牧師室の窓から 2017年7月

★日野原重明先生が18日亡くなりました。105歳でした。今から29年前、1988年、当時奉仕させて頂いていた秋田楢山教会で創立100周年を記念して、日野原先生をお迎えしました。日曜日の礼拝説教と午後の記念講演会の講演を行って頂きました。当時日野原先生は76歳でしたが、既に著名で、市内の二つの看護学校の校長が願ってもない機会なので、全学生を連れて行きたいということで、秋田市内の大きいホールを借りて講演会を行い、900名近い方々が講演会においでくださいました。そのとき、日野原先生がおっしゃったことで、印象的なことは、現在の医学教育、看護教育で、いかに命を助けるか、ということに関心が行き、「死」が語られない。医師、看護師は、死とは何か、死をどう受けとめるか、命が限られ、死を前にした人が残された命をどれだけ豊かに過ごすか、そのことに関心を持つべき、と熱意をもって語りました。その後、全国でホスピスのことに関心がいくようになりましたが、日野原先生は先駆者でした。

★まもなく72年目の被爆記念日です。「被爆」という大きな苦悩から牧師になった四竃揚牧師、宗藤尚三先生が昨年相次いで召され、72年の重みを深く思わされます。四竃揚牧師の弟の四竃更牧師は13年前、70歳で逝去されましたが、亡くなる数年前の説教で、被爆後4週間目に召された姉の佑子さんのことを語っています。「学徒動員で働いていた姉が原子爆弾で被災して、頭に重傷を負い、疎開していた私達のところへ辿り着いたのは、原爆投下から五日後でした。それから一ヶ月足らずで死んだのですが、この姉の最後の場面こそ荘厳であり、厳粛極まるものでした。姉の名、佑子と呼んでいる声を聞いた姉に、牧師の父が、『よく見るんだ。お答えするのだ。今イエスさまが呼んでおられるのだ』と言うと、姉は体を起こして手を伸ばして、上を見ながら召されていきました。当時の私には驚くべき、信じ難い光景でしたが、見たのです。姉は御顔を仰ぎ見ていたのです。私が伝道者としての召しを頂いたひとつのきっかけは、この姉の信仰でした。横着で鈍い私の魂の目にも、天の輝く御座が見えるようになるのだろうか、見せて頂きたいと思いました。」被爆後の広島教会の再建に全力を投じた四竃一郎牧師、その御子息の四竃揚牧師、四竃更牧師の働きを支えたのは17歳で召された佑子さんの信仰でした。

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