詩編23:1~6
ヨハネによる福音書10:7~18
櫻井重宣
本日は、召天者記念礼拝です。代々の教会は、11月の最初の日曜日を聖徒の日として、先に召された方々が天上で礼拝していることを覚えて礼拝を守ってきました。私たちも本日、この教会が、1927年10月30日に創立されてから今日までの87年間に召された方々が天上で神さまを賛美していることを覚えて、礼拝をささげたいと願っています。
私たちの教会では、昨年の召天者記念礼拝からこの一年間に3名の方が召されました。また、教会員の中には、愛する御主人を亡くされた方がおられます。
葬儀のとき、よく紹介しますが、愛する人を亡くし、大きな悲しみを覚えたストックという婦人が「天に一人を増しぬ」という詩を作っています。その詩で、こううたわれています。
「家には一人を減じたり
楽しき団欒は破れたり
愛する顔 いつもの席に見えぬぞ悲しき
・・・・家には一人を減じたり
帰るを迎ふる声一つ見えずなりぬ
行くを送る言葉一つ消え失せぬ
・・・・家には一人を減じたり
門を入るにも死別の哀れにたえず
内に入れば空しき席を見るも涙なり」
そうした悲しみの中で、地に一人減じた時、天に一人を増しぬと、ストック婦人はうたうのですが、家に一人を減じた時の悲しみ、淋しさは消えるものではありません。家族を亡くされた方もそうですが、長い年月この礼拝堂で一緒に礼拝を守り続けてきた私たちにとって、教会員の死は耐えがたいものがあります。その方が座っておられた席にその方のお姿が見えないこと、礼拝を終えて玄関で必ず握手してお帰りになっていた方がおられないという現実は本当にさびしいものです。
ところで、牧師は、どなたかが亡くなったというお知らせを頂くと、真夜中であっても、すぐお訪ねして、召された人の額に手を置いて、臨終の祈りをささげます。臨終の祈りに際し、わたしは必ず詩編23を読みます。召された人の生涯を神さまが羊飼いとして守り導いてくださったこと、とくに死の陰の谷を歩むとき、イエスさまが共に歩み、御国へと導いてくださったことを心に深く覚えつつ、神さまにこの人の魂をお委ねします、と祈ります。そのときに、不思議なことに、召された人が、そうです、わたしの生涯にわたってイエスさまが羊飼いでした、死の陰の谷を歩む時、イエスさまが一緒でしたと告白している、その声が聞こえるような思いになります。
それゆえ、今朝は、この詩編23に耳を傾けたいと願っています。
1節~3節は主が主語で、神さまが三人称でうたわれます。
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。」
冒頭の1節は、口語訳では、「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」、文語訳では「主はわが牧者なり。我乏しきことあらじ」でした。
詩人は、この詩の冒頭で、わたしの羊飼いは神さまです、神さまがわたしの羊飼いです、とうたいます。しかも、詩人は乏しいことがない、というのです。パレスティナは日本の四国くらいの広さです。そこにエジプト、アッシリア、バビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマが入れかわり、立ちかわり攻めてきました。パレスティナの主要な収入源は畜産と農業だけです。豊かな生活ができません。それなのに、どうして詩人は乏しいことがなかったというのでしょうか。それは、羊飼いである神さまが、無くてならないもの、生きるに必要なものをいつも備えてくださるので、乏しいことがないのです。羊飼いは、羊のいのちにいつも心をくばり、羊を青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を休ませてくださるのです。
ヨハネ福音書で、イエスさまは、わたしは良い羊飼いであるとおっしゃり、イエスさまがわたしたちにどういう関わりをされるかを語っておられます。
羊飼いは自分の羊を、必ず名前で呼ぶというのです。百匹の羊をもっている羊飼いは百匹の羊を番号ではなく、一匹ずつ名前を呼んで連れ出すというのです。羊飼いであるイエスさまは、わたしたち一人一人も名前で呼んでくださいます。さらに、イエスさまは、わたしは良い羊飼いであって、羊のために命を捨てる、とおっしゃるのです。
このことで、感銘深く思い起こすのはマザー・テレサの働きです。マザー・テレサはインドのカルカッタで、路上で死を前にした人をホームにお連れして介護するとき、真っ先に聞いたのは、その人の名前でした。そして名前を読んで看病しました。その人が大切な人だからです。
主はわが牧者なり。我乏しきことあらじ、と人生の最後に告白できることは本当にすばらしいことです。
ニューヨークの病院の待合室の壁に書かれている詩が多くの人の共感をよんでいます。こういう詩です。
「大きなことを成し遂げるために
力を与えてほしいと神に求めたのに
謙遜を学ぶようにと 弱さを授かった。
偉大なことができるように 健康を求めたのに
よりよきことをするようにと病気を賜わった
幸せになろうとして 富を求めたのに
賢明であるようにと 貧困を授かった。
世の人々の称賛を得ようとして成功を求めたのに
得意にならないようにと失敗を授かった。
求めたものは一つとして与えられなかったが 願いはすべて聞き届けられた。
神の意に沿わぬ者であるにもかかわらず
心の中の言い尽くせない祈りは すべてかなえられた
わたしは最も豊かに祝福されたのだ」
詩編23の詩人は、一生を終えるとき、神さまが生涯にわたってわたしの羊飼いであった、そのため乏しくなかった、と告白していますが、ニューヨークの病院の壁の詩を作った方も同じ思いでした。
秋田在任の時、教会のメンバーが61歳で肝臓がんのため亡くなりました。その方は、御自分の死が避けられないことを知ったとき、本当につらい思いを日記に書いておられますが、日記の最後の方に、この詩を書き写しておられました。自分の思いがこの詩にうたわれていたからです。
詩編23の4節の主語は、わたしです
「死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける。」
死の陰の谷というのは、死のように真っ暗な谷です。不気味なほどシ-ンとして、一歩踏み出そうにも足がすくむような谷です。
今から400年位前、イギリスのバンヤンが書いた『天路歴程』にこういう一節があります。「天の都に行くとき、どうしてもさびしく、暗い、極めて狭い『死の陰の谷』を通らねばならない。その時、主人公は『たといわれ死の陰の谷を歩むともわざわいをおそれじ』という声を聞き、勇気が百倍出た」、と。
また、ここに、鞭とありますが、羊を鞭打つものではありません。羊を襲う獣と闘い、追い払うための金具のついた棍棒です。ここには身を挺して羊を守ろうとする羊飼いの姿があります。
わたしが臨終の祈りをするとき、この聖句に思いを深くするのは、どんなに愛する家族であっても、死を前にした人が、死の陰の谷を行く時、一緒に歩くことができません。臨終のとき、召される人も孤独ですが家族もそうです。牧師も無力さを覚えます。しかし、まったく一人かというとそうでない、イエスさまが一緒にいてくださる、そのことをこの23篇の詩人は語るのです。
「ともにいる」は聖書で繰り返されますが、詩編で3回だけです。死の陰の谷をゆくとき、羊飼いである神さまは一緒におられる、羊の手を引いて御国へと導いてくださるのです。
5節で詩人は「わたしを苦しめる者を前にしても あなたはわたしの食卓を整えてくださる。わたしの頭に油を注ぎ わたしの杯を溢れさせてくださる」とうたいます。
頭に油を注ぐというのは、傷ついた羊を癒す行為とされます。敵が迫っていても、羊が傷ついたとき、毛皮を広げ、むしろを広げ、羊を治療する羊飼いの姿とされます。どんなに羊飼いに身の危険が迫っても、羊飼いは羊を治療することをやめません。
わたしが神学校のとき、ベトナム戦争がありました。神学校の寮の朝の礼拝で、ベトナム戦争が一刻も早く終結するように毎朝祈りました。戦争が終わった時、ある人がこいうことを語ったことを思い起こします。軍事力では、はるかにまさったアメリカが、ベトナムに勝つことができなかったのは、ベトナムの人は、だれかが傷ついたとき、その人の治療を優先した。アメリカは、前線に送るのは黒人で、傷ついた兵士はおいて行かれた、二つの国に決定的な違いがあった、と。
イエスさまは、ご自分の身を挺して、私たちを生涯、守ってくださる方です。
6節は「命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう」です。
神さまの恵みと慈しみは、生きている限り 追いかけてくるというのです。
羊が迷いでたとき、羊飼いは探しに行き、迷い出た羊を追いかけます。見放しません。ひとりぼっちにしません。そのため迷子の羊は主の家に戻って来ることができます。詩人は、自らの生涯を振り返って、恵みと慈しみがいつもわたしを追いかけてきたので、主の家に帰ることができた、というのです。
詩編23に思いを深くしてきましたが、最後に「たといわれ死の陰の谷を行くときも わざわいをおそれじ 汝我と共にいませばなり」ということで、わたしがいつも思いを深くする矢内原忠雄先生の文を紹介します。
内村鑑三先生の弟子の矢内原忠雄先生が、東京大学総長在任中、東大山岳部員11名が富士山で訓練中、雪崩のため遭難し、5名が死亡しました。今年は、御嶽山の火山爆発で60人近い方々が、犠牲になり、私たちは心を痛めています。矢内原先生は御自分の総長在任中の出来事ゆえ心を痛め、遭難現場に立てられた追悼碑に行き、彼らの霊を弔いたかったのですが在任中はできませんでした。総長退任の翌年、東大山岳部の学生及びOB4名が同行し、富士山へ赴き、六合目近くの追悼碑の碑面の銅板を撫でながら、前途ある若い身を雪に埋めた学生たちの霊を弔いました。その後、矢内原先生は、山岳部員たちに前後を守られながら、重い足をひきずって頂上をきわめたのですが、訓練された山岳部員たちは、終始ほとんど口をきかず、叱ることもなく、呟くこともなく、笑うこともなく、さりとて励ますこともなく、言葉をもっても手をもっても助けることをしなかったというのです。矢内原忠雄先生は、こうした登山家の態度に感心し、次のように書いています。
「私がこの世を去る時、神から遣わされたミカエル、ガブリエル、ウリエル、その他名を知らぬ天使が四、五名私の前後を囲んで神の山を登るであろう。彼らは私に好意を持って、私を守ってくれていることは明らかだが、しかし私は自分の足を自分で運ばなければならないであ
ろう。この世において私の周囲にあった
者は、その時誰も私の傍らにいないであろう。私を責め、批評し、悪口を言う声は、私の耳に届かないであろう。私を敬慕し、私の耳に甘い声も、私の傍にないであろう。私は裸で母の胎を出たように、裸で母のふところに帰って行くであろう。私は孤独を感じた。孤独はきびしいが、また安らぎであることを感じた。」
この文を書いて3年後、矢内原先生、召されました。ご子息の矢内原伊作さんは、父が書き遺した厖大な量の文章のなかでも、死の三年前に書かれたこの短文『富士登山』が最も好きな文章のひとつであると、おっしゃっていますが、私もこの文が好きです。
矢内原先生は、奥さまを亡くされ、お墓を作ったとき、墓碑に「清き岸辺に」と記しました。召された奥さまが、羊飼いであるイエスさまに伴われて、清き岸辺にやがて着くことを祈って記したのです。
わたしたちもこの詩編23に励まされてこの地上の歩みをと願うものです。