牧師 田村 博
2023.4.9
■「復活なさったのだ」
(新約 ルカによる福音書24:1~12 旧約 創世記9:8~13)
イースターおめでとうございます。わたしたちが住む日本では、イースターだからといって特別な休暇があるわけではありません。しかし欧米ではかなり異なり、受難日(十字架にかかられた「聖金曜日」)から始まり、イースターマンディと呼ばれる月曜日にかけての4日間は、基本的に長期休暇期間となります。人々がどれほど、このイースターを大切にしてきたかが、4日間を休暇として扱っていることにあらわれています。もちろん、公立学校はお休み、企業や役所なども原則としてお休みです。米国で今、話題になっている某元大統領が起訴された大陪審も、この4日間は一切の審議がお休みとなりました。
欧米のこの習慣を知った人から、もしかしたら「イースターって何の日なの?」と尋ねられることもあるかもしれません。皆さんならばどう答えるでしょうか。「イエス様が十字架にかけられたけれど3日目に復活されたことを覚え、礼拝する日」とお答えになるでしょうか? 確かに正解ではありますが、聖書にはどのように記されているのでしょうか? 本日与えられたルカによる福音書24章1節以下は、まさにその日の出来事について伝えている箇所です。
24章1節をご覧ください。
「そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。」
これは、主イエスが葬られた時にその場所をしっかりと確認した婦人たちの行動です。彼女たちは、目の前で主イエスが十字架にかけられ、その十字架の上で息を引き取られたのを一部始終見届けていました。ユダヤの一日は日没から始まります。主イエスが十字架にかけられたのは金曜日であり、土曜日は「安息日」と呼ばれ一切の労働が禁じられていました。主イエスの遺体は「安息日」が始まる日没の前に、葬りを完了させなければならなかったのです。それゆえ、香油を塗り、布で包むなどの通常の遺体処理が、あわただしく行なわれたことでしょう。婦人たちはその様子を目撃していました。それは、婦人たちの目から見て、とても満足できるものではなかったに違いありません。安息日が終わっても真っ暗な夜に墓に行って遺体処理をやり直すことは現実的に難しかったので、朝が来るのを待ち構えて、婦人たちは墓に行ったのです。
ところが2~3節をご覧ください。
「見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。」
4節にあるように、婦人たちは「途方に暮れ」ました。
イースターの朝、婦人たちが最初に目にしたのは、最初に会ったのは、復活された主イエスご自身ではなかったのです。聖書は、復活された主イエスが、真っ先に婦人たちを迎えてくれた、と伝えていません。4つの福音書で確かに表現は微妙に異なります。しかし、共通していることは、婦人たちは空の墓を目撃して、悲しみ、とまどい、途方に暮れたという現実です。それがイースターの朝の、最初の出来事です。その現実を飛び越して「復活の主イエス」と相まみえることはなかったのです。
死者が甦るという出来事は、新約聖書にも旧約聖書にも一度ならず記録されています。たとえば、ヨハネによる福音書11章にはラザロという男性が記されています。彼は、墓に葬られて4日もたっていたのに、主イエスが「ラザロ、出て来なさい」と大声で呼びかけられたところ、手と足を布で巻かれたまま、墓から出てきたのです(43~44節)。召された人が息を吹き返し、大勢の人々の前で、その葬られた墓から出てきたのを目撃した人々は驚いたことでしょう。何か月も、何年も、人から人へと語り継がれたことでしょう。ラザロと同じように、もし主イエスが、婦人たちの目の前で、布でお体を巻かれたままで出てこられたのなら、婦人たちは、「主イエスが復活された!」と、他の何ものにも変えられないほど、その事実を確信し、他の弟子たちに報告するその言葉も確信と喜びに満ちたものとなったに違いありません。しかし、そうではなかったのです。そして、そこには、大切な意味があります。
- 主イエスは、今「生きておられる」
婦人たちは、主イエスが「死」という物理的現象の中に呑み込まれてしまったと思い、疑いませんでした。確かに主イエスは十字架の上で息を引き取られました。それは、仮死状態だったわけでも、誰かが身代わりになったわけでもありません。確かに息を引き取られたのです。それは「死を越えた生命」があることを、ご自身の復活を通してあらわすためでした。わたしたちには、「死」は、すべてのものを奪い取ってしまうもののように見えます。「死」は「絶望」しかもたらさないもののように見えます。婦人たちも「途方に暮れ」る以外のどうすることもできず、自分の無力さに打ちのめされました。しかし、そこを通らなければ「死を超えた生命」の本当の大切さは、わからないのかもしれません。わたしたちも、しばしば、この世の生活の中で、この婦人たちのような痛み、悲しみを味わうことがあります。その一つひとつ、無意味なことはひとつもないのです。主イエスは今、生きておられます。そして、「絶望」を越えた「生命」=「死を超えた生命」があることを教えようとされているのです。
内村鑑三というキリスト者がいました。彼にはルツ子さんという長女がいました。女学校を卒業して、父の仕事を手伝っていましたが、17歳のときに 、高熱が6ヵ月も続いた後に亡くなりました。臨終の3時間前、内村はルツ子さんに洗礼をさずけ、親子3人で聖餐式をしました。ルツ子さんにとって最初にして最後の聖餐式となりましたが、杯を飲みほして、その顔に歓喜の色を浮かべて「感謝々々」とくりかえしたそうです。その40分後に「もう行きます」という臨終の言葉を残し、息を引き取りました。告別式で内村は「今日はルツ子の葬儀ではなく、結婚式であります。私は愛する娘を天国に嫁入りさせたのです」と述べました。雑司ヶ谷の墓地に埋葬する際には、一握りの土をつかみ、その手を高く上げ、甲高い声で「ルツ子さん、万歳!」と大勢の参列者の前で叫んだと、後に東京大学の総長となった矢内原忠雄が伝えています。
「死」が奪い取ることのできないものがあります。主イエスは、今、生きておられます。主イエスは、ご自身の復活を通して、そのことを婦人たちに伝え、同時に、わたしたちに伝え続けているのです。
- 「イエスの言葉」の中にすべては完全に、すでにあらわれている
6節から8節をご覧ください。
「『…あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。』そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。」
婦人たちにあらわれた御使いたちは、婦人たちを主イエスのところに連れていったのではありません。この地上で、目に見えるかたちで主イエスにお目にかかること以上に大切なことがあることを伝えたのです。主イエスが今、生きておられるということ、死を超えた生命があるという事実は、主イエスご自身がお語りになった御言葉の中に、すでに完全にあらわされていると告げました。
主イエスは、ある時、「金持ちとラザロ」というたとえ話を語られました(ルカ16:19~31)。生前の行ないゆえに死後「苦しい場所」にとどめられた一人の金持ちがこう言いました。
「もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう(自分のように苦しまないですむでしょう)。」
しかし、それに対して、
「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」
という答えが与えられました。「モーセと預言者」すなわち「聖書(ここでは旧約聖書)」の中に、主イエスが、今、生きておられること、死を超えた生命があるということを信じるために必要なものが、すでに完全にあらわされているというのです。
わたしもいろいろな場面で繰り返し「聖書通読」の大切さについて申し上げています。わかるわからないを越えて、読み続けることには意味があるのです。それは、御言葉の中に、目に見えるかたちで主イエスにお目にかかる以上に大切なことが、すでに完全にあらわされているからなのです。読んだときにわかることなど、限られていて当たり前かもしれません。婦人たちでさえ、主イエスが語られたその時にはわからなかったのです。「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている。」と言われても、何のことかまったく理解できなかったのです。しかし、それを墓の前で、思い出すように促されたのです。「そうだったんだ!」…主イエスは復活されたのだ。今、生きておられるのだ。それがどんなに大切な意味を持っていたのか、一歩一歩教えられていったのです。
- 弟子たちですら「信じなかった」というこの世の現実の中を通り過ぎる
9節から11節をご覧ください。
「そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。」
「たわ言」と訳されているこの言葉は、精神錯乱の病人のうわごとをあらわす言葉です。ルカが医者であるゆえに用いられている言葉です。婦人たちにとって、一番頼りになると思っていた弟子たちが信じてくれない…とは、どんなに悲しく、心の痛むことだったでしょう。気がふれていると見下げられるという無理解がここにあったのです。
わたしたちが生きているこの世の現実の中でも、無理解や、心ない言葉を浴びせられることがあります。しかも、婦人たちにとっての弟子たちとは身近にいて、一番の理解者であってほしいと願う人々でした。そのような人々が、自分たちを理解してくれず信じなかったのです。しかし、今生きておられる、復活の主イエスに心を向け続けるとき、その無理解な心ない言葉さえ、何の妨げにもならないのです。むしろ、主イエスが今、生きておられること、死を超えた復活の生命が、それらの言葉をものともせずに貫くものであることを体験できるのです。
「しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。」(12節)
墓を見ても「理解」に至らず「驚く」だけのペトロの姿がここにはっきりと記されています。しかし、空の墓を共有する「仲間」が、ポツリ、ポツリとつながってゆくのです。
その日の出来事は13節以下(エマオ途上の主イエスの顕現)に続いています。その出来事については日本基督教団聖書日課により、次週ご一緒に受けとめることになります。それは、「復活の主イエスと面と向かい合う」という出来事です。それは慰めに満ちた出来事です。しかし、わたしたちは、1節から12節までの本日の聖書箇所をスキップしては先に進むことができないのです。1節から12節までの本日の箇所があるからこそ、13節以下の御言葉には意味があるのです。
復活の命が、今、わたしたちの現実の中にも貫かれています。「信じられない」「弱さ」だらけのわたしたちのところに、主イエスが降りてきてくださり、ご自身の栄光をあらわしてくださったのです。それによって、神さまとわたしたちの間に、断絶ではなくまことの希望を築いてくださいました。これが、聖書がわたしたちに伝える「最初のイースター」です。この恵みを一粒も余すことなくいただく者となりたいと思います。
イースター礼拝2023.4.9