★9月23日、第61回教会修養会が行われました。第1回修養会は1951年でした。それまで25年近く使用していた教会の土地と礼拝堂の返還を求められ、礼拝する場所を失った年でした。それ以来私たちの教会は毎年この時期に修養会を開催し、学び、御心を問い続けてきました。
今年は初めて日曜日の開催でした。主題は「死を思う」でした。昨年の大震災で2万人を超える人々が亡くなったこと、自ら命を断つ人が毎年3万人を超えるという深刻な現実、いじめを苦にして命を断つ青少年のこと、親の虐待で死んでいく子どもたちのこと等私たちの周囲に死を巡って心痛む事が数多くあります。また、私たち一人一人、身近な人の死に涙するとともに、自らの死をどう迎えるかが問われています。それだけに熱心な語り合いがなされました。
礼拝説教の最後にトゥルナイゼンの『牧会学』の一節を紹介しました。
「死なんとする者へのいっさいの牧会のアルファであり、オメガであるのは、われわれの死の審きにおけるいっさいの慰めの源泉として、十字架につけられた方を指し示すことにある。
わたしがひとたび死別すべきであろうとも わたしから離れないでください。
わたしが死を苦しむべきだとしても その時はあなたが来てください。
わたしの心が、きわめて不安になる時に、
あなたの不安と苦悩の力によって、わたしを不安から引き放ってください。」
「死の陰の谷を行くときも」私たちはひとりぼっちでない、十字架に架けられ、よみがえられたイエスさまが共にいてくださる、そのことを証しする群れでありたいと心から願った秋の一日でした。
★個人的なことですが、8月31日母がろうそくの火が消えるように静かに召されました。98歳10ヶ月の生涯でした。小生が小学1年のとき小児結核になり、8ヶ月自宅療養を命じられたとき、母は小生が生まれた時、戦時中の食糧不足から母乳がでないうえ、貧しさから牛乳を買うことも出来ず、御近所の家で飼っていた山羊の乳で育てざるをえなかったので息子が病気になった、と自分を責めました。小生が結婚のとき、妻に求めたことはただ一つ、毎日牛乳を飲ませて欲しいということでした。あらためて母親の子に対する愛、思いの深さを思わされました。母の死のことで皆さんからお祈り頂きありがとうございました。