2021.6.6
「ラザロ、出て来なさい」 エレミヤ書10:10~16 ヨハネによる福音書11:38~44
ヨハネによる福音書の11章の出来事を4回に分けて見てまいりましたが、その最後の主の日となりました。「ラザロ、出て来なさい」と、主イエスは大声で叫ばれました。周りにいた人々は、何が起こるのかまったくわからないという状況の中で、主イエスが祈りをささげられ、そして神様の栄光があらわされるということが実際にどのようにして起こるのか、そこにいた人々がまったく分からない状況の中で、「ラザロ、出て来なさい」という力強い大声が、墓の前で響き渡ったのです。
44節をご覧いください。
「すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、『ほどいてやって、行かせなさい』と言われた。」
とあります。
現在、日常生活を営むわたしたちにとって、「はいそうですか」と簡単に受け入れることのできないことが、この聖書の箇所には、堂々と記されています。神秘の覆いをかけて、特別に悟りを開いた人だけが聞くことのできる特別な言葉としてあるのではありません。主イエスのその時代に実際にあった出来事として、記されていることは、とても大きな意味をもっています。この出来事の前に立つ、わたしたち一人ひとりが、神様の恵みに対してどのように心を開くのか? と、問いかけられているのです。
この事実をわたしたちが受け入れることができるか否かというところから検討するのではなく、主イエスが「大声で叫ばれた」、すなわちすべての人に聞こえるように、はっきりと語られたという事実を、わたしたちがどのように受けとめるかというところから考えてみたいと思います。
38節をご覧ください。
「イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。」
それに先立って、主イエスが心に憤りを覚えられたのは33節です。
「イエスは、彼女(マリア)が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、」
人々が泣いている様を見て、主イエスは「心に憤りを覚え」られたのですが、泣いてしまっている人々の不信仰に憤られたのではなく、人々をこのような悲しみに閉じ込めている、泣かざるを得ない状況に留めている「力」に対する憤りでありましょう。フランシスコ会訳聖書では、「心に憤りを覚え」を「きっとなり」と訳しています。主イエスは、そのような思いをもって墓に向かって歩んで行かれました。
墓に向かわれる主イエスを導いたのがマルタとマリアでした。彼女たちは、「どこに葬ったのか」(34節)という主イエスの言葉に「主よ、来てご覧ください」と応答しました。涙の中にあっても、そこにとどまるのではなく、もうどうしようもないのですとあきらめるのでもなく、主イエスを案内したのです。35節に「イエスは涙を流された」とありますが、それは人々が泣いているからもらい泣きしてというのではありません。悲しみの中にあってもそこに座り、とどまり続けるのではない、そこから立ち上がって「どうぞ、来てください」と、主イエスを案内したマリアの心をご覧になったからです。神様の御業があらわされようとしている、神様の栄光があらわされようとしている、そのことに対する「涙」だったのです。しかし、それを取り巻くユダヤ人たちは、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」(37節)と言いました。
「死」というものは、一度人間に訪れたならばどうしようもないものなのだ、その前に主イエスが到着し、手を置いて癒してくださったのならばよかったのに、というところにとどまっている人々の姿がここに記されています。そこで主イエスは、「再び心に憤りを覚え」たのでした。つまり、「常識」「当たり前のように思えるところ」に、人々の心を留めようとする「誘い」がここにあります。そしてその「誘い」に揺り動かされてしまう人々がここにいるのです。主イエスは、それに対して「再び心に憤りを覚え」たのです。聖書は、そのような人々の心の動きを正直に記し、伝えます。このような人々の心の動きの真ん中で、マルタは、マリアは歩みを止めなかったのです。
「墓は洞穴で、石でふさがれていた。」(38節)とあります。
墓が「石でふさがれていた」という事実に心を留めたいと思います。
墓の入口の「石」は、「生」の世界と「死」の世界を分けるものです。容易にそこを越えることはできないと、「石」は無言の圧力をもって人々に伝え続けます。
しかし、主イエスは、「その石を取りのけなさい」(39節)とおっしゃいました。そこでラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言いました。賢明な判断、常識的な、冷静な言葉です。「石」を取り除くことが、周囲にいる人々、主イエスに対して迷惑を及ぼすに違いないという思いを、そのままマルタは口にしたのです。しかし、主イエスはそこでおっしゃいました。
「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」(40節)
「神の栄光」がどのように見られるのかを、主イエスは、ここでつぶさに説明されたのではありません。マルタにしてみれば、常識的に考えて、「いかにイエスさまのお言葉でもそれはちょっと…」と繰り返すこともできました。しかし、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」という主イエスの言葉は、マルタに、少し前に主イエスがお語りになった一つの言葉を思い起こさせたのでしょう。それは11章23節以下に主イエスとの対話の中にある言葉です。
「イエスが、『あなたの兄弟は復活する』と言われると、マルタは、『終わりの日の復活の時に復活することは存じております』と言った。イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』」(23~26節)
マルタは精一杯の思いをもって答えました(27節)。
「マルタは言った。『はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。』」
弟ラザロが「復活する」となどとは思っていなかったマルタでしたが、主イエスは、ご自身こそ「復活であり、命である」とはっきりとおっしゃいました。その主イエスの栄光があらわされようとしていることを心の深いところで、よくわからないながらも感じたに違いありません。
家族であるマルタが決断することなくして、周囲の人々の判断で墓の石を取り除くことはできませんでした。マルタが人々にお願いしたのでしょう。
この「石を取りのける」という言葉を、しっかりと心に留めたいと思います。
わたしたちは、日常生活の中で、さまざまな「石」を持っています。「石」をもって蓋をして、区別して、そこから先は接したくない、考えたくないと思っているようなことがあるかもしれません。いろいろな「石」を物事の間に置いて、時には自分と相手の間に置いて、その「石」ゆえに自分が安心して生きられると、考えるようなことがあるかもしれません。しかし主イエスは、その「石」を取りのけなさい、とわたしたちに語りかけてくださるのです。
主イエスは語られます。
「常識的な思いの中で、それが必要だと思うのはわかっている。しかし、信じるなら神の栄光が見られる」
このような新しい世界が広がってゆくために、わたしたちがまず、妨げとなっている「石」を取りのけるという作業が必要なのだと、時に神様は、わたしたちに迫られるのです。
人々が石を取りのけると、主イエスは「天を仰いで言われた」とあります。地上でなすべきこと(石を取りのけること)は、すべてなされたゆえ、あとは主イエスと天の父なる神様との間でなすべきとがなされるというのです。
主イエスはおっしゃいました。
「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」(41~42節)
主イエスの「願い」とは、何だったのでしょうか。
人々が「石を取りのけなさい」という主イエスの言葉に従ってくれることも、主イエスの「願い」だったでしょうけれど、ここで主イエスが行なおうとしていた第一の「願い」とは、ラザロが復活して墓から出てくることでした。しかし、その出来事が起こる前に、主イエスは、「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。」とおっしゃっているのです。出来事に先んじて、感謝の祈りをささげていることがわかります。そして、42節「わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。」のひと言は、主イエスの「願い」がいつも神様の「願い」と一つであることをあらわしています。さらに主イエスは続けています。
「しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」
確かにラザロが墓から出てきたことは大きな、大きな出来事です。主イエスの「願い」そのものでありましょう。しかし、ここにある言葉をよくよく読んでみると、ラザロのところに主イエスが行って、こっそりと御業を行うこともできたのですが、はっきりと大声でおっしゃって、人々の前で行なうのには理由があるのだというのです。それは「彼らに信じさせるためです。」
主イエスの「願い」(=ラザロを復活させること)は、神様の御心とぴったり一致することではありますが、それより大切なこととして、「あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせる」ことがあるのだというのです。神様が主イエスを遣わしてくださったのだということ、そのことを人々が「信じる」ということこそ、実は、ラザロが復活したことを通して人々がしっかりと受けとめるべきことなのだというのです。
復活したラザロは、主イエスと共に永遠に生きたとは聖書に記されていません。このラザロは、地上での生涯を終えて召されるときを迎えたでありましょう。しかし、たとえ地上での生涯を終えたとしても、それ以上に大切なことがあるのです。主イエスが神様によって遣わされたのだと信じることです。そのことがあるならば、ラザロが地上での生涯を終えたとしても、もう一度主イエスに来て生き返らせてもらおうではなく、それ以上の希望をしっかりと心に持ち続けることができるのです。その鍵がここにあります。
「あなた(神様)がわたし(主イエス)をお遣わしになったことを、彼らに信じさせる」
一人ひとりのために、神様が主イエスを遣わしてくださって、わたしたち一人ひとりに、神様がどのようなお方であるかを信じることができるようにしてくださったのです。
目の前に広がる絶望としか思えない状況も、希望に変えることのおできになるお方、主イエス! この主イエスが一人ひとりに語りかけてくださるのです。その語りかけを聞いた一人ひとりが、「あなた(神様)がわたし(主イエス)を(自分に)お遣わし」くださったから、今、わたしは生きているのだと、今、祈ることができるのだと信じることができるのです。ここにこそ最大の恵みがあります。
44節を見ると、「ほどいてやって、行かせなさい」という言葉でこの出来事は終わっています。想像してみれば、このあとどのようなことが起きたことが考えられるでしょう。帰宅したラザロを囲んで人々は感謝しあったことでしょう。しかし、聖書はそのことを一切伝えていないのです。ひと言も触れていないのです。逆に12章9節には、ラザロも亡き者にしてしまおう(殺してしまおう)いう人々がいたことだけが記されています。これは、ヨハネによる福音書を記したヨハネが書き忘れたのではありません。
ラザロの復活を通して、目の前に起きた出来事のどこに目を留め続けるべきでしょうか。
ラザロの肉体的な復活ということだけにとらわれて、あったのか、なかったのか、このことは自分にとって邪魔になるのかならないのか、そんなところにとどまるのではなくて、ラザロの復活の出来事が指し示している「しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」の御言葉をしっかりと心にとどめたいと思います。
主イエスが、神様によって遣わされて、自分の生涯の中に「御言葉」として入ってくださり、わたしたちに語りかけてくださり、到底自分では「わきに取りのけることができない」と思っていたような「石」をも取りのけさせてくださるのです。妨げの原因をしっかりと教えてくださるお方として、わたしたちに語りかけてくださって、わたしたちに信じさせてくださるのです。
今、勇気をもって、妨げとなっている「石」を取りのけなさいと言われたならば、従ってその「石」を取りのけようではありませんか。わたしたちも「どこに葬られたのか」と主イエスがおっしゃるならば、「もう行っても無駄なのに」と思ったとしても、主イエスをそこに案内して一緒に歩みを進めようではありませんか。主イエスの言葉が、わたしたち一人ひとりを信じさせるところへとつながっていることを感謝したいと思います。