牧師 田村 博
2023.9.10
説教「続・聖書の中の宝⑥ 最終回 『虫』」
旧約聖書 ヨナ書4:4~11
新約聖書 ヤコブの手紙5:7~10
1年前の10月特別伝道礼拝を皮切りに「聖書の中の宝」(3回)、「続・聖書の中の宝」(6回)と2つのシリーズ(計9回)に取り組んでまいりました。聖書の中にはたくさんの「宝」があり、今回取り上げたのはほんの一部ですが、一応一年間で区切りをつけて、今回を最終回といたします。
最終回のテーマは「虫」です。
「虫」と聞いて、特に女性の方の中には「あまり得意ではない…」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。しかし「虫」は、実は自然界のバランスの中でとても大切な役割を担っているのだということを、聞いたことがあると思います。「自然界のバランスの中でとても大切な役割を担っている」とは、言い換えれば、わたしたちの「命」と深く関わっているということです。聖書でも、「命」に関わるところに登場しています(後述)。
聖書に入る前に、少々脱線をいたします。
皆さん、「手のひらを太陽に」という歌を知っているでしょう。
「ぼくらはみんな 生きている
生きているから 歌うんだ
ぼくらはみんな 生きている
生きているから 悲しいんだ
手のひらを太陽に すかしてみれば
まっかに流れる ぼくの血潮」
という有名な歌です。
この歌の作詞者はやなせたかしさん、作曲者はいずみたくさんです。やなせたかしさんは、アンパンマンの原作者でクリスチャンです。この「♪ぼくの血潮…」に続いて3つの生き物が登場します。
「ミミズだって オケラだって アメンボだって
みんなみんないきているんだ 友だちなんだ」
この3つの生き物のうち2つ(オケラ、アメンボ)が「虫」です。
この曲の2番と3番には、また別の生き物が登場します。
1番 ミミズ、オケラ、アメンボ
2番 トンボ、カエル、ミツバチ
3番 スズメ、イナゴ、カゲロウ
並べてみると、1番から3番いずれにも3種類の生き物が登場し、そのうちの2種類が「虫」であることがわかります。これは決して偶然ではないでしょう。
「虫けら」と言われて軽んじられることの多い昆虫です。ちなみに「虫けら」の「けら」は、1番に登場している「オケラ」です。オケラは、一生のほとんどを土の中で過ごすため、わたしたちの目には触れにくい生き物です。わたしも小学生のとき、2回だけ遭遇したことがあるだけで久しくお目にかかっていません。前足がモグラに似ていて、ショベルのように土を掘るのに特化しています。しかし、その土を掘る能力にはずば抜けたものがあります。土を掘るスピードは、1分間で20センチほどです。オケラは体長3センチ。身長170センチの人間に換算すれば1分間で12メートルの土を掘るということです。シャベルを一本渡されて、トンネルを掘るように命じられて1分間で12メートルずつ掘り続けることなどわたしたちにできるでしょうか? すごい能力です。しかし、地味で顧みられることの少ない虫です。カゲロウにしても、薄命・短命の象徴のような地味な虫です。やなせたかしさんは、あえてその虫を、ご自身の歌に登場させているのです。しかもマイナーな虫を混ぜながらです。
「虫(昆虫)」は、動物の中ではどのような位置にあるのでしょうか。生き物を「系統樹」というものを用いてあらわそうとすることがあります。
単にかたちが似ているからというだけで「進化」を想定して並べただけでなく、発生学的所見を踏まえて考えられています(卵子と精子が合体し、一つの細胞として発生を開始したとき、その過程で、共通の形状をくりかえす)。最近は、遺伝子・DNAレベルでその違いを比較し推論、修正、実証が試みられています。
この図であらわされているとおり、「昆虫」は、脊椎動物と無脊椎動物に分かれているうちの無脊椎動物の「枝」の中で最も複雑化し、進化したものと確認されています。
また、「昆虫」は生態系維持の鍵となっています。昆虫は、わかっているだけで約100万種・全動物の75%を占めているのです。昆虫は、生き物の中で最も繫栄している生き物であると言えるでしょう。礼拝後、会堂を出て外に一歩足を踏み出したとき、注意して足もとを見ると、そこに必ずアリがいるに違いありません。しかも、そのアリは、ただブラブラ散歩しているのではないのです。高度な社会化した集団を形成していて、一匹一匹がしっかりと役割を与えられていて、その役割を果たすべく行動しています。単に食べ物を探してくるだけではありません。食べ物がどこにどのぐらいあるのかを仲間に正確に伝え、その情報を集団で共有するのです。その他にも巣の中で幼虫を育てる役割、地下の巣をメンテナンスする役割などなど、種類によっては、もっと複雑な役割を持つものもいるのです。
昆虫は自分たちだけの閉鎖的なシステムを構築しているのではありません。ミツバチを筆頭に、他の様々な昆虫がいなければ、植物の花粉の受粉はなされず、ブドウも、リンゴも、イチゴも、実を結ぶことができません。人間がやればいいではないか、と言うかもしれませんが、それには気の遠くなるような時間と労力を要することになり、実際問題として無理です。
植物の受粉に関わることだけではありません。聖書でもそうなのですが、古くなったもの、腐ったものなどに集まる性質をもっている昆虫が多いのも事実です。それゆえ、あまり人間から好まれないのかもしれません。しかし、それはとても大切な働きをしているのです。もし、昆虫が、動物の遺体や、古くなったもの、腐ったものなどに集まって、それを細かに嚙み砕いたり、体液を吸い取ったりしなければ、それはそのままになってしまい、今度は、病原菌などが異常増殖し、生物の生活環境が著しく損なわれることになりかねないのです。昆虫は、「自然界のお掃除屋さん」として生態系の中で、欠くことのできない存在なのです。
それでは、聖書のどのようなところに「虫」が登場しているのでしょうか?
- 出エジプトの場面での10の「災い」うちの3つ(ぶよ、あぶ、いなご)
災いと一緒に出てくるので、よい印象はないかもしれません。しかし、彼らは神に用いられたのです。彼らの存在ゆえにファラオやエジプトの民は神の力を目に見えるかたちで知ることができたと言えます。
- 荒れ野で1日たったマナについた「虫」
「虫」がついて食べられないという表現から、嫌なやっかいもののように感じるかもしれません。しかし、考えてみれば、「マナを次の日まで残しておいてはいけない」という神様からのメッセージを自分たちがないがしろにしているのだ、ということを見えるかたちで気づかせてくれたのが「虫」なのです。
- 神に命じられてとうごまの木に登った「虫」
そして、本日の聖書箇所のヨナ書です。
ここでは、神が「虫」に命じられたことがはっきりと記されています。神ご自身のみ旨を成し遂げるために「虫」が用いられているのです。
「虫」そして「とうごま」を通して神がヨナに教えたこととは一体何だったのでしょうか?
1)人間の抱く「怒り」
ヨナは、怒っていました。それは、ニネベに住む異邦人が悔い改めたことに端を発しています。異邦人の救いは、イスラエルの民にとって容易に受け入れられることではなかったのです。割礼を受けて、律法を受け入れ、律法に従う決心をして初めて神に受け入れられるはずだと考えたのです。ヨナの心の中からは、ニネベに人々がそのようになっていない、だから滅ぼされても仕方がないことなのだという気持ちがどうしても拭い去れなかったのです。にもかかわらす、神は、ニネベの住民に対する裁きを取りやめました。それゆえ、「怒った」のです。わたしたちも、いつの間にか、自分の尺度を中心に物事を考えがちです。それに当てはまらないと憤慨したりしてしまうものです。「虫ととうごま」のこの出来事を前にして、人間の陥りやすい感情が取り扱われています。
2)人間が自然界においていかに多くの恵みにあずかっているか
神は、まず、「とうごま」を用いられました。ヨナにとって、被造物・植物のもたらす日影が、どんなに心地よいものなのかを経験させたのであって、無理矢理恩着せがましく説教をしたのではありませんでした。ヨナ自身、小屋を作って日除けの役割をもつものを自分でこしらえていました。それを用いて強い太陽の日差しは避けられました。しかし、それ以上のものを「とうごま」はヨナにもたらしたのです。
某中古車販売会社が「街路樹」を枯らしたことが世間で問題になっています。確かに、無い方が店の建物が目立ち広告効果は高まったでしょう。それゆえ「街路樹」は無駄な邪魔な存在にしか映らなかったのかもしれません。「街路樹」は次の役割があると言われています。①交通安全(車道と歩道の分離)、②生活環境保全(通行人は日影で快適に移動、フィレンチフィッドの放出、景観)、③防火(延焼防止)。植物がわたしたちにもたらす恩恵はわたしたちの想像をはるかに超えたものであるに違いありません。
3)「命」を「惜しむ」創造主なる神
わたしたちを愛し、生かしてくださる創造主なる神は、被造物の「命」を「惜しむ」お方です。そこにはイスラエルの民と異邦人の差はないのです。神はわたしたちの「命」のために、その一人子イエス・キリストを世に遣わしてくださいました。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書3:16)