牧師 田村 博
2021.8.8
「世を救うために来た」 申命記18:15~22 ヨハネによる福音書12:44~50
本日の聖書箇所は、ヨハネによる福音書の前半部分の総まとめのような箇所です。このあと13章に入るとすぐ、主イエスが弟子たちの足を洗われた出来事へと場面は移ってゆきます。その出来事を皮切りに、十字架を前にして、主イエスが弟子たちに対して親しく語りかけれたお話しが続いています。
本日の箇所は、その前の、それまでの出来事の総括のようなところなのです。非常に重要な箇所です。それゆえ主イエスは、44節にあるように、主イエスは、「叫んで」言われたのです。43節以前とのつながりから推測すると、主イエスと弟子たちの周りには、大勢の群衆がいたわけではありませんでした。人が多くてざわざわしていて離れたところでは聞こえないから、主イエスが「叫んで」言われたのではないのです。近くにいた、弟子たちを中心とした小さな群れに対して、どうしても聞き逃してはならない、という思いを込めて語られたのでした。わたしたちも、ぼんやりと、眠気眼(ねむけまなこ)でこの箇所に向かい合ってはなりません。心して御言葉を受けとめたいと思います。
主イエスは叫んでおっしゃいました。44節。
「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。」
さらに45節。
「わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。」
繰り返されている「わたしを遣わされた方」とは、天地万物の創造主であり、今、保っていてくださっている神様ご自身です。主イエスは、「わたし」すなわちご自身と、「遣わされた方」すなわち神様ご自身を、まったく同じであるとはっきりとおっしゃいました。そのことはとても大切なことですが、それだけではありません。わたしたちの思考や、理解をはるかに超えた、決してわたしたちの言葉の中に収めることのできない「神様」とお呼びしているお方を、畏れ多くも「見る」ことができると、はっきりと断言されているのです。
主イエスは、おっしゃいました。
「わたしを見る者は、わたしを遣わされた方(=神様)を見るのである。」
この「見る」を永井訳(『新契約聖書』)という聖書では、「看護師」の「看」という漢字を用いて「看る」と訳しています。通りかかってチラッと視界に入るというような「見る」とは違うということを伝えようとしているのでしょう。主イエスの御前で立ち止まり、正面から向かい合ってしっかりと見る者は、神ご自身をしっかりと見ているのだというのです。
主イエスの周囲にいた人々が主イエスを見ることは可能だったと、わたしたちは思います。しかし、わたしたちは、2000年近くの時を経て、主イエスを見ることはできないと誰もが思うのではないでしょうか。それでは、この主イエスの御言葉は、主イエスの周囲にいた人々だけに適用される言葉として語られたのでしょうか。ほんの一握りの人々にしか適用されないことを、主イエスは「叫ばれて」、最も大切なことだと示されたのでしょうか。決してそうではないと思います。聖書の御言葉がわたしたちの心の中に入り、蓄えられてゆくとき、その御言葉は、何をわたしたちの内に起こすのでしょうか。主イエスの言葉は、わたしたちの内に活字のようなかたちで蓄えられるのではなく、主イエスのまなざし、息づかい、温かさとなってわたしたちの魂に語りかけてきます。そして、その結果何が起こるのかというと、主イエスがご覧になっているように、わたしたちも見ることができるように、わたしたちが気づかないうちに、わたしたちは変えられるということが起こるのです。まことに不思議なことです。
確かに、視覚的に、物理的に、主イエスを認識することとは異なるかもしれません。しかし、主イエスがご覧になっているのとまったく同じように見ることができるという事実を通して、主イエスを見ることができるのです。
<以下、説教中の例話の分かりにくい部分を一部書換えました>
例えば、飛行機に搭乗している自分の姿を考えてみてください。その飛行機の操縦席にいるパイロットと同じ景色を、わたしたちは窓から見ることができます。わたしたちが自分の足で移動したわけではないにもかかわらず、時に感動的な景色を見ることができます。主イエスの御言葉を内にいただく一人ひとりは、「イエス・キリスト」号という飛行機に搭乗しているようなものです。そして、パイロットである主イエスと同じ景色を見ることができるのです。そして、目的地に到着して飛行機から降りたとき、自分の目で飛行機そのものをみることができます。わたしたちもそれまでは主イエスご自身を(「イエス・キリスト」号の機体を)見ることはできませんが、その代わりに、主イエスの見られるように、物事を見ることができるのです。
主イエスは、今、ご自身を見えるかたちでわたしたちにあらわしてくださることも、もちろん可能です。しかし、そうではなく、聖書の御言葉をわたしたち一人ひとりの内に蓄えるということを通して、主イエスご自身が見られるようにわたしたちも物事を見るようにしてくださり、そのことによって、主イエスが十字架にかかられたけれども復活されて今も確かに生きておられるのだと体験できるようにしてくださるのです。
わたしたちは、一人残らず、「主イエスを見る者」となることができます。そのために聖書の御言葉が届けられているのです。「本年度の聖句」が、毎週の週報に掲載され続けて8か月目になりました。1年の3分の2が過ぎようとしています。コロサイの信徒への手紙3章16節「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。」という御言葉と、わたしたちは真剣に向かい合っているでしょうか。先日、一人の姉妹とお話ししていたとき、その姉妹が、わたしが礼拝説教の中でお話しした「朝の15分があたなを変える」というひと言を心にとどめ、毎朝祈る時を持つことを始めたとお話ししてくださいました。そして、決して誇ることなく、すばらしい恵みの中に導かれていることをお話しくださいました。困難な中にあっても決してて神様の愛からブレることない姉妹のその姿勢から、神様がその姉妹の内にあって御業を始めてくださっているという確信が伝わってきました。「朝の15分があたなを変える」という言葉は、わたしの言葉ではなく、かつて霊的な多くの影響をもたらした宣教師・スタンレー・ジョーンズの言葉です。
先日、妹とすこし長く電話で話す機会がありました。話しがすでに召された父のことになり、父は昔から文句の多い人だった、食事の時に「どこどこのだれだれは××だ。どこどこの政治家が…。職場の同僚が…。」と始まると嫌で食事をやめて部屋に行ってしまいたいような気持ちになった、といった話しになりました。自分たちが小学生、中学生の時のことでした。しかし、その父が50歳を過ぎた頃、福音と出会い、救われました。妹もわたしもそれぞれ結婚して父と同居していなかったので、その後の父の記憶は、文句ばっかり言っていた父とまったく違う姿でした。晩年アルツハイマー型認知症ゆえに自分の感情がコントロールできなくなっても文句ひとつ言わない、かえって「ありがとう」ばかり言っている姿が記憶に残っています。父は、教会に行き始めて少しずつ変えられていったのです。父が召された後、妹がその部屋を整理していて、分厚い紙の束の山を見つけました。それは、父が礼拝に出席するたびに残していったメモ用紙でした。そのメモ用紙は廃棄されましたが、父の心の内に蓄えられた御言葉は、父を見事に、まったく変えてしまったのです。妹とそのようなことを話したあと、主イエスと出会う前の“自分”のことが心に浮かんできました。それはそれは、とんでもない“自分”でした。他人を傷つけ、傷つけたにもかかわらず何とも思わないような“自分”でした。妹は一番身近にいてすべてを見ていた一人ですので、何一つ隠し立てできません。もし自分が、主イエスと出会うことなかったらなら…、御言葉と出会うことなかったならば…、自分がどのような人間になっていたか、少し考えただけで、ゾッとしました。しかし、聖書の御言葉は、わたしたちを変えることができるのです。
少し前の「牧師室の窓から」に「御言葉日めくりカレンダー」のことを紹介させていただきましたが、先日、岡山の制作会社から、2022年の注文票が届きました(チラシが受付横の掲示板に貼ってありますので、申し込まれる方はどうぞ牧師までお申しつけください)。あっという間に1年が終わり、新しい年がきます。この「御言葉日めくりカレンダー」に何度もはっとさせられたことでしょう。自分が陥ろうとしている失敗、自分が陥ろうとしている罪に気づかせてくれて「あなたが行くべき方向はそちらではない」と教えられました。
御言葉を通して、主イエスが弟子たちを愛されたように、いかにわたしたち一人ひとりを愛して、大切に思っていてくださっているかを体験することができるのです。打ちひしがれそうになっているときに手をとり、立ち上がらせてくださるのは、主イエスご自身です。御言葉を通して、そのように御業をなし続けてくださっているからです。その主イエスを身近に認識するとき、「主イエスを見る者」へと変えられ、整えられるのです。それは、すべてを創造された神様ご自身を見るという、想像もできないような広がりとつながり、ピッタリと一つだというのです。このすばらしい世界を、わたしたちは見て見ぬふりをしてよいはずがありません。
46節をご覧ください。
「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。」
わたしたちは「暗闇」の中で、物を認識することはできません。主イエスは、わたしたちが「暗闇の中にとどまること」を願っておられません。それゆえ、「光として世に来た」のです。
さらに47節へと続きます。
「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。」
主イエスは、「世を救うために来た」のです。そして、「世」のところに、わたしたち一人ひとりの名前を入れて受けとめるようにと、今、迫っておられるのです。
「守らない」というところに使われている「守る」という言葉は、辞書を引くと、第一は「(羊の)番をする」という意味なのです。主イエスのそばにいた弟子たちも、主イエスの御言葉を聞いて、それをもって人々を羊飼いのように面倒をみて、養っていこうと使命を感じていたはずです。しかし、十字架を前に、羊の番をするのではなく、散り散りに逃げ去ってしまいました。主イエスは、そのような失敗をする弟子たちを「裁かない」というのです。「わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。」とおっしゃっているのです。その逃げ去るような弱さを、主イエスは代わりに負って十字架におかかりになりました。「裁き」をご自身の十字架で、すべて受けとめられたのです。だから「わたしは、世を裁くためではなく、救うために来た」なのです。ご自身がなさろうとしていたことゆえにはっきりと語ることができたのです。
48節にはこう続いています。
「わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。」
この箇所を元訳聖書(明治訳)では、「我を棄てわが言を納ざる者」と訳しています。「拒む」と訳されている言葉は、「除く」「廃棄する」という意味です。 わたしたちにどうしても必要な「救い」をもたらしてくださる主イエスを、自分にとっていらないものであるかのように、ゴミ箱に投げ入れてしまうものは、終わりの日に裁かれるというのです。ここで、「裁く」のが「わたし(主イエス)の語った言葉」であると言われていることは大切なことです。聖書の御言葉は、本人が価値を見い出そうとせず、忘却の彼方に追いやったとしても、その人の内に残ります。この地上の命が終わったとしても、神は人の存在そのものを決して「ジ・エンド」にはなさりません。神と人との関係は続きます。そして、その関係の中に、わたしたちが忘却の彼方に追いやったつもりでいる「御言葉」も残るのです。そして、その言葉が、終わりの日に、すべての事実を一人ひとりに明らかにするのです。
ここに「永遠の命」があります。主なる神様との交わりの継続です。
わたしたちの意識、関心は、限られた「時」の連続と言ってよいでしょう。
今、オリンピックをしていますが、昨日、本日と、マラソン競技が行なわれました。東京は暑いということで会場が札幌に変更されたのですが、いざふたを開けてみると、昨日、札幌は東京より暑いという結果でした。それみたことか、とSNSで皮肉る投稿が相次ぎました。しかし、今日、東京はこの台風です。もし東京でおこなっていたらもっと厳しいことになっていたことでしょう。一喜一憂しているわたしたちですが、もしかしたら中止になったほうがよかった、あの時に応援に行ったばかりに沿道でコロナ感染してしまったと悔やむ人々が続出するかもしれません。わたしたちは「長い時」を見わたすことについて限界を持っています。しかし、主なる神は、わたしたちに「永遠」という時を示してくださるのです。この「永遠の命」がどんなにすばらしいものかを教えておられるのです。
本日の「日めくりカレンダー」の聖句は、列王記上19:7でした。
「主の御使いはもう一度戻って来てエリヤに触れ、『起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ』と言った。」
旅を続けるエリヤに対して、主なる神が語りかけた御言葉です。
主なる神様は「永遠」という時を支配しておられ、「永遠の命」がわたしたち一人ひとりにとって本当に必要なのだということを、霊の糧である御言葉をお届けくださることを通して教えておられるのです。「わたし(=主イエス)は、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。」 わたしたち一人ひとりを救い、永遠の命にあずからせるために!
ヨハネによる福音書6章38~40節には次のような御言葉があります。本日の箇所とつながっている御言葉です。
「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。 わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」
わたしたちは、主イエスの御言葉を受けとることをスキップして、この永遠の命にあずかることはできません。今日の聖書箇所は、そのことをはっきりと示してくださっています。わたしたちがすべきことがあります。そして、わたしたちにできることがあります。