イザヤ書42:1~4
マタイによる福音書18:10~14
櫻井重宣
本日は平和聖日です。わたしたちの教会が連なる日本基督教団は、今から55年前の1962年から8月第一日曜日を「平和聖日」と定め、本日は全国の教会で、地に平和をと祈りつつ礼拝がささげられています。それから5年後の1967年3月26日、本日この説教の後ご一緒に告白しますが、「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」を当時の日本基督教団総会議長の鈴木正久先生の名前で表明しました。週報にも記しましたが、第二次大戦下において、日本基督教団そしてわたしたちの教会も含めて教団に連なる一つ一つの教会が,愛する祖国が罪を犯したとき、「見張りの使命」を果たすことができないまま、戦争を是認し、その勝利のため礼拝で日曜学校で祈ったこと、そしてとりわけアジアの国々、そこにある教会に大きな苦しみを与えたことの責任の表明です。
敗戦の4ヶ月前の1945年・昭和20年3月、わたしたちの教会が日曜学校の生徒さんたちへ出したイースター礼拝の案内にこう記されていました。
「4月1日は復活祭です。イエスさまがおよみがえりになった嬉しい日曜日です。復活祭礼拝におともだちを誘っておいでください。死んでも死に勝って生き返っていらっしゃったイエスさまを信じて、強い立派な日本人になって、敵を滅ぼすまで戦い抜きましょう。」
敵を滅ぼすまで戦い抜きましょう、これが昭和20年イースター礼拝のお招きの言葉です。
また本日8月6日は、広島に原爆が投下されてから72年目の記念の日です。9日は長崎の記念日です。わたしたちの教会が「原爆」ということで大きな衝撃をうけたのは、前任牧師、盛谷祐三牧師の連れ合いの聖子さんが4年前に原爆症で亡くなったことでした。聖子さんは三姉妹で、あの日、広島で被爆しました。二番目のお姉さんは被爆して62年目に、一番上のお姉さんは65年目に亡くなり、聖子さんが亡くなったのは被爆して68年目でした。三人とも被爆して60年以上たってから次々と原爆症を発症し、亡くなりました。
6年前の福島の原子力発電所の事故で被爆した福島の人々、とくに子どもたちがこれから60年にもわたって原爆症がいつ発症するのか、という不安の中で生きていくかと思うと心が張り裂ける思いです。
ところで、今年は7月の最後の日曜日と8月の3回の日曜日に、イザヤ書40章から55章を書き記した第二イザヤと呼ばれる預言者に耳を傾けます。
第二イザヤが預言者として働いたのは50年以上におよぶバビロン捕囚の時代の後半から、ペルシャがバビロン捕囚を打ち破り、捕囚から解放されエルサレムに帰ることを許されたそういう時代でした。預言者はおそらくバビロンからエルサレムへ帰る千数百キロの旅のリーダーであったのではないかと思われます。
この時代、50年に及ぶ捕囚の生活のためイスラエルの人々は本当に疲れていました。今日は40章の後半から42章の4節のところに記されていることに思いを深めますが、第二イザヤが預言者として働いていた時代は、若い人が希望を持つことが困難でした。本来は血気盛んな世代の人々も疲れ、下を向いて歩むそういう時代でした。そして、自分たちは名前があるのにだれからも名前で呼ばれない「虫けらのような」存在だ、「水を求めても得ることができない苦しむ者、貧しい者」と言っていたことが分かります。
そうした捕囚の民に、第二イザヤは、神さまの言葉を語りかけます。神さまは、イスラエルの民に、「わたしの僕イスラエルよ」「わたしの選んだヤコブよ」、「わたしの愛する友アブラハムの末よ」と呼びかけ、「わたしはあなたを固くとらえ、地の果て、その隅々から呼び出して言った。あなたはわたしの僕、わたしはあなたを選び、決して見捨てない。恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け わたしのすくいの右の手であなたを支える」と語ります。さらに読み進みますと、「見よ、わたしはあなたを打穀機とする 新しく,鋭く,多くの刃をつけた打穀機と。あなたは山々を踏み砕き、丘をもみ殻とする」、とおっしゃっています。
ここには第二イザヤが示された大切な神さまの御心が記されています。戦争に負け、バビロンに捕虜となり、疲れ果てているイスラエルの人々を、神さまは大切な存在として愛しておられる、名前で呼んでくださっている、あなたがたは、神さまは自分たちのような虫けらのような存在をお忘れになったと言っているが、そんなことはない、そして49章を見ますと、「神さまは御自分の手のひらにひとりひとりを刻みつけておられる」と言うのです。また山々を踏み砕く打穀機にイスラエルの民がたとえられていますが、決して富や武力による強さではありません。力の強さ、数の多いことを誇る、そういう時が来るということではありません。
毎月週報を送ってくださる若い牧師がいます。その方は御自分が難病で大きな苦しみを受けているとき、神さまの召しを聞き、神学校に進み、今、地方の教会で本当によい働きをしています。先月の週報と共に「津久井やまゆり園事件から1年を迎えて」という文が入っていました。あの事件への御自分の思いを、教会の皆さんにお伝えした文かと思いますが、こう記されていました。
「わたしは,自分が難病になった時一番苦しんだのは自分の存在価値がわからなくなった、ということでした。病気で何もできなくなった自分は役立たずになってしまった、存在価値がなくなってしまったと絶望しました。効率、生産性で人や自分を測っていたのです。そのとき、自分では受け入れられない位ボロボロの、何もかも失ってしまった自分を愛し、受け入れてくださる神さまにお会いしました。何かが出来るから、何かを持っているから尊ばれるのではなく、存在そのものが神さまの目に尊いものとされ、大切な存在とされていることが分かりました。」
預言者が語ることはこのことです。この牧師のように自分は病気になり役だたずで、存在価値がないと思われるようなものであるが、神さまはかけがえのないものとして大切にしてくださる、その自分が牧師になったということは、今、存在価値がないと思っている人々にそうではない、神さまはあなたをかけがえのない大切な人として位置づけておられる、と語り、その人を励ます使命が与えられているのではないかと思う、と言うのです。イスラエルの民もそうなのです。そのために選ばれたのです。
第二イザヤに深い関心を持っている一人のカトリックの司祭は、バビロン捕囚という大きな苦しみを経験したイスラエルの民に、神さまは上から、武力やお金で人々に君臨するのではなく、苦しみや悲しみに共感しつつ、正義に、平和に奉仕する、その方の表現でいうなら、上から人を管理するのではなく、下から奉仕する,そういう使命が与えられたのです。
けれどもイスラエルの民にとってもわたしたちにとってもそうした歩みは困難です。戦争はまさに武力で、お金で支配しようとすることで、いつの時代も戦争がなくなりません。
そうしたことから、第二イザヤは大きな苦しみに直面し、苦しみにあえいでいる人に下から奉仕し、真の慰めをもたらすのは主の僕、来たらんとするメシアをおいてほかにいないことを心深く覚え、主の僕を待ち望むのです。第二イザヤは主の僕の歌を四つうたいますが、42章1節~4節は第一の歌です。こういう歌です。
低く、低く奉仕する主の僕を神さまがもっと低い所で支えます。彼は大きな声で叫ばず,声を巷に響かせません。傷ついた葦を折ることなく 暗くなってゆく灯心を消すことなく 神さまの御旨を遂行します。僕の歩みがどんなに困難であっても、僕は暗くなることも、傷つき果てることもなく、多くの人々は彼の教えを待ち望む、というのです。
本日は平和聖日、72年目のヒロシマに原爆が投下された記念の日ですが、先程も少し心に留めましたが、第二イザヤは、イスラエルの民を励まそうとして、神さまは一人一人を名前で呼ばれる方だと語ります。一人一人を名前で呼ぶということで真っ先に思い起こすのはマザーテレサさんです。路上で死に瀕した人をホームに連れて来て真っ先に聞くのは名前です。そしてその人の名前を呼びながら看病しました。
一人の人間が虫けらのように扱われる、名前を呼ばれないと死んでいく、その最たるものは戦争です。沖縄には22年前、「平和の礎」が建てられ、沖縄戦で亡くなった方々のお名前が刻まれています。今年の6月現在241,468名の方のお名前が刻まれています。名前が刻まれているのは沖縄の方だけでなく、県外の人もアメリカやイギリスの人、台湾や朝鮮人民共和国の人、大韓民国の人の名前も刻まれています。
わたしが広島教会に赴任して2年目に金原ハナさんという方が亡くなりました。あと数日で百歳というときでした。金原さんは被爆し、ご主人は原爆症のため投下されてから7年目に亡くなりました。金原さんが高校生に語った被爆証言で強調して語ったことは、自分は倒壊した家の中から主人に助けられたが、あの日、自分のまわりで多くの人が亡くなった。その人たちはお母さん、水!水!と叫んで死んでいった。金原さんは、自分の名前を呼んで看病してもらえない戦争を、一人一人の喜びを、人生を一瞬にして奪い取る戦争を、原爆を憤り、こうしたことを繰り返してはならないと90歳を過ぎてからの証言でおっしゃいました。金原さんは晩年、老人ホームに入所されました。日記をていねいに書いておられましたが、その日記には今日は教会のだれさんとだれさんが見舞いに来てくれた、今日は甥のだれだれが、姪のだれだれが見舞いにきてくれた、クリスマスのときなど教会から10名位の人がお訪ねするわけですが、人数でなく、名前を記しておられました。
先週もわたしが奉仕した広島教会の四竃一郎牧師のことを紹介しましたが、先生の牧師としての一番の悔いは原爆で亡くなった37名の葬儀をだれ一人執り行うことができなかったことです。だれがどこで死んだのか、わからなかったからです。葬儀に出たのはただ一人、自分の娘の葬儀だけでした。わたしは牧師として四竃先生の痛み、悲しみが本当によく分かります。
先程、マタイによる福音書を通して迷い出た羊を探しに行く羊飼いのことを心に留めましたが、原爆が投下されたとき、四竃先生は毎日足が棒になるまで探し歩いたのですが、羊を探し出せませんでした。
その四竃先生のお心の苦悩を知った教会員の前原さんという方が、戦後20年位たったときですが、数年かけて37名のすべての方について、どこで被爆し、どこで死んだか、お墓はどこにあるかを調べ上げてくださいました。大変な作業でしたが、イエスさまは、善い羊飼いとして原爆で傷ついた方、亡くなったお一人お一人を名前を呼んで探し、死の陰の谷をわたるときに手を引いて御国へと導いてくださった、その信仰のもとにこの作業を行ってくださったのです。
こうした四竃先生、前原さんの姿は、主の僕を証ししているのではないでしょうか。
世界中のすべての「核」が葬り去られる真の平和をと祈ります。