2008年6月1日 礼拝説教「福音に共にあずかる者となるために」

レビ記11章1~8
使徒言行録10章1~33

櫻井重宣

今日から新しい月、6月になりました。 15日には大森先生をお迎えして伝道礼拝を行います。一人でも、二人でもこうした機会に教会にお招きしたいと願い、祈りつつ準備をすすめていきましょう。  実は使徒言行録10章1節から11章 18節まで、異邦人のコルネリウスという人がイエス様を信じる者となるまでのいきさつが記されています。とても長い文章ですが、一人の人がイエス様を信じるまでどんなことがあったのか、さらにコルネリウスに伝道しようとするペトロの側にあった葛藤、そうしたことがていねいに記されています。今日は10章33節までですが、伝道礼拝を前にして、ご一緒にこの箇所の語ることに耳を傾けたいと願っています コルネリウスがどういう人かということが10章の1節と2節にこう記されています。

 《さて、カイサリアにコルネリウスという人がいた。「イタリア隊」と呼ばれる部隊の百人隊長で、信仰心あつく、 一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた。》

 カイサリアはパレスチナの地中海沿いの町です。そのカイサリアにコルネリウスというローマの軍人がいたのです。百人の部下がいる隊長です。軍人ではありますが、神様を畏れ、人に仕え、絶えず神様に祈る、敬虔な人でした。 今もあるのでしょうか、戦後、「コルネリウス会」という自衛隊のキリスト者の集いがありました。
コルネリウスは旧約聖書の信仰に生きていた人で、イエス様のことは知りませんでした。そして、8章に登場したエチオピアの高官のようにユダヤ人からするなら異邦人です。
3節を読んでみましょう。

 《ある日の午後三時ごろ、コルネリウスは、神の天使が入って来て「コルネリウス」と呼びかけるのを、幻ではっきりと見た。》

 私たちがまず心に留めたいことは、コルネリウスのところに最初に来たのは、神様の天使だということです。ペトロではありません。神様の方の働きかけが最初にあったのです。
 茅ヶ崎教会はこの30年の間に茅ヶ崎香川教会、茅ヶ崎南湖教会という二つの教会を生み出しました。私もかって秋田で開拓伝道を行いました。一生懸命に伝道しました。チラシを配布しました。けれども先立ったのは神様でした。私たちの思いを超えたところで神様が既に働いておられることを実感しながら開拓伝道に従事したことを思い起こします。茅ヶ崎教会のこの30年の歩みもそうであったと思います。
4節から8節にこう記されています。

 《彼は天使を見つめていたが、怖くなって、「主よ、何でしょうか」と言った。すると、天使は言った。「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。今、ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は皮なめし職人シモンという人の客になっている。シモンの家は海岸にある。」天使がこう話して立ち去ると、コルネリウスは二人の召し使いと、側近の部下で信仰心のあつい一人の兵士とを呼び、すべてのことを話してヤッファに送った。》

 コルネリウスの信仰の感化が部下にまで及んでいることが分かります。天使の言葉を聞いたコルネリウスは信仰のあつい部下と二人の召し使いをヤッファにいるペトロのところに送りました。
カイサリアからヤッファまでは50キロ位です。

ところで、神様はコルネリウスに働きかけるだけでなく、ペトロにも働きかけます。9節から12節にこう記されています。

 《翌日、この三人が旅をしてヤッファの町に近づいたころ、ペトロは祈るために屋上に上がった。昼の十二時ごろである。彼は空腹を覚え、何か食べたいと思った。人々が食事の準備をしているうちに、ペトロは我を忘れたようになり、天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。》  

 先ほどレビ記を読みましたが、レビ記の11章全体に食べてはならないとされる、汚れたものに関する規定が記されています。ですから、ペトロの前に下りてきた入れ物には、らくだ、たぬき、いのしし、とかげ、もぐらねずみ、わし、とびなどが入っていたのです。
 13節から16節を読んでみましょう。

《そして、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」と言う声がした。しかし、ペトロは言った。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」すると、また声が聞こえてきた。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」こういうことが三度あり、その入れ物は急に天に引き上げられた。》


17節と18節を読んでみましょう。

 《ペトロが、今見た幻はいったい何だろうかと、ひとりで思案に暮れていると、コルネリウスから差し向けられた人々が、シモンの家を探し当てて門口に立ち、声をかけて「ペトロと呼ばれるシモンという方が、ここに泊まっておられますか」と尋ねた。》
19節と20節です。  《ペトロがなおも幻について考え込んでいると、霊がこう言った。「三人の者があなたを探しに来ている。立って下に行き、ためらわないで一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ。」》

 当時のユダヤ人からするならば、異邦人と交わるということは、汚れた物を食するほどのことだったのです。こうしたためらいを覚えているペトロに働きかけているのは神様の霊です。コルネリウスにもペトロに働きかけるのは神様の霊です。人間の決断ではありません。

21節以下、読んでみましょう。

 《ペトロは、その人々のところへ降りて行って、「あなたがたが探しているのはこのわたしです。どうして、ここへ来られたのですか」といった。すると、彼らは言った。「百人隊長のコルネリウスは、正しい人で神を畏れ、すべてのユダヤ人に評判の良い人ですが、あなたを家に招いて話を聞くようにと、聖なる天使からお告げを受けたのです。」それで、ペトロはその人たちを迎え入れ、泊まらせた。翌日、ペトロはそこをたち、彼らと出かけた。ヤッファの兄弟も何人か一緒に行った。》

 コルネリウスの側近の部下と召使を泊らせ、次の日ヤッファからカイサリアに向けて出発しました。ヤッファの教会の友も同行しました。同行したのは6人であったと11章12節に記されています。
 使徒言行録を書いたルカは旅を大事にします。イースターの夕べ、エマオへ向かっていたクレオパたちにイエス様が同行した旅を語っています。イエス様が同行したとき、クレオパたちは心が燃えるような経験をしました。ここでもヤッファからカイサリアまで、50キロ余の旅を続けながら、ペトロは天から大きな布のようなものが降りてくるという自分の経験を語り、コルネリウスの部下たちは主人の経験を語ったものと思われます。互いに語り合い、人間の思いを超えたものがあることを覚え合いながらカイサリアに向けて歩き続けたのです。
24~26節です。

 《次の日、一行はカイサリアに到着した。コルネリウスは親類や親しい友人を呼び集めて待っていた。ペトロが来ると、コルネリウスは迎えに出て、足もとにひれ伏して拝んだ。ペトロは彼を起して言った。「お立ちください。わたしもただの人間です。」》

 一行がカイサリアに到着したとき、コルネリウスは親類や親しい友人たちを呼び集めて待っていました。コルネリウスはペトロを信頼していたことがよく分かります。
ペトロが到着したとき、コルネリウスはペトロの足もとにひれ伏しました。ペトロは彼を起して、「わたしもただの人間」「同じ人間」です、と言ったのです。  
 ペトロは、自分はイエス様の弟子だ、早くからイエス様のことを知っている、と言いません。同じ人間だ、神様の恵みという点で同じだとコルネリウスに語るのです。非常に謙遜です。アウグスティヌスは、キリスト者はどんなときにも、どんなところでも謙遜であるべきだと語っていますが、本当にそうです。

27節~29節にはこう記されています。  《そして、話しながら家に入ってみると、大勢の人が集まっていたので、彼らに言った。「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。それで、お招きを受けたとき、すぐ来たのです。お尋ねしますが、なぜ招いてくださったのですか。》
 そうしますと、コルネリウスはこう答えました。30~33節に記されています。

 《すると、コルネリウスが言った。「四日前の今ごろのことです。わたしが家で午後3時の祈りをしていますと、輝く服を着た人がわたしの前に立って、言うのです。『コルネリウス、あなたの祈りは聞きいれられ、あなたの施しは神の前で覚えられた。ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は、海岸にある革なめし職人シモンの家に泊まっている。』それで、早速あなたのところに人を送ったのです。 よくおいでくださいました。今わたしたちは皆、主がお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです。」》
 コルネリウスは最後に、「わたしたちは皆、神の前にいるのです」と語ります。ペトロもコルネリウスも謙遜です。

 このコルネリウスのことをきっかけにして異邦人伝道に初代の教会が大きく踏み出す様子が11章18節まで記されるわけですが、今日は33節までにします。
 私自身学生時代に直接教えを受けた竹森満佐一先生は『使徒行伝講解』でこういうことをおっしゃっておられます。 「伝道は、福音を聞く者が神に従うだけでなく、むしろ、福音を伝える者の方に、福音に従おうとするより大きな闘いがあるものである。」
本当にそうです。

 コルネリウスは一家そろって神様を畏れていた人です。信仰心のあつい部下もいました。ただイエス様のことは知りませんでした。けれども、異邦人であるコルネリウスに伝道するのにペトロの側に葛藤があるのです。そうしたペトロに幻が、霊が働きかけます。さらに旅を通して、ペトロは神様の御心を示され、コルネリウスに会ったとき、「わたしもただの人間です。同じ人間です」と言って、足もとにひれ伏したコルネリウスを起こしたのです。神様の働きかけで、ペトロが、神様の前にも、人に対しても謙遜にさせられていく様子を知ることができます。
 私たちの伝道もそうです。一人の友のために祈ることを通して、神様に対して、人に対して謙遜になるのです。謙遜に福音を一人で多くの方に携え、共に福音にあずかりものとなりたいと願うものです。

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