牧師 田村 博
ヨハネの黙示録3:1~6 旧約 詩編51:9~11
田 村 博
ヨハネの黙示録講解説教の8回目となりました。「エフェソの教会」「スミルナの教会」「ペルガモンの教会」「ティアティラの教会」に続く5つ目の「サルディスの教会」の登場です。「サルディス」という地名は、わたしたちには馴染みの薄いものでしょう。地図で確認していただくと、前回の「ティアティラ」から50㎞ほど離れているお隣の普通の町のように見えますが、この地域で最も古い重要な都市の一つでした。内陸部からエーゲ海沿岸に通じる重要な街道の途上に位置していて、紀元前にはリディアという国の首都で、砂金が算出されたことから貿易と商業によって繁栄したようです。世界最古の貨幣・エレクトロン貨は、このリディアで造られたそうです(紀元前6世紀頃)。最近トルコ・シリア大地震があったばかりですが、過去においてサルディスも地震で壊滅的な被害を受けたことがありましたが、当時の支配国であったローマの支援もあり再建したそうです。そのサルディスは15世紀初めまでは繁栄しましたが、今は、まったくさびれて、遺跡が観光客に公開されているだけの場所になっています。
エフェソの教会は、励ましと警告を同時にかけられていました。キリストは、「右の手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方」と紹介されていました(2:1)。
スミルナの教会は厳しい試練の中で、力強い励ましを必要としており、そこでキリストは、「最初の者にして、最後の者である方、一度死んだが、また生きた方」として紹介されていました(2:8)。
ペルガモンの教会には、神の御言葉がその上に鋭く、厳しくもたらされる必要がありました。それゆえ、キリストは、「鋭い両刃の剣を持っている方」と告げられています(2:12)。
ティアティラの教会には、教会の中に入り込んでいた「イゼベル」の教えの危険を鋭く指摘していました。それゆえ「目は燃え盛る炎のようで、足はしんちゅうのように輝いている神の子」としてキリストは表されています(2:18)。
サルディスの教会に対しては、主イエスはご自身を「神の七つの霊と七つの星とを持っている方」として現わされました(3:1)。「七つ」というところはエフェソの教会宛のメッセージに似ていますが、少し違います。サルディス宛では、「神の七つの霊」であり、「七つの霊」は、1章4節の「玉座の前におられる七つの霊」にすでに用いられています。
「七つの霊」すなわち、神様の完全な聖い霊、わたしたちの心の奥底を含む、すべてをご存じであるお方のメッセージです。それでは、どのようなメッセージが語られているのでしょうか。
(1)「実は死んでいる」
「わたしはあなたの行いを知っている。あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。目を覚ませ。死にかけている残りの者たちを強めよ。わたしは、あなたの行いが、わたしの神の前に完全なものとは認めない。」(3:1b~2)
「実は死んでいる」という、実にショッキングな指摘がなされています。サルディスの教会への指摘では、ニコライ宗や、イゼベルに従う者は出て来ません。また偶像崇拝、道徳の乱れが指摘されているわけでもありません。その反対に評判のよい教会でした。「生きている教会」=「生き生きとした教会で、評判もよい教会」と呼ばれていたのです。評判がよく、人々から評価されているならばそれでいいではないか、とわたしたちは考えがちかもしれません。他人に迷惑をかけ、評判が悪いよりは、その方がずっとましだ、と思っても不思議ではありません。しかし、ここに、わたしたちにとって何よりも大切な「福音=グッドニュース」ならではの、重要なポイントがあります。人間の見るところと、神様の見るところは異なるのです。ある人が、少しずつ、よい評判を積み重ねて、人々の信頼を育んで生きるその姿を見て、わたしたちは、親近感を覚え、高く評価することでしょう。しかし、その教会の、あるいはその人の姿が、どんなに生き生きとして評判がよかったとしても、その内側がどうであるかこそが問われているのです。
主イエスは、サルディスの教会に宛てて「わたしはあなたの行いを知っている。あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。」(1節)とおっしゃいました。どんなに人々が、社会が、隣人が評価したとしても、それは、主イエスが届けようとしている「永遠の命」とは、まったく関係のないものだというのです。
「実は死んでいる」というショッキングな指摘ですが、このひと言から連想した光景があります。それは、エゼキエルが与えられた幻の一場面です。37章1~3節には、次のように記されています。
「1主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。2主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。3そのとき、主はわたしに言われた。『人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。』わたしは答えた。『主なる神よ、あなたのみがご存じです。』」
エゼキエルの目の前に広がる「枯れた骨」には命のかけらもありませんでした。まさに、「死んでいる」…そのものでした。しかし、主はエゼキエルにおっしゃいました(4~10節)。
「4そこで、主はわたしに言われた。『これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。5これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。6わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。』7わたしは命じられたように預言した。わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。8わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。9主はわたしに言われた。『霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。』10わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。」
神様の霊によってもたらされる「まことの命」=「永遠の命」がここにあります。
わたしたち一人ひとりに、主イエスが、ご自身の命を代価にしてあずからせてくださる「命」は、この「まことの命」です。それは、神様の霊によって以外には、決してもたらされることのない「命」です。
ヨハネの黙示録3章1節の「実は死んでいる」は、「ジ・エンド」ではありません。人々から評価され、その高い評価によって「生きている」と思い込み続けてしまうならば、そこには、本当に受けとるべき、主イエスがあずからせてくださろうとしている「命」には、永遠にあずかることができないということを、厳しい表現ですが、はっきりと語っているのです。
「目を覚ませ。死にかけている残りの者たちを強めよ。」(2節) は、「死んでいる」者が、なぜ「死にかけている残りの者たちを強める」ことができいるのだろうか、死んでいるのでは何もできないではないかと思われるかもしれません。しかし、「人の高評価」のために生きるその歩みを、誇らしげに続けるならば、その姿をもって、周囲の人々をその生き方に導こうとするならば、導かれている人々は「死にかけている」のだという意味です。
「七つの霊」すなわち、主の完全な霊をもって、人の心の、魂の奥底まですべてご存じであるお方がおっしゃいます。
「わたしは、あなたの行いが、わたしの神の前に完全なものとは認めない。」(2節後半)
自分の生き方こそ、「神の前に完全だ」、人々も評価してくれるぞ…と誇らしげに心を掲げたとしても、「わたし(主イエス)…は、完全なものとは認めない」とはっきりとおっしゃっているのです。
では、そのようにすればよいのでしょうか。3節以下に、具体的な勧めが与えられています。ここにこそ希望があります。
- 「だから、どのように受け、また聞いたか思
い起こして、それを守り抜き、かつ悔い改めよ。」
新しい教えを求めてさまよい歩く必要はありません。自らが「死んでいる」一人、すなわち、あのエゼキエルに与えられた「枯れた骨」の幻に出てきた「骨」に過ぎなかったことに、わたしたちは立ち返らなければなりません。これこそ、主イエスの弟子たちが、ペトロが、パウロが、命がけて伝えようとした福音です。自分では、どうすることもできない自分。ただ横たわって立ち上がることも出来ない自分。その自分に、主なる神様は、目を向け、霊を送り、命をもたらしてくださったのです。「十字架の死」は、そのことを弟子たちの、そしてわたしたちの心に、はっきりと刻みつけてくださいます。本当は、自分が、十字架につけられなければならなかったにもかかわらず、その代わりに主イエスが、十字架におかかりくださったのです。そして、わたしたちには、十字架を見上げよ…と、ただ招いてくださるのです。その「死」を十字架の、主イエスの「死」を直視し、自らの「死」の現実を、何もできない自分の現実から目を背けないところから、すべてが始まります。これを「思い起こして」と、勧められています。そこにある価値を忘れて、手放してしまうのではなく、「守り抜き」、かつ「悔い改めよ」、すなわち、主イエスの方に向き直れ、と勧められているのです。「悔い改めよ」という御言葉は、ヨハネの黙示録に、ちょうど12回出てきます。12とはイスラエルの民にとって完全数と呼ばれていて、12回で終わりということではありません。気づかされた時、その時が、悔い改める「時」です。遅い、手遅れということはありません。このことには霊的な目を見開いて、すなわち心の膝をかがめて、主の御前にひれ伏して、主なる神様との霊的な交わりの大切さを心に留め続けるように…そのような勧めがなされています。
「もし、目を覚ましていないなら、わたしは盗人のように行くであろう。わたしがいつあなたのところへ行くか、あなたには決して分からない。」(3節後半)
もし、わたしたちが「死」の現実から目を背け続けるようなことがあれば、主が再びいらっしゃるというその「時」について、時間の感覚を麻痺させてしまったように、無関心になり、ボーっとして、その素晴らしい恵みの時を、自らのこととして受けとめることができなくなりかねないという忠告がここにあります。
- 「勝利を得る者は、このように白い衣
を着せられる。」
「どのように受け、また聞いたか思い起こす」ことを難しいと感じる人がいるかもしれません。また、どのように「悔い改め」たらよいのでしょうか、とあらためて尋ねる人がいることでしょう。その人々のために4~5節は、大切なことを伝えています。それは、「白い衣」です。
本日の旧約聖書箇所、詩編51編9~11節には、次のように記されています。
「9ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください/わたしが清くなるように。わたしを洗ってください/雪よりも白くなるように。10喜び祝う声を聞かせてください/あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。11わたしの罪に御顔を向けず/咎をことごとくぬぐってください。」
これは、ダビデがバト・シェバとの間に過ちを犯したとき、預言者ナタンがダビデのもとを訪れ、その過ちを指摘し、ダビデが深い悔い改めへと導かれたときの詩です(サムエル下12:1~)。「ヒソプの枝」は、イスラエルの民が過越し祭の時、犠牲の小羊の血を鴨居に塗る際に用いられました。
主イエスは、悔い改める者の罪を、ご自身の貴い血潮をもって清めてくださいます。雪よりも白く清めてくださいます。主イエスが着せてくださる「白い衣」は、ご自身の命と引き換えに届けられるものなのです。そのお方が、白い衣を着て、ご一緒に歩いてくださるというのです。そして、「決して命の書から消すことなく」とおっしゃってくださいます。
わたしたちもしばしば判断を誤ります。失敗を犯します。しかし、「白い衣」を着せてくださるお方がいらっしゃいます。わたしたちの功によってではなく、主イエスが代わりに負ってくださる十字架の御業によってもたらされる「白い衣」です。『自分などとても着る資格がない』と尻込みしそうになるかもしれません。しかし、その「白い衣」をまとっている姿そのものが、「悔い改め」の証しになるのです。そして、どのように、どこに立ち返ったらよいかを指し示すものとなるのです。臆することなく、この「白い衣」にあずからせていただきましょう。
受難節(四旬節)第5主日礼拝2023.3.19