★広島の福山市にある松永教会が、本年、教会創立90周年を迎えたので、その記念礼拝に招かれ、8月8日(土)と9日(日)、松永教会で奉仕しました。牧師の吉武真理牧師は、広島教会出身で、神学生の時、当教会で夏期伝道をしました。礼拝には、ケニア人の御一家、中国や韓国から留学している方々も出席し、国際色豊かな礼拝でした。松永教会の90年の歴史を見ると、最初の10年に6人の牧師が短い期間交代を繰り返し、初代と第6代の牧師が松永教会に在職中に病気で亡くなりました。その牧師たちの死を、一粒の麦の死として受けとめ、その後の教会の歩みがあることを知らされ、厳粛な思いになりました。吉武牧師はこのたびの集会のため、暑さのなか2千枚のチラシを一軒一軒届けたことを聞き、襟を正されました。松永教会そして吉武牧師のためお祈り下さい。
★70年目の8月9日の長崎市長の平和宣言にこういう一節がありました。 「原爆や戦争を体験した日本、そして世界の皆さん、記憶を風化させないためにも、その経験を語ってください。若い世代の皆さん、過去の話だと切り捨てずに、未来のあなたの身に起こるかもしれない話だからこそ伝えようとする、平和への思いをしっかり受け止めてください。『私だったらどうするだろう』と想像してみてください。そして、『平和のために、私ができることは何だろう』と考えてみてください。若い世代の皆さんは、国境を超えて新しい関係を築いていく力をもっています。」 この平和宣言に続いて、被爆者代表として、当時16歳だった谷口稜曄(すみてる)さんが、平和への誓いを語りました。谷口さんは、あの日、爆心地から1・8キロの町を郵便配達していたとき、「背後から虹のような光が目に映り、強烈な爆風で吹き飛ばされ道路に叩きつけられ」ました。背中一面の大火傷のため、3年7ケ月の病院生活、その内の1年9ケ月は、うつ伏せのまま死の淵をさまよい、胸は床擦れで骨まで腐ってしまったというのです。その谷口さんが、「戦争のない、核兵器のない世界の実現のため、生きている限り、戦争と原爆被害の生き証人の一人として、その実相を世界中に語り続ける」と、誓いました。 谷口さんは、「譲れない一本の芯を貫き通し、命がけで訴えていた」、と語っていた人がいましたが、同じ思いです。