしまいました。二人も息子が死んでしまったので、ユダは三男のシェラが兄たちのように死んではいけないと思って、タマルにシェラが成人するまで実家に帰しました。実際はシェラと結婚させる気持ちはありませんでした。
 かなりの年月がたちました。タマルは実家で、やもめとして暮していたのですが、いつまでもユダからシェラと結婚するようにと求められませんでした。そうこうするうちにユダの妻、タマルからすれば姑が死にました。
 ユダが喪に服する期間が終わったのち、ユダは友人のアドラム人ヒラと一緒に羊の毛を売るためにティムナにやってきました。タマルはそのことを伝え聞いて、一大決心をしました。シェラが成人したのにその妻としてもらえないので、最後の手段としてユダとの間に子どもを産み、ユダの家の嫁としての務めを果たそうとしたのです。
 そこでタマルは、やもめの着物を脱ぎ、ベールをかぶって身なりをととのえ、神殿娼婦の衣服をまといました。この地方では、お祭りのとき、神殿に巡礼に来た男性と娼婦と交わる習慣があったようで、タマルはそれを利用したものと思われます。羊の毛を売ってお金を得たユダは、妻を亡くしたさびしさもあって路傍にいるタマルに「あなたのところに入らせてくれ」と願いました。タマルが顔を隠していたので、ユダは息子の嫁タマルだと分かりませんでした。タマルは「わたしの所にお入りになるのなら、何を下さいますか」と言いますと、ユダは子山羊一匹を届けようと言いました。すると、彼女は約束のものを送り届けてくださるまで、保証の品をと言いますと、ユダはひもの付いた印章と杖を差し出しました。
 そして、ユダはタマルのところに入りました。ユダは帰宅してすぐ友人に託して、子山羊を届けようとしてそれらしき人を探したのですが、見つからず、あげくのはてティムナには神殿娼婦はいないと言われました。ユダは、印章と杖は戻らないのですが、それ以上探すことをあきらめました。
 一方、タマルは、ユダとの交わりで身ごもりました。
 三カ月ほどたって、ユダに、タマルが姦淫し、身ごもったと告げる人がいました。ユダは立腹し「あの女をひきずり出して、焼き殺してしまえ」と言いました。タマルが引きずりだされようとしたとき、タマルはユダに使いの人を送ってこう言いました。「わたしは、この品々の持ち主によって身ごもったのです。どうか、このひもの付いた印章とこの杖とが、どなたのものか、お調べください」、と。ユダは調べて自分のものであるとすぐ気がつきました。そして、「わたしよりも彼女の方が正しい。わたしが彼女に息子のシェラを与えなかったからだ」と言いました。こうしてユダはタマルの胎内に宿った命が自分の子であることを公にしたのですが、再びタマルと交わることはありませんでした。
 いよいよ出産のとき、胎内には双子がいました。出産のときのことを創世記の著者はこう記しています。
 「出産のとき、一人の子が手を出したので、助産婦は、『これが先に出た』と言い、真っ赤な糸を取ってその手に結んだ。ところがその子は手を引っ込めてしまい、もう一人の方が出てきたので、助産婦は言った。『なんとまあ、この子は人を出し抜いたりして。』そこで、この子はペレツ(出し抜き)と名付けられた。その後から、手に真っ赤な糸を結んだ方の子が出てきたので、この子はゼラ(真っ赤)と名付けられた。」

   このようにわたしたちは創世記38章に記されていることに思いを深めてきたわけですが、最初に読んで頂いたマタイによる1章にイエス・キリストの系図が記してあります。名前が次から次と記され、うんざりするような箇所ですが、実は、今、私たちが心に留めたユダとタマルの名がここに記されています。 2節と3節をもう一度読んでみます。
 「アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはへツロンを、へツロンはアラムを」とあります。おわかり頂けるように、今日御一緒に学んだ創世記38章に記されるユダがタマルによってペレツとゼラが与えられたことが、イエス・キリストの系図に記されているのです。
 ユダヤの人は系図を大切にしました。系図を大切にしたユダヤの人々に、福音書記者マタイはイエス・キリストの系図を冒頭に書き記し、イエスさまの系図はダビデ、アブラハムにさかのぼるというのです。ふつうですと、イエスさまの、先祖はダビデに、さらにさかのぼるとアブラハムまでいく家系であることを誇らしげに語っているように思われますが、マタイの思いは違います。
 ヤコブの次に名前がでてくるのは、ヤコブの長男のルベンではありません。また、エジプトで王さまの次の位について活躍したヨセフでもなく、四男のユダです。しかもユダはタマルと結婚した二人の息子を亡くし、更にその後、妻を亡くし、淋しさから娼婦だと思って交わった息子の嫁タマルとの間に与えられたペレツそしてゼラがこの系図に記され、それがダビデに、そしてイエスさまに至るのです。
 マタイ福音書の系図を見ていきますと、タマルもそうですが、5節のラハブ、ルツも異邦人です。また、6節後半にはウリヤの妻がでてきます。ダビデが姦淫したウリヤの妻バト・シェバです。

   聖書を読み進みますと、ヘブライ人への手紙があります。迫害の激しい時代、殉教者が相次ぐ時代に書かれた手紙ですが、だれが書いたのか分かりません。この手紙にこういうことが記されています。
 「イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない。」(2:11)、「神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。」(11:16)
 すなわち、ヘブライ人への手紙の著者は、イエスさまはどんな人もわたしの兄弟だ、姉妹だと言ってくださる、人間的には恥ずかしいような人も兄弟、姉妹と呼んで恥ずかしいなんてちっとも思わない方だ。神さまもそうだ、人間的に恥ずかしいと思われるような人が、わたしの神さまだとおっしゃっても恥ずかしいなんておっしゃらない、どんな人もわたしにとって大切な人だとおっしゃってくださる方だ、というのです。イエスさまが十字架にお架かりになったということは、その人のためには十字架に架かったってちっとも恥ずかしいなんて思わない、それほどまでして私たちを抱え込んでくださる方だ、というのです。
 わたしたちは、ユダとタマルの記事は声を出して読むこともためらうのですが、イエスさまは、あなたの先祖にそういう人がいるが、恥ずかしくないのと言われることがあっても、イエスさまは恥ずかしい、とおっしゃいません。イエスさまは、人間の弱さ、醜さも全部抱え込んで、最も低いところでユダを、タマルをそしてわたしたちを抱え込んでくださる方なのです。
 ユダを、タマルを、ペレツを、ゼラをちっとも恥とされずに抱え込んでくださるイエスさまは私たちも抱え込んでくださるのです。

 これからご一緒に歌う讃美歌の398番の作詞者は葛葉国子さんです。幼稚園の先生を志していましたが、病気のためその道が断たれてしまいました。何十年と病床にあった方です。失意の中にあった葛葉さんを励ましたのは大中寅二先生です。葛葉さんが作った詩に曲をつけ、幼稚園でうたうたくさんのうたや、讃美歌ができました。
 398番の2節はこういう歌詞です。
 「生きの身の われのいだきし 
 のぞみみな 今はついえぬ
  ひたすらに 主を呼びまつる 
 わが声に答えたまえ わが主よ」

 イエスさまは、抱いていた希望がなくなってしまった人も大切な人として抱え込んでくださる方です。挫折しても、病気になっても、どんなことがあっても大切な人として抱え込んでくださる方です。
 ユダとタマルのことを通して、神さまの大きな愛を心深く覚えたいと願うものです。 

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