2015年8月9日 礼拝説教「罪 ― それは私が負いましょう」

イザヤ書 43:21~25
コリントの信徒への手紙(二) 5:17~21
ヨハネによる福音書 3:3~8

鈴木和男

■全聖書の〝核心〟 「わたし、このわたしは、わたし自身のために、あなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする―」
 只今、今日の礼拝のためにお読みいただいた旧約聖書『イザヤ書』第43章25節であります。旧約・新約あわせて全聖書66巻の〝核心〟、その〝要約〟と申して過言ではありません。
 ここで、「わたし、このわたし」と名のりでているのは神ご自身であります。「この、わたし」と繰り返してそのことは再度明確に宣言されております。
 神ご自身が、いま、前面に身を乗り出して来られ、ご自身が何者であるかを示しておられる―。
 一体、そんなことがありうるでありましょうか。わたしども人間の考えでは、神というお方がいらしたにしても、「天上天下唯我独尊」、天の彼方にひとり鎮座ましましてこの 地上などには姿を現さないで下さい、仮りに神さまが存在するとしてもそれはわたしたちには何の関係もないことですと、是非、そういう方であっていただきたいと人間は願って いるのではないでしょうか。
 今、そのようなわたしたちの面前に、「わたし、このわたし」がと神ご自身がお姿を現される。恐ろしいことであります。
  わたしたちは平然と礼拝に集まり神の前に立つなどと申しますが、本当はわたしたちにはそうしうる資格など誰れもありません。ただ、神さまがお姿を現された時には同時に 神さまがわたしの前に立ってよろしいと、あなたにそのことが許されていると宣言してくださるかぎり、わたしたちはこの場所に立ち、礼拝をささげ歌い祈ることが許されてい ます。素晴らしい不思議なことであります。
 勿論、『イザヤ書』のこの段落は「第二イザヤ」と呼ばれている預言者のひとりによって語られたことばにすぎないかも知れません。しかし、ここでは、ご自身を「主語」とし て語っている方が登場しているのです。「わたし」というのはイザヤではなく「神ご自身」であります。イザヤはどうしてそんな空恐ろしいことばを大胆に語ることが出来たので しょうか。
 旧約聖書の『イザヤ書』に限らず、エレミヤ、アモス、ホセア、エゼキエルといった預言者の文書には、しばしば「主の言葉が私に臨んだ」(ハーヤー・ハ・ダーバール)とか、 「これは主の言葉」(ネオーム・アドナイ)とか「そこで主は言われる」(ワ・ヨ・メール・アドナイ)とか不思議な但し書きではじまる文言が登場してわれわれを驚ろかせますが、 神は、「ヘブライ語」で語られたのでしょうか。「ヘブライ語」を語られたのでしょうか。聖書では神はヘブライ人(イスラエル、ユダヤ人)たちに語りかけられたのであれば(ヘ ブライ 1・1~)、神は間違いなく「ヘブライ語」で語りかけられたのです。
 旧約の預言者とは、これから起る未来のことについて予言することが使命ではなく、神の「言葉」を「預る」者のこと、神の言葉を代わって語る者のこと、神が「言葉」を発して語 る方であることを示すことが彼らに命ぜられた任務でありました。 
 預言者エレミヤがその若い日に預言者となるべき召しの声を聞かされた時、彼が深くたじろいたのは、自分がまだ若者にすぎないからではなく、預言者の任務の異常な使命のゆ えに深くたじろいだのに違いありません (エレミヤ 1・4~)。
 木下芳次牧師の地上での最後の説教をここで伺ったのはつい昨日のことのような思いですが、先生は若い日を回想されて、神学校出たての若造として説教壇に立ったとき、会衆 はみな自分より以上の大人たち、しかも社会的地位の高い人たち、その前で自分はたじろいだと告白されたのを記憶しますが、本当は先生は人間を恐れたのではなく、この人々に 神の言葉を語るべく命ぜられている牧師の使命のゆえだったのであろうと思い返しております。
 「牧師は神を語ることを命ぜられている。しかし、人間として神を語るなどということは不可能である。この〝悲劇的矛盾〟をうけとめるのが牧師の使命・光栄である」と理解し たのは若い日のカール・バルトでありました。木下先生も、生涯この戦いを戦い抜かれたのだと思っております。

 ■「イスラエル」の「選び」

 「わたしは、この民を、わたしのために造った。彼らは、わたしの栄誉を語らねばならない」とある冒頭21節にご注目いただきましょう。
 「この民」とは「イスラエル」のこと、つまり、「ユダヤ人」のことであります。
 第二次大戦が終って2年、1948年「イスラエル共和国」が国連の努力によって成立し、その式典が行われた時、朗読された聖書は同じく『イザヤ書』第2章、  「国は国に向かって剣を上げず  もはや戦うことを学ばない」と結ばれた箇所でありました。初代大統領として挨拶に立ったベン・グリオンはその冒頭において世界中の人々に向って問いかけるように語った そうであります。
 「世界中の皆さん、お尋ねしたい、一体、ユダヤ人とは何者なのでしょうか」と。正に、「ユダヤ人」の存在は謎のような存在であり、特に彼らが「神の選びの民」とされたことは 一層のミステリーと考えるほかありません。
 小さな民族ではないか、彼らが特に宗教的であったとも聞いていない、国際的にも力ある民であったわけでもない、そんな小さな民をあえて「この民を、わたしのために造った」 と神は断言なさったとイザヤは記す。
 聖書の記すところによれば、神は、「荒れ野で彼らを見つけ」、吹けば飛ぶようなこの民をご自分の民としてお選びになり「これを囲い、いたわり、ご自分の瞳のように守られた」 (申命記32:10)のでした。彼らは「主の選びの民」(申命 7:6、10:15他)と呼ばれ「主の聖なる民」(申命 26:19)と呼ばれたとき、「聖」とは彼らが信仰深かったと いうのではなく「神のもの」という意味であり、それゆえ、「あなたたちに触れるものは、わたしの瞳に触れる者」(ゼカリヤ 2:12)と警告されたのでした。 「わたしの栄誉を語」るためだと言われています。  「主である神はこう言われる。 主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び、あなたの手を取った。 民の契約、諸国の光としてあなたを形づくり、あなたを立てた」―『イザヤ書』42章5節6節であります。
 「わたしの僕、イスラエルよ、
 わたしの選んだヤコブよ、
 わたしの愛する友、アブラハムの末よ。
 わたしはあなたを固くとらえ、
 地の果て、その隅々から呼び出して言った。
 あなたはわたしの僕
 わたしはあなたを選び、決して見捨てない。
 恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。
 たじろぐな、わたしはあなたの神」
(イザヤ 41:8~16、同じく42:6、43:1~7、43:10、44:1~、44:12など参照)。
 それなら、イスラエル・ユダヤ人はこの召しと選びとから逃亡することは許されておりません。よしヒットラーが彼らを絶滅させようとしても、事実その寸前までいったとしても、神の選び、「わたしはあなたを見捨てない」といわれた神の約束は決して無になることはありませんでした。たとえ「無」になったとしても神は「路傍の石コロからでもアブラハムの末を起こすこと」がお出来になるに違いありません(マタイ 3:9)。
 わたしは、このことを今日改めて思い返す必要があると思っています。
 キリスト教会二千年の大きな失敗は、このイスラエルの選びということを無視しつづけたことであります。彼らを排斥し絶滅させようとしたことはヒットラーからではなくて教会から始まりました。教会は成立してまもなく、ユダヤ人たちこそイエス・キリストを殺した人々に外ならず、今後彼らのために利益をはかってやる必要はないと言い放ちましたのは有名な教会教父のひとりでありました。「反ユダヤ主義」というのはキリスト教会の産物であります。わたしたちはこのことを残念ながら認めざるをえません。宗教改革者マルティン・ルターのような人でさえ、その晩年に書きのこしました『ユダヤ人とその虚偽について』という文書において、「彼らをゲットーに押しこめ、行動の自由を制限し、旅をすることも禁じその財産を没収するように」というのはルターの提言でした。「ユダヤ人強制収容所」をつくりましたとき、ヒットラーはドイツ人に対して申しました、「私は、あなた方の尊敬しているルターの遺言を実行しているにすぎない」と。
 しかし、神ご自身は世の初めよりこの「ユダヤ人」を「神の民」としてお選びになり、このことは世の終わりまで変わることはありません。
 しかも不思議なことに、この天と地が創られる前から、「イスラエル」が神の民として選ばれていたその時に、のちのキリスト教会・キリスト者われわれも同時に神に選ばれ立てられていたのです。そのことをルターも明確に申しました。「教会の歴史は二千年ではなく、ユダヤ人たちの歴史と共に、六千年である」と。それなのに何故ユダヤ人を排斥するようなことを言ったのでしょうか。
 新約聖書『エフェソの信徒への手紙』の第1章4節には、明確に、  「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」とあります。
 この時の「わたしたち」とはキリスト者とその教会のことです。「イスラエル・ユダヤ人」の神の民として選ばれたその時に、のちの「キリスト者」とその教会も同時に立てられた。にも拘わらず、この両者の関係を分断してしまったところに悲しい教会の流れが生じたのでした。
 この関係を本来の姿にもう一度回復するところに今日の教会の明日の姿がある筈であります。  「ユダヤ人」たちは神の選びの前でたじろぎました。 「しかし、ヤコブよ、あなたはわたしを、イスラエルよ、あなたはわたしを重荷とした」(イザヤ 43:22)と。
 「神さま、時には、わたしたちだけでなくて、日本人など、教会のキリスト者などもお選び下さい。私たちの受けた苦難、辱しめ、迫害、憎悪など、他の民族にも平等にお与えください」との痛切なつぶやきがユダヤ人たちの間でつぶやかれたとのことであります。
 しかし、神は答えられた―  「わたしは穀物の献げ物のためにあなたを苦しめたことはない。乳香などのために重荷を負わせたこともない」と。つまり、あなたたちの献金が少ないなどと責めたことは ないと言われたのでした。
 成程、事実かれらは、「あなたは香水萱をわたしのために買おうと銀を量ることもせずいけにえの脂肪をもってわたしを飽き足らせようともしなかった」といわれたのち、 「むしろ、あなたの罪のために、わたしを苦しめ、あなたの悪のために、わたしに重荷を負わせた」(24節)と、イスラエルの「罪」と「悪」とがわたしを苦しめているのだと 言われたのでした。
さらに重大なことは、その「罪」と「悪」とを「わたし、神ご自身」が「負いましょう」と語っておられる点です。

 ■〝罪〟 ― 神の悲しみ

 ここで「罪」とか「悪」とかは何を指していっているのでしょうか。単なる「犯罪」のことを言っているのではなく、神ご自身を死に至らしめるほどの事として「罪」が問題となっているの です。神の選びを受けたイスラエルが、そしてわたしたち人間すべてが、そのことをよろこばず、その「召し」に応えず「道を誤り、それぞれ(勝手な方向)に向かっていった」 (イザヤ 53:6)こと、そこに神を苦しめる最も深い悲しみがあったということでありましょう。
 「悲しみ」という漢字は「非」と「心」とからなっており、「非」とは鳥が左右に翼を広げてその眞ん中から眞二つに引き裂かれた状を指し、「心」がそのように引き裂かれたことを 「悲」の字であらわしているのだそうです。
 「かなしみ」の「かな」は、「しかねる」で何事かをなそうとしてなし得ない張りつめた切なさ、自分の力の限界、無力性を「かなしみ」として捉えてきました。
 古来、「日本人は悲しみについ饒舌であった」といわれております(竹内整一『かなしみの哲学』)。
 「世の中は空しきものと知る時し、いよよますます悲しかりけり」と嘆じた万葉の歌人大伴旅人から始まり、諸行無常、「オレは河原のカレすすき、同じお前もカレすすき、 どうせ二人はこの世では 花の咲かないカレすすき」(野口雨情『船頭小唄』)から、「どうして僕は、いつもこんなに悲しいんだろう」と呟いていたという宮沢賢治、「悲しき口笛」 を歌った戦後の美空ひばりにいたるまで悲しい歌は枚挙のいとまもありません。
 勿論、「何とて悲の心ましまさずや 我は悲の器なり。我において何ぞ御慈悲ましまずや」と「悲」を救いを求める叫びとして発した僧・源信(942~1017)や『悲嘆述懐』の 和讃をうたいあげた親鸞(1183~1262)、「哲学の出発は驚きではなく悲しみである」とした哲学者・西田幾多郎(1870~1945)がおり、「悲しみ」ということは日本人の 心を深く耕してきたことも事実です。
 しかし、われわれは、遂に「神の悲しみ」ということに十分心するところまで至りえていなかったのではないか。
 神と人とが「眞二つ」に引き裂かれてもはや共に生きようとしなくなった状況、それが「神の悲しみ」であり、他方人間はその悲しみを悲しみと受けとろうとはせず受け取る悲し む能力さえ失ってしまっていることこそ「神の悲しみ」であったに違いありません。
 この神の悲しみを一体だれが悲しみ引き受けることが出来るというのでしょうか。「わたし、このわたしが、わたし自身のために、あなたがたの背きの罪をぬぐい、 あなたがたの罪を思いださないことにする」(25節)―これが神の決意だというのであります。
 人間の罪は人間自身が負うべきなのは当然なのに、それが出き「かね」るところに人間の無力さと限界はあり、罪を負うどころか、罪の何たるかをも知らず、知ろうともせず その意志を欠くところにこそ人間の罪の姿があるというべきでありましょう。
人間の罪は、神を神とせず神を死なしめることその事であり、正に、「罪が死ななければ神が死なねばならない」(P・T・フォーサイス)事態であれば、われわれは、カインと共に、 「わたしの罪は重くて負い切れません」と告白するほかありません(創世記 4:13)。

 ■罪―それは私が負いましょう

 「罪―それは私が負いましょう」と決意なさったのが聖書の神、「アブラハム、イサク、ヤコブの神、イエス・キリストの神」であります。
 「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ」(わが神、わが神、どうして私をお見すてになったのですか)との十字架上の主イエスの叫びは、決して〝疑い〟の叫びではなく、 不思議な「神の決意」の理由を問おうておられたのではないか。「何故というか―」「それは、私自身のためだ」というのがその答えだったのでありましょう。十字架上のイエスにおいて、 神は神であられたのです。 「神はキリストを通してわたしたちを神と和解させ」たとパウロは記しています(コリント(二) 5:17)。
神は罪人と和解する事はありません。神と罪とは共に存在することは不可能であるからです。神は罪人のままの私と和解なさったのではなく、「ご自身」が「私たち」を 〝和解させた〟のです。「神と共に生きるのに相応しい者に創りかえてくださったのです。罪は終わったのです。「キリストと結ばれた人はだれでも新しく創造された者」 (同 17節)である筈です。「人は、新たに生まれなければ神の国を見ることはできない」(ヨハネ 3:3)とあるのは神の国を見るための資格・條件をいっているのではなく、 神の国の到来、つまり「神ご自身」が前面に登場なさっている今は、すべての人は新しくされているのだとの主イエスの大胆な断定のことでありましょう。

 ■「心に深い悲しみを抱きつつ」

 鎌倉の禅寺では、何年かの修行を終わった僧に対して、最後の試問、つまり「聞取」(もんしゅ)ということが行われ、その時にはもう「経」の内容とか仏教教理の修得の程度の是非が 問われることはなく、唯一問「あの若僧は挨拶ができるか」ということであるよしです。
 ヨーロッパの修道院でも修道の最終目標の一つは、「朝 起きて 窓をあけ 胸一杯の空気を吸い 一杯の水を飲む時、本当に感謝しうるか」というのであり、さらに、 「心に深い悲しみを抱きつつ、しかも大いに笑いうるか」というのであったと聞きます。
 悲しむべきことを眞に悲しみ得、しかも大いに笑いうる能力こそ、眞に自由にされた人間の姿であるのでありましょう。

  ■祈  り

 「神の悲しみを共に悲しみ、しかも、共に大いに笑いうること」―そこに私たちの使命、教会の任務があると信じます。
 「世界で一番早く神を捨てた」といわれるわれわれ日本人は、勝手な悪事に走り、戦争の災禍を生みだし、二発の原子爆弾を自ら招きよせ、さらに、第三発目を呼びよせようと しているかのごときこの国を深くあわれみ、慈しみ、正しい道をお示しください。 眞の悔改め-あなたの許に立ち帰らせてください。 あなたは、この日本に、わたしたちの前にもお姿を現しておられるのです。            アーメン

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