2010年6月6日 礼拝説教「神の義と愛のあえるところ」

アモス書3:1~2
ローマの信徒への手紙1:18~32

櫻井重宣

 ただ今、パウロがローマの教会に書き送ったローマの信徒への手紙1章18節から32節に耳を傾けました。
 先回学んだ1章16,17節には、この手紙の主題が記されていました。「福音には、神の義が啓示されています」、と。そして、今日の箇所1章の18節から3章の20節まで、「人間の罪と神の裁き」がテーマです。1章18節から32節までは、異邦人、ユダヤ人以外の罪が、2章1節から3章20節までは、ユダヤ人を含めすべての人の罪が問われています。とくに1章30節から32節には21の罪悪表が記されています。これでもか、これでもかと罪が指摘されています。
 二十世紀の最大の神学者と言われるK.バルトは、1918年に『ローマ書』を出版しました。第一次大戦直後です。実は、十九世紀はローマン主義の影響で、人間の力、すばらしさが謳歌されました。しかし、そのすばらしい人間が、第一次世界大戦で、毒ガスを使用し、無差別の殺人を行なったので、ヨーロッパの思想界は大きな衝撃を受けました。バルトは、『ロ-マ書』で、人間は神の前で罪ある存在である、神さまの光の中で初めて人間の姿が明らかにされることを語りました。そのことが、毒ガスを使用し、無差別殺人を犯す人間とは何か、ということを問うているヨーロッパ思想界に大きな慰めを与えたのです。
 今日の時代も政治の分野も、経済の分野も深刻な状態です。それだけに、私たちは、聖書から人間の真の姿を学び、その人間に神さまがどのように関わっておられるのかに耳を傾ける必要があるのではないでしょうか。

先ず、18節をもう一度お読みします。 
 ≪不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。≫
 正義ではなく不義によって真理、神さまの誠実を妨げるあらゆる不信心と不義に対して神の怒りが天から啓示されるというのです。神さまは、こういう状態を見てみぬふりをしないというのです。しかし、ここには、天変地異とか具体的な神さまの怒りは記されていません。
 次に19節から23節をお読みします。
 ≪なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間の鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。≫
 神さまを知りながら、神さまを神さまとしてあがめないというのです。パウロは、人間が謙遜さを見失い、驕るとき、神さまが分からなくなるというのです。
 預言者エリヤは、大きな苦しみの中で、自らの限界を知らされ、ホレブ山に来た時、神さまから、神さまの前に立ちなさい、と言われたのですが、激しい風の中にも、地震の中にも、火の中にも神さまはおられず、そのあと静かにささやく声で神さまがエリヤに語ったというのです。静かな声を聞く謙遜さが必要なのです。
 24節から28節をお読みします。
 ≪そこで、神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、ア―メン。それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを受けています。彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。≫
 このところで、私たちは二つのことを心に留めたいと思います。
 ひとつは、24節の「するにまかせられ」、26節の「まかせられました」、28節の「思いに渡され」は、皆、同じ言い回しです。いずれも、「パラディドーミ」というギリシャ語です。「パラディドーミ」は、本来、引き渡すという意味の語です。パウロは、神さまは、途中でストップさせるというのではなく、とことんなすにまかせる、そういうかたちで怒りを現されたというのです。
 ある方にご教示頂き、最近出版された『沈黙の静けさの中で』という書を手にしました。この書は《みことばに聴く》というテーマで十数人の方が書いています。そして、この本の題名にもなった「静けさの中で」と言う題で記している方は、今日の箇所、ローマの信徒への手紙1章18節から32節をテキストにしています。この文には、こういうことが記されています。
 「我々は神の怒りを、すさまじい天変地異や戦争など、明らかな形での目に見える災いや出来事を考えます。——–しかしパウロは違ったふうに考えているようです。『するに任せられた』、それが怒りの現れであるような形が少しもみえないような『怒り』、そのような沈黙の『静けさのなかで』示される怒り、そのようなものをパウロは考えていたように思われます」、と。
 そして、パウロは、沈黙の静けさの中で神さまが「するに任せられた」のは、   
 偶像崇拝と性的な乱れです。この箇所は、同性愛を否定するかのような読み方がなされ、わたし自身そういう読み方をしてきました。しかし、パウロがここで問題にするのは、男性に対し、女性に対し人格的な関わりをしないことです。
 ところで、パラディドーミが聖書の中で用いられる有名な箇所は、イスカリオテのユダがイエス様を「引き渡した」ときの、「引き渡す」です。この「引き渡す」が、パラディドーミです。
 わたしが心深く思わされるのは、パウロが、とことんおちるところまで、するに任せた、そのところに、イエス様が引き渡された、ということです。
 作家の高史明さんは「どん底とは、ほんとうの人間だけが降り立つことのできる場所であった。どん底に降りること、それはそこへ降りる道を知ることなくしてはできないことだが、それとともに降り立ったどん底からすべてを見ることができる目と、ふたたび這い上がる力を持たずには、降りきったといえるところまでは降りることのできない場所である」と言っています。
 パウロが語りたいことは、なすに任せられたそのところに降り立ったとき、十字架に架けられたイエス様がおられたといことです。神の怒りが天から啓示されたというのは、そういうことです。
 第一次世界大戦後、ヨーロッパは、毒ガスや無差別殺人で大きな衝撃を受けたのですが、それから20年後に第二次大戦がありました。ドイツは数百万のユダヤ人を、日本はアジアの地で多くの人を殺害し、連合国は原爆を使用しました。近く、茅ケ崎で上演される『哀しみの南京』を演じるお二人は、自分たちの父親が中国侵略や南京虐殺に加担していたことを知り、その苦しみを負い続けています。あのとき、南京で最後まで残って人々と苦しみを共にしたのは女性の宣教師でした。その女性宣教師は本国に戻ったあと、堪え切れず自ら命を絶ったと言われます。本当に辛いことです。パウロが、そういう人間の罪の織り成されたところ、集約されたそういう底に十字架のイエス様が引き渡されているのです。よみがえられたイエス様と一緒に這い上がる道があるのです。


 もうひとつ、24節から28節で、心に留めたいことは、25節で、パウロが「造り主こそ、永遠にほめたたえられるべきです」と神さまを突然賛美していることです。こういうかたちで、この世界に神さまがこの世界に関わっていることを知ったパウロは神さまを賛美せざるをえないのです。パウロは、どんなに絶望と思われるようなときにも、「神さま」、と口にしたとき賛美せざるをえなかったのです。
キリスト教出版に70年間、尽力された秋山憲兄さんは、「インマヌエル・アーメン」をいついかなる時でも、祈りつつ、念じつつ、唱えつつ歩き、生きておられるそうです。秋山さんの信仰にあらためて教えられた思いです。  


 最後に29節から32節をお読みします。
 ≪あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけでなく、他人の同じ行為をも是認しています。≫
 21の罪の表です。  
 こうした人間に、神さまの正しさ、神の義が啓示されたのです。


 罪にうなされる程、自らを深く見つめた高倉徳太郎先生のご子息の高倉徹先生もご自分の罪を深く見つめ、それだけにキリストの贖いを、心を傾けて証しされた牧師ですが、高倉徹先生の絶筆となったのは、1985年12月の『信濃町教会月報』でした。「バリケードの中での待降節」という文です。1945年の待降節を、タイのバンコックの郊外にあったバリケードに囲まれたイギリス軍による捕虜収容所で過ごされたときのことを書いておられます。
 「連日の重労働と粗末な食事の厳しい生活が続けられていた。夜は一週間おきに衛兵勤務が廻ってきた。——-眼に見えるバリケードからは解放されたが、眼に見えぬバリケードである罪のなわめは、依然として、私を、教会を束縛し、がんじがらめにしている。その思いを強くさせられる戦後四〇年の昨今である。
 主イエスはわたしたち一人ひとりを罪のなわめよりときはなつために、この暗いところに、光がどこからもさしこむ余地のない絶望のただ中に主は来てくださった。『光は闇の中に輝いている。そして闇はこれに勝たなかった』(ヨハネⅠ・5)。私自身のかかえているどうしようもない闇も、この世を強力に支配している闇も、どんな闇も、もはや待降節の光をさえぎることはできないのである。」
 高倉徹先生は、神さまが怒りのゆえに「するに任せられた」そのところにイエス様が引き渡されたことを知り、大きな慰めを受けておられるのです。
 まさに「神の義と愛のあえるところ」(讃美歌262)に十字架の主がおられるのです

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