2024年7月14日礼拝説教「神の怒りを地上に注ぐ」

牧師 田村 博

「神の怒りを地上に注ぐ」

エゼキエル書21:23~30   ヨハネの黙示録16:1~11

                            田 村  博

 16章は次のような御言葉で始まります。

「また、わたしは大きな声が神殿から出て、七人の天使にこう言うのを聞いた。『行って、七つの鉢に盛られた神の怒りを地上に注ぎなさい。』」

 思わず立ち止まってしまう御言葉かもしれません。神さまは「行って、七つの鉢に盛られた神の怒りを地上に注ぎなさい。」などとおっしゃるお方なのだろうか。神さまというお方は、「神は愛です。」(1ヨハネ4:16)とあるように「愛」なるお方であり、わたしたち一人ひとりのことをすべてご存知であるお方であり、生涯を導いてくださるお方だと知らされているからです。聖書は、その「愛」に貫かれているということは間違いありません。それではなぜ、「行って、七つの鉢に盛られた神の怒りを地上に注ぎなさい。」などと天使に命じているのでしょうか。

 忘れてはならないのは、この16章だけがいきなり突然与えられているのではないということです。神の愛と忍耐が繰り返し示されています。

 3章19節、20節をご覧ください。

「わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」

 わたしたちを愛し、教会を愛してくださるお方であることは、決して変わりません。神が、語りかけ続けてくださっているにも関わらず、そのことを忘れ、神に背を向けて別の方を向いて自分勝手なことをしてしまう人間の姿を、目を背けることなく、鋭く、「黙示録」というかたちでわたしたちに示してくださっているのです。厳しいこと、耳の痛いことについては、なかったことにして通り過ぎてゆきたいと思ってしまうわたしたちかもしれません。そんなわたしたちに対して、この16章と直前の15章は、神は厳しいだけのお方ではないことを教えてくれます。

 15章1節以下には、次のように記されています。

「わたしはまた、天にもう一つの大きな驚くべきしるしを見た。七人の天使が最後の七つの災いを携えていた。これらの災いで、神の怒りがその極みに達するのである。わたしはまた、火が混じったガラスの海のようなものを見た。更に、獣に勝ち、その像に勝ち、またその名の数字に勝った者たちを見た。彼らは神の竪琴を手にして、このガラスの海の岸に立っていた。彼らは、神の僕モーセの歌と小羊の歌とをうたった。

『全能者である神、主よ、/あなたの業は偉大で、/驚くべきもの。諸国の民の王よ、/あなたの道は正しく、また、真実なもの。主よ、だれがあなたの名を畏れず、/たたえずにおられましょうか。聖なる方は、あなただけ。すべての国民が、来て、/あなたの前にひれ伏すでしょう。あなたの正しい裁きが、/明らかになったからです。』」

 「最後の七つの災い」「神の怒りがその極みに達する」という状況にあってさえ、「神の竪琴」にあわせて「神の僕モーセの歌と小羊の歌」を歌う道が用意されているのです。「神の僕モーセの歌」とは、60万人を超えるエジプトの奴隷状態から脱出したイスラエルの民が、後方からエジプトの軍隊が迫り、前方は海という危機的な状況に陥った時、その海が二つに裂け、イスラエルの民は乾いた地面を渡ることができたときに歌われた歌を指し示しています。「十戒」という映画を記憶しているかもしれません。絶体絶命という状況にあって、その出来事が消えてなくなるのではなく、そこを通り過ぎる道が開かれたのです。また、「小羊の歌」とは、神の独り子イエス・キリストが、神にささげらえた小羊のごとく十字架にかけられた出来事を指し示しています。弟子たちにとってもうだめだという出来事、それが主イエスの十字架でした。しかし、主イエスは3日目に復活されたのです。復活の体、栄光の体をもって弟子たちの前に現れてくださいました。死が終りではないことをはっきりとお示しくださいました。その復活の喜びを与え、「小羊の歌」を歌わせてくださるのです。絶体絶命と思えるような状況の中を、「神の竪琴」の美しい調べに合わせて、そのような喜びの「歌」を歌わせてくだり、通り過ぎさせてくださるのです。そして、16章以下の「災い」「極みに達する神の怒り」の中を歩ませてくださるというのです。

 15章1節には「最後の七つの災い」とあります。14章までにも、いくつもの「災い」に相当するものがありました。しかしここで「最後の」と記されていることに大切な意味があります。

 16章1節の「最後の七つの災い」のうちの5つを順番に見てゆきましょう。

 はじめに、2節は、第一の天使が与えられた鉢の中身を地上に注いだ時の様子です。

 「そこで、第一の天使が出て行って、その鉢の中身を地上に注ぐと、獣の刻印を押されている人間たち、また、獣の像を礼拝する者たちに悪性のはれ物ができた。」

 「獣の刻印を押されている人間たち」「獣の像を礼拝する者たち」とは、神ではない存在を礼拝している者たちを指していますが、13章16、17節には次のようにあります。

「また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由な身分の者にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。そこで、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようになった。この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である。」

 「刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできない」とあるように、経済的な活動の中にどっぷりと身を置き、経済的な満たしこそが自分の人生の目的であり、経済的な支えこそが自分を支えているという価値観の中に生き続けてしまうことへの警告がここにあります。国の代表者の選挙でも、国の経済力を強めることが当たり前のように強調されます。確かに経済的な秩序は大切です。しかし、それが人間のすべてであり、それが人間を幸せにしてゆくとは、神はお考えになっていません。16章2節の「最後の七つの災い」のうちの第一は、そのような人々には「悪性のはれ物ができた。」とあります。「悪性のはれ物」は、出エジプトの際にファラオとエジプトの民に対してもたらされた「災い」のうちの一つです(出エジプト記9章10、11節)。繰り返し心を頑なにするファラオの姿は、人間の性質を鋭くあらわしているのと同時に、世の終わり、すべての完成の時、主イエス・キリストが再び来られる時に何が起こるのかを先取りして指し示しているのです。ヨハネの黙示録16章に記されている「災い」は、決して単なる脅しではありません。すでにイスラエルの民の出エジプトの際にもたらされた前例がすでにあるのです。にもかかわらず悔い改めなかったという過ちを繰り返してよいのか、と問いかけているのです。 

 3節は、第二の天使が与えられた鉢の中身を注いだ時の様子です。

「第二の天使が、その鉢の中身を海に注ぐと、海は死人の血のようになって、その中の生き物はすべて死んでしまった。」とあります。出エジプト記7章17,18節にも「主はこう言われた。『このことによって、あなたは、わたしが主であることを知る』と。見よ、わたしの手にある杖でナイル川の水を打つと、水は血に変わる。川の魚は死に、川は悪臭を放つ。エジプト人はナイル川の水を飲むのを嫌がるようになる。」と記されていますが、ヨハネの黙示録との違いは、「ナイル川」であり「海」全体ではないところです。ナイル川でさえ大騒ぎになる事態ですが、ここでは「海」が

「第二の天使がラッパを吹いた。すると、火で燃えている大きな山のようなものが、海に投げ入れられた。海の三分の一が血に変わり、また、被造物で海に住む生き物の三分の一は死に、船という船の三分の一が壊された。」

 しかし、注意して見ると、8章では血に変わった海は「三分の一」でした。16章のこの場面、すなわち「最後の七つの災い」においては、一部分ではなくすべてなのです。15章より前では、「三分の一」「四分の一」という表現が「災い」について繰り返し用いられていましたが、15章以降は、一切用いられていないのです。ある人は運よく、あるいは知恵を用いて要領よく災いをすり抜けて助かるが、ある人は助からないといったようなことは、「最後の七つの災い」がもたらされるその「時」、世の完成のその「時」には、もはやないのです。地球温暖化による海面上昇の影響で水没の危機にある島国が実際にあります。「自分の住んでいるところは海抜○○メートルだから大丈夫だ」といった具合いに、多くの人々はあまり大切な問題だとは考えないかもしれません。しかし、「最後の七つの災い」がもたらされる「時」には、誰一人例外なく、その「災い」(ここでは海の水が血に変わるという災い)と向かい合わなければならないのです。そのようなことはあって欲しくありません。海は、広くて大きくて、エベレスト山よりも深い海溝があり、水の量はものすごいことを知っています。だから少しぐらい汚しても回復するのではないか、といった感覚で海を眺めてしまいがちです。何でも受け入れてくれるのが海だ、と思いがちです。しかし決してそうではないことを、わたしたちは薄々気づいているはずです。海の中のマイクロプラスチックや放射性物質が、確実に蓄積されていてすでにわたしたちの生活に影響を及ぼし始めていることを知らされつつあります。「海の生き物がすべて死んでしまった」というとんでもないことが起ころうとしているのです。そのような困難の真っ只中で、15章にあるような「竪琴にあわせて、神の僕モーセの歌と小羊の歌」を歌いつつ、進む道があるのです。

 4~7節は、第三の天使が与えられた鉢の中身を注いだ時の様子です。

「第三の天使が、その鉢の中身を川と水の源に注ぐと、水は血になった。そのとき、わたしは水をつかさどる天使がこう言うのを聞いた。『今おられ、かつておられた聖なる方、/あなたは正しい方です。このような裁きをしてくださったからです。この者どもは、聖なる者たちと/預言者たちとの血を流しましたが、/あなたは彼らに血をお飲ませになりました。それは当然なことです。』わたしはまた、祭壇がこう言うのを聞いた。『然り、全能者である神、主よ、/あなたの裁きは真実で正しい。』」

 自然界のシステムというのは、ダイナミックですばらしいものです。海の水がすべて血に変わってしまったとしても、そこから蒸発した水分が、陸地の山に当たって大地に降り注ぎ、川となって生き物に必要な水をもたらします。すばらしい循環システム、濾過システムによって、わたしたちは今まで、何度も危機的状況を切り抜けてきたかもしれません。しかし、今回ばかりは、その「川と水の源」さえも「血になった」というのです。自然界のシステムが機能しないというところを、わたしたちは経験しなければならないというのです。まことに厳しいことです。それは、人々が「聖なる者たちと預言者たちとの血を流した」すなわち命をないがしろにしたことと関わっているのだ、というのです。命を大切にするということをないがしろにしてきたではないか、と問いかけられているのです。

 8、9節は、第四の天使が与えられた鉢の中身を注いだ時の様子です。

「第四の天使が、その鉢の中身を太陽に注ぐと、太陽は人間を火で焼くことを許された。人間は、激しい熱で焼かれ、この災いを支配する権威を持つ神の名を冒瀆した。そして、悔い改めて神の栄光をたたえることをしなかった。」

 わたしたちも、今、尋常ではない暑さを経験しています。これにまさる「暑さ」がもたらされるというのです。クーラーがあるから大丈夫だ、と誰一人言えないような「暑さ」を想像できるでしょうか。しかし、そんなとんでもない「災い」の真ん中を、「神の僕モーセの歌と小羊の歌」を竪琴にあわせて歌いながら通り過ぎる一本の道があるというのです。

 ここに注意して見なければならない一つのポイントがあります。

 10、11節の第五の天使が与えられた鉢の中身を注いだ時の様子と、その直前の第四の天使が注いだ時の様子には、第一から第三の天使の時になかったひと言が繰り返されているのです。

「第五の天使が、その鉢の中身を獣の王座に注ぐと、獣が支配する国は闇に覆われた。人々は苦しみもだえて自分の舌をかみ、苦痛とはれ物のゆえに天の神を冒瀆し、その行いを悔い改めようとはしなかった。」

 それは、その最後の時、すべての完成の時に及んでも、「神の名を冒瀆した。そして、悔い改めて神の栄光をたたえることをしなかった。」(9節)「天の神を冒瀆し、その行いを悔い改めようとしなかった。」(11節)というのです。

 10節には「獣が支配する国は闇に覆われた。」とあります。「闇」の中で、わたしたちは、自分の手さえも見ることができず、自分という存在を認識することができません。鏡に自分の姿を映すことさえできません。モーセの出エジプトの際にも、地に闇がもたらされ、たった3日間であったにもかかわらず人々が慌てふためいたことが記されています(出エジ10:21~29)。人と人との一切の関係性が断たれるということは、ものすごい不安をわたしたちにもたらします。

 そのようなとんでもない「災い」である「激しい熱」「闇」によって、人はバタリと命を奪われるのではないというのです。死には至らない中で「神が何とかしてくれないから悪いのだ」と、神に鉾先を向けるということが起きてくるのだというのです。そのとてつもない厳しい状況の中でさえ、そこを賛美の歌を歌って通り過ぎる道が用意されているにも関わらず、そこから目を背けてしまうことが起きてくるというのです。

 「最後の七つの災い」のうちの最初の5つについて、わたしたちはすでに今、無関係な世の中に暮しているのではなく、それを連想できるような環境の変化の下に生きているといってよいでしょう。しかし、それが「三分の一」「四分の一」といった一部の人々だけが経験するのではない、すべての人が経験する時が来ることを聖書は伝えているのです。そして、その時を通り過ぎるための一本の道を神さまは用意してくださっているのだということを、同時に聖書は伝えています。そこから目をそらさずに歩んでいきたいと思います。そして、その時、わたしたちにはなおなすべきことがあるのだということを教えられるはずです。

 最後に一冊の本を紹介いたします。

 2年ほど前に特別講演会の御用をしてくだった上遠恵子さんが監修している『ビューティフルライフ -消費の次の暮らし方-』(海拓舎・2001年)という本です。自分たちの暮らしをもう一度見直してみよう、シンプルな暮らしを生きてみようとチャレンジしている人の声が集められています。その一番最後に上遠恵子さんが、「センス・オブ・ワンダー」という言葉を通して、わたしたちが目を向けて気づくべきものが身近に沢山あることを記してくださっています。

 ヨハネの黙示録16章の「時」は、必ず到来しますが、神は、そこを通り過ぎる道を用意してくださっています。そして、その「時」は、現在の「時」とつながっているのです。そのつながりに目を凝らすときに、わたしたちが今、すべきことも見えてくるに違いありません。祈ります。   (2024年7月14日・主日礼拝)

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