2023年1月1日 礼拝説教「神殿でささげられた主イエス」

牧師 田村 博

2023.1.1

降誕節第2主日礼拝(新年礼拝)

説教 「神殿でささげられた主イエス」       

聖書 新約 ルカによる福音書 2:21~40  旧約 サムエル記上1:20~28

 今年(2023年)は、ちょうど1月1日が日曜日でした。この新たな年は、いったいどのような年となるのでしょうか。3年前の2020年1月1日。わたしは、まさか、教会の講壇で「マスク」を着けて説教をすることになるとは想像だにしませんでした。1年前の2022年1月1日。わたしたちは、まさか、ロシアがウクライナ侵攻に踏み切るなどと思ってもみませんでした。また、その年のうちに、共に教会学校の教師をして礼拝をささげていた一人の姉妹が、くも膜下出血で倒れて動けなくなり、入院を余儀なくされ、面会できない状態が続くなどと思ってもみませんでした。わたしたちは、これから起こることを知り尽くすことなどできません。

どうなってしまうのだろうか…と、心配し始めたら、足がすくんで動けなくなってしまうかもれません。

 しかし、一年の初めの日に示された聖書の御言葉は、そのようなわたしたちの心の内側に、一つのあたたかい希望の光を灯してくれます。その御言葉とは、世界で最初のクリスマスにおいてベツレヘムでお生まれになった主イエスの未来が、エルサレムの神殿にいた二人の人物によって予告されるという不思議な出来事です。

 生まれて間もない主イエスは、母マリアに抱かれ、ヨセフに付き添われて、ベツレヘムから8キロほど離れたエルサレムに連れて行かれました。そして、エルサレムの神殿にいた、シメオンとアンナという人物により、主イエスにどんなことが起きようとしているのか、はっきりと証しがなされたのです。生まれたばかりの主イエス、そしてマリア、ヨセフには、西欧の聖画のように後光がさしていて、特別な存在であることを誰もが一目でわかる、ということはなかったに違いありません。もしそうだったら、通りすがりの皆が気づき、見物人のために人垣ができたでしょう。そのようなことはありませんでした。ごく普通の、幼子と両親でした。にもかかわらず、エルサレムの神殿にいた、シメオンとアンナにはわかったのです。そして、主イエスに何が起こるのか、両親に、周囲にいた人々に、はっきりと伝えたのです。

 なぜ、そのようなことが可能だったのでしょうか。

 何が、そのようなことを可能にしたのでしょうか。

 この聖書箇所を通して、シメオンとアンナがなぜ、主イエスをメシアと認識することができたのか、そして、なぜメシアである主イエスの将来に起ころうとしていることを言い当てることができたのか…を、ご一緒に、しっかりと目を向けてみたいと思います。その延長線上には、わたしたち自身に、今、起ころうとしている「何か」への気づきがあり、また、備えへのヒントがあるに違いありません。

  • 律法  

 まず、この箇所を読んで、目にとまる言葉の一つが、「律法」とその具体的行為です。

「八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。」(2:21)

「律法」という言葉そのものはありませんが、「八日」目の「割礼」、それは「律法」で定められ、イスラエルの民が厳格に守っていたものです。

「さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。」(2:22)

「それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。」(2:23)

「また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。」(2:24)

「親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。」(2:39)

 25節以降、しばらくありませんが、39節のまとめのようなひと言の中に、両親の行動の動機は、「律法」にあったことが強調されています。

 続く40節には、「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。」とありますが、主の律法=天地万物を創造された主なる神様がモーセを通してイスラエルの民に与えてくださった「律法」を守り、「律法」によって守られる中で、「たくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれて」成長していったのでした。

 この「律法」について、主イエスはこのようにおっしゃっています(マタイ5:17,18)。

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」

 主イエスは、「律法」を「完成する」ために世に来られました。そして、「律法」を、ご自身の生涯すべてをもって完成されました。また、主イエスは、「律法」すなわち「父(なる神)の掟」について、ヨハネによる福音書15章9節以下において次のように語られました。

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(ヨハネ15:9~12)

 主イエスは、「律法」を「互いに愛し合う」=「愛」をもって完成してくださったのです。

 ヨセフとマリアが「律法」に従ったように、今、わたしたちは、「律法」の完成者である主イエスの「愛」に従いたいと思います。わたしたちに主イエスの「愛」を届けてくれるのは、わたしたちが今手にしている「聖書」です。

 ヨセフとマリアは「律法」に従いました。その時、シメオンとアンナとの出会いが開かれてゆきます。言い換えれば、ヨセフとマリアの「従う」ことなしには、その出会いはなかったのです。同様に、わたしたちが、聖書を開き、御言葉を通して届けられる主イエスの愛に触れ、そして従う時、シメオンとアンナと出会ったような不思議な出会いが開かれてゆくのです。

  • 聖霊

 次に、25節以下のシメオンとアンナとの出会いそのものに目を移してみましょう。

 第1のキーワードは「律法」でしたが、第2のキーワードは、「聖霊」です。

「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。」(2:25)

「そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。」(2:26)

「シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。」(2:27)

 ルカ福音書の著者ルカは、「聖霊」という言葉を繰り返して用いて、強調することを通して、この出会いが、決して「偶然」ではなく、また言うまでもないことですが「悪霊」によるでもなく、まぎれもない「神の霊」の働きによって備えられたのだと伝えているのです。

 25節にはシメオンは、「イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた人」だったと紹介されています。26節に「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」、あるいは29節には「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。」という言葉があります。これらからすると、シメオンは、高齢ゆえ、「死」の足音を身近なものとして感じていたのでしょう。にもかかわらず、聖霊は、シメオンに「信仰」を与え、自分のことにとどまらず、「イスラエルの慰められるのを待ち望み」とあるように、同胞、隣人のために祈り、とりなす者としてくださったのです。「聖霊」は、生死を越えた、まことの喜びをもって、わたしたちを満たすことのおできになるお方です。

 シメオンに続いて登場するアンナの生涯も、決して穏やかなものではありませんでした。

 36、37節には、「非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、84歳になっていた。」とあります。この世的に言うならば、「どうして?」と嘆きたくなるような歩みだったかもしれません。しかし、「聖霊」は、その彼女にも「慰め」を与え、信仰へと導き、神のみ旨を受けとめて人々に語る「預言者」としての使命を与えてくださったのです。旧約聖書には、エリシャという預言者が登場します。彼は預言者としての働きをエリヤから引き継ぐ時、エリヤから「何を願うか」と問われました。エリシャは答えました。「あなたの霊の二つの分をわたしに受け継がせてください。」(列王記下2:9) 女預言者と呼ばれたアンナも、「聖霊」を与えられて「聖霊」によって、使命を与えられたのです。

 「聖霊」を、ヨハネによる福音書では、別の呼び名で紹介していることは、ご存じの通りです。

新共同訳では、「弁護者」と訳されていますが(ヨハネ14:16他)、口語訳や新改訳聖書では「助け主」と訳されています。ギリシャ語で「パラクレートス」という言葉です。その動詞形は「パラカレオー」ですが、「パラ」=「傍らに」と、「カレオー」=「呼ぶ」がくっついてできた言葉です。傍らに招き、励まし、慰めてくださるお方、それが「聖霊」です。今日与えられた聖書箇所25節には、「イスラエルの慰められるのを待ち望み」とありますが、この「慰められる」が、ちょうどこの「パラカレオー」が動詞のかたちで用いられているのです。

 「聖霊」は、シメオンを慰め、アンナを慰めを届けました。肉体的には、年を重ねて弱さをおぼえていたとしても、それを吹き飛ばしてしまうような「慰め」です。それが「聖霊」の働きです。「死」と向かい合っている只中にあっても、決してなくならない「慰め」であり、ここに本当の「喜び」があります。シメオンとアンナも、まさにこの「喜び」によって、神殿の中で、高らかに神様をほめたたえたのです。

  • ささげられた   

律法に従ったヨセフとマリア、

聖霊に導かれたシメオンとアンナ、

この二つの流れの中心にあったものがあります。

それは「ささげる」という一つの行為です。

「さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。」(2:22)

「また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。」(2:24)

 これだけ読むと、主イエスのために「山鳩一つがい…家鳩の雛二羽」が、いけにえとしてささげられたかのように見えます。でもそれは大きな間違いです。律法(レビ記12:6~8)を読むと、「山鳩一つがい…家鳩の雛二羽」は、主イエスのためではなく、マリアのための清めのささげものなのです。つまり、主イエスのために、主イエスの代わりにこれらがささげられたのではありません。

 「ささげもの」とは、「ささげる者」の身代わりにささげられます。

 主イエスについては、身代わりに何かがささげられたのでしょうか。

 確かに、律法(民数記18:15~16)には「人の初子は必ず贖わねばならない。初子は、生後一か月を経た後、銀五シェケルの贖い金を支払う。」とあります。しかし、ここには、主イエスのためにその贖い金がささげられたとは記されていないのです。書き忘れたのではありません。聖書はわたしたちに伝え続けているのです。

何ものも主イエスの身代わりには、ならなかったのだ、と。主イエスご自身の命そのものが、主なる神様に対してささげられたのだ、と。

 本日の旧約聖書において、サムエルがささげられた箇所を読んでいただきましたが、サムエルは、まさにささげられ、つまり、家には戻らず、祭司エリのもとにとどまりました。

 主イエスは、サムエルと異なり、両親と一緒に神殿を後にしました。しかし、シメオンとアンナは、完全に主のものとなられた主イエス、主なる神の御心のみを生きる主イエスを、はっきりと霊的な目によって見た目撃者なのです。それゆえ、シメオンとアンナにとって、目の前に進み出たヨセフとマリアそして主イエスは、特別な存在としてその目に映り、シメオンとアンナの心は深い喜びに満たされたのです。

 主イエスがご自身の命をおささげするということの本当の意味が、シメオンの言葉の中に、はっきりと示されています。十字架におかかりになり、母マリアは、我が子の死を目の当たりにしなければならない、という大きな痛みの予告です。しかし、主イエスが、ご自身をおささげくださったゆえに、一本の道が開かれるのです。

35節をご覧ください。「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」という言葉に続いてこう記されています。

「多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」

 主イエスが、ご自身をおささげくださったゆえに開かれる、一本の道とは、「本音で生きられる道」です。「心にある思いがあらわになる」とき、そこには自分の間違えも、自分の弱さも含まれます。あらわにされず、隠し続けていると、いつまでたっても心の奥に潜み続けていることでしょう。そこには成長はありません。

 主は何が正しいことか、何が間違っていることかを示してくださいます。ご自身の光の中で、はっきりと示してくださいます。それを自らの意思で選び、そして従ってゆく生き方こそ、主エスが、ご自身をささげて開いてくださった道を歩む道です。

 「律法」すなわち「御言葉」を通して、主の愛をますます深く知る一年でありたいと思います。

 「聖霊」の働きの中に、自らを見い出す一年とさせていただきましょう。

 そのすべての中心に、ご自身をささげてくださった主イエスがいてくださいます。その道を大胆に、力強く歩む一年とさせていただきましょう。

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