2024年6月16日礼拝説教「死は終わりではない」

牧師 田村 博

2024.6.16

春の特別伝道礼拝

説教「死は終わりではない」

旧約聖書 イザヤ書25:6~9

新約聖書 フィリピの信徒への手紙3:17~21

 「死」とは何でしょうか?

 地上でのわたしたちの肉体は、誰一人例外なく、目に見える体の器官としての心臓が停止し、呼吸が止まり、体温が下がり…という瞬間を迎えます。その瞬間を目の当たりにして、「死」は、すべてものの終りのように感じてもおかしくないでしょう。特に、愛する者の「死」を前に、自分には何もできないという無力さを感じるわたしたちです。

 しかし、同時にこんな言葉を一度ならず耳にしてきました。

「知人の葬儀でキリスト教会に生まれて初めて行ったけれど、何だかよくわからないけど、ホッとした。」「自分の葬儀もキリスト教式であげてもらうのも悪くないなと感じた。」

 なぜでしょうか? 讃美歌の曲や歌詞に慰められるからでしょうか? それもあるかもしれませんが、単なる雰囲気の問題ではなく、奥深いところまで掘り下げて考えてゆくと、もっと大切な理由にたどり着くはずです。

 それを考える上でのキーワードが、本日の説教のテーマでもある「死は終わりではない」という言葉です。

 「死」によって肉体的な活動は停止するが、一人の人の存在は、その人と出会った人々の心の中に記憶として生き続ける、だから「終りではない」というのでしょうか?

 確かに、自分が死に向かい合っている時、自分という存在が「無」になるのではなく、親しい人、家族の記憶に留められ、願わくばその記憶がその人のためになるとしたら、自分の存在は無駄ではないんだと気づかされ、「死」へのこだわりが薄れ、心が安らぐに違いありません。意味のあることです。しかし、覚えている人々の記憶は薄れてゆくものです。また、誰にも覚えられずにいる人々は救われないということでしょうか? 核家族化が進み、孤独死が社会問題となっている現代であり、人と人とのつながりの中に希望を見い出してゆくことはとても困難になっています。出会った人々の心の中に記憶として生き続けるから「終りではない」のだと、すべての人と共有することは難しいかもしれません。

 それでは、「死」によって肉体的な活動は停止するが、「魂」「霊」は残って存在するから「終りではない」というのでしょうか? いわゆる霊魂不滅という考え方です。

 確かに、霊魂の世界、わたしたちにははっきりとわからないことがあります。

 ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)という人の記念館が山陰・松江にあります。明治時代、アメリカ合衆国の出版社の通信員として来日し、まもなく日本人女性と結婚。日本国籍を取得して「小泉八雲」と名乗りました。彼は、松江(島根県)・熊本・神戸・東京と居を移しながら日本の英語教育に尽力しました。また、彼は、日本各地の怪談を集めて『怪談』として出版、英訳して世界に紹介しました。英語の教科書にも取り上げられていました。来年の秋のNHK朝ドラは、この小泉八雲のお連れ合いを取り上げるそうです(タイトルは「ばけばけ」)。

 人々が、体は無くなっても霊魂は残るのではないかと考えるその根底にあるのは「怪談」に手を伸ばしたくなる感情と似たような感情=恐怖心からかもしれません。「怖いもの見たさ」といった感情です。しかし、聖書は、人間の恐怖心を利用して語ろうとしているのではありません。「魂」「霊」は残って存在するから「死は終りではない」と言ってわたしたちを安心させようとしているのではないのです。

 「死」によって肉体的な活動は停止するが、生きものを形づくっている物質は再利用されて新たな命の活動の中に生かされているから「終りではない」というのでしょうか?

 川で生まれたサケが大海原で成長し、また川に帰って来る姿をじっと観察すると、そこには命の循環があります。産卵したサケは、二度と海には戻りません。そこで命を終え、その体は他の生き物の餌になったり微生物たちによって分解され、回りまわって孵化した子どものサケの餌となるのです。自然界の生き物の世界は弱肉強食ばかりであると考えがちですが、そうばかりではありません。確かにそこから学ぶことは多いでしょう。生物が自分自身のために生きているのではなく、他の生き物を生かすために生きている姿は、戦争や闘争にあけくれる人間を立ち止まらせてくれるかもしれません。しかし、聖書は、命のつながり、循環だけを強調して、だから「死は終わりではない」と語っているのではありません。

 聖書に一番最初に「死」という言葉が出てくるのは、創世記2章16、17節の有名なエデンの園での木の実を巡る神さまの言葉の中です。

 「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」

 そして、3章へと続きます。ご存知の通り、ヘビの誘惑にあったエバは、その実を食べてしまいました。しかし、その瞬間エバとアダムはバッタリと地に倒れて死んだわけではありませんでした。では神さまの言葉は間違っていたのでしょうか? 決してそうではありません。主なる神が人に近づいてくる気配を感じて、人は、「恐ろしくなり、隠れた」と聖書は伝えています。ここには、「神さま」と感謝を込めて見上げる喜びのかけらもありません。関係性の崩壊です。ここに「死」があります。「肉的な死」に対して「霊的な死」と呼ぶことができるでしょう。

 創世記3章は、もう一歩踏み込んで大切なメッセージを語っています。

「主なる神は言われた。『人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。』主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。」(3:22~24)

 「霊的な死」に陥ったままで「永遠」に生きるとするならば、それは悲劇そのものです。わたしたちは誰もが、ひと時ひと時が有意義な喜びに満ちたものであって欲しい、そんな時ならば永遠に続いて欲しいと単純に考えるに違いありません。

 ここで閉ざされた「命の木」への道を開くために、主なる神は、御子イエス・キリストを世に遣わしてくださいました。ヨハネによる福音書3章16節をご覧ください。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

「霊的な死」からの救いがここにあります。神さまとのつながりの回復です。

 神さまからの「正しさという光」に照らされるときに、否応でも明らかになる自分の「闇」があります。光が物に当たると、反対側に影ができます。イエス・キリストというお方は、その「影」の部分については全責任を負うとおっしゃってくださったのです。そして、次の言葉を臆することなく口にすることができるようにしてくださいました。

「わたしたちの本国は天にあります。」(3:20)

 わたしたちに、「自分は、神さまの国に属する民だ」と断言することができるようにしてくださったのです。

 わたしも、神さまからの「正しさという光」に照らされ、自らの「闇」の存在を思い知る経験をしたことがあります。

 今月8日に婚約式をあげた長男の前に、神さまはわたしたち夫婦に命を授けてくださいました。しかし、当時の自分には、妻のことを思いやったりする心のかけらもありませんでした。「この世のこと(自分のこと)しか考えていません」(3:19)というフィリピ書の御言葉そのものでした。妻は、9か月で死産をしてしまいました。妻が産院に入院していた時、昼間は、かろうじて自分を保っていました。しかし、夜一人になると、自分が泥沼のような闇の中にはまり込んでいるように感じました。「あの時にああすれば…」「こうしておけば…」と罪悪感が次から次へと襲いかかってきました。どんなに後悔しても、失われた命は戻って来ません。その罪悪感の中で闇に落ち込み、眠ることのできない夜を過ごしていました。その時(三日目の夜)、内ならぬ声が、心の中に静かに、しかしはっきりと広がってきました。

「おまえの罪はもうそこにはない。」(うつむいて自分を責め、自分を見続けている自分に対して、「そこ」=自分が見つめ続けているところにはない)

「十字架を見上げよ。」

「お前の罪は、あそこにあるのだ。」

 その瞬間、自分ではどうすることもできないことゆえに、主イエス・キリストが十字架におかかりくださったという意味が、初めてわかりました。と同時に、それまで味わったことのないような平安を、その瞬間いただいたのです。闇から光の中へと救い出してくださるお方は、確かにいらして、生きて働いておられるのだと実感しました。

 神さまは、このような回復を、わたしたちに与えてくださいます。そして十字架は、その回復の確かな目印なのです。そして、十字架ゆえにわたしたちは力強く告白することができるのです。

「わたしたちの本国は天にあります。」と。

 この「わたしたちの本国は天にあります。」という御言葉を正確に受け取りたいと思います。

 「わたしたちは召されたら天国に行けます」ではありません。地上にあって、どのような経験をしていても、たとえ、苦しみの中に置かれているように感じるときでさえ、自分の「本国は天にある。」と告白させてくださるのです。聖書協会共同訳では「私たちの国籍は天にあります。」、前の口語訳でも「わたしたちの国籍は天にある。」といずれも「国籍」という言葉を使っています。わたしたちは、どこにいても、たとえば海外旅行に行っているときでも「国籍」は変わりません。そのように決して変わらないのです。

 そして、神さまは、わたしたちが「天」に戻るのをただ静かに待っているのではありません。

「そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」(3:20とあるように、主イエスの方から、わたしたちのところにおいでくださるというのです。

 主イエス・キリストが、再びこの地上に来てくださる「世の完成の時」が来ます。そして、その時には、「わたしたちの卑しい体(=神さまの御心を見失ってばかりのどうしようもない存在)を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる」(3:21)というのです。

 なぜ、弟子たちは、そして続く弟子たちは、このような未来に向けての言葉を信じることができたのでしょうか。

  • 第一は、復活の主イエスを目の当たりにしたからです。十字架の「死」が終りではないという歴史的な事実を、目の当たりにしたからです。しかし、そればかりではありません。それだけだったとしたら、キリスト教は主イエスの十字架・復活を目撃した人々が死に絶えたときに終わっていたでしょう。
  • 第二は、信じた者の中に、希望の「光」が灯され、言葉では説明のできない変化を与え続けてきたからです。

 玉木愛子さんという一人のクリスチャンを紹介します。

 彼女は、1887年大阪生まれ。1899年(12歳)のとき、女学校の検診でハンセン病(当時はらい病)を宣告され、退学し、人目をさけて自宅での療養生活に入りました。1919年(32歳)のとき、妹、弟たちの結婚の支障になるのを恐れ、一時は自死も考えましたが、熊本のハンナ・リデルが創立した私立ハンセン病病院の回春病院に進んで入院しました。そして1年半後の1921年(34歳)受洗したのです。その後、文通による出会いもあり俳句を作り始めました。1929年42歳のときには病状が悪化し、右足を切断し、その後、岡山県・長島愛生園に移りました。50歳で失明され、1969年に82歳で召されました。

 彼女は次のような俳句を残しています。

 けむし      

「毛蟲匍へり 蝶と化る日を夢見つつ」(1943年)

 手足の自由を失った体ゆえに、体を動かすにも人の手を借りなければならない状態でした。何度も人を呼ぶのは心苦しく、そこで毛虫のように這って部屋の中を移動していました。しかし、主イエスが来られるその時、復活の日には、蝶のように羽ばたくのだという希望を詠んだ句です。

    かかし

「案山子立つ 神より弓矢賜りて」(1942年)

 片足を切断した彼女は自分を案山子と表現しています。しかし、神さまから信仰の旅路において勝利にあずかるように弓矢を賜っているというのです。案山子には、大切な収穫物を雀から守る役割があります。そのように自分にも役割があるのだという気持ちが込められています。

 主イエス・キリストが、再びこの地上に来てくださる「世の完成の時」が来ます。

 そして、その時には、「わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる」のです。だから、「死は終わりではない」のです。

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