牧師 田村 博
イザヤ書40:9~11 ヨハネによる福音書10:11~21
本日の聖書箇所は、ヨハネによる福音書10章11節以下の、主イエスが「わたしは良い羊飼いである」とおっしゃった有名な御言葉を含むところです。
先週、この10章は直前の9章と深く結びついていることをお伝えしました。
9章は、生まれつき目の見えなかった男が主イエスと出会い、癒されるというお話でした。しかし、その男が、当時の宗教的指導者たちからコミュニティの外に追い出されてしまいました。主イエスは、その男を決してそのままにはしておかれませんでした。たとえ、理不尽な扱いのもとに心に痛みを負うようなことがあったとしても、それを補って余りある、すばらしい交わりがあります。主イエスは、その交わりを羊と羊飼いのたとえをもって、わかりやすくお話されたのです。
わたしたちが生きているこの現実の中にも、理不尽な出来事は数えきれないほどあります。
それゆえ、この「わたしは良い羊飼いである」という御言葉は、わたしたち誰もの心にも、深く響いてくるのです。
この御言葉の前に、主イエスは、「わたしは羊の門である」と語られました。表現は似ていますが、明らかに違います。この「わたしは羊の門である」があって、「わたしは良い羊飼いである」があることには、とても大きな意味があります。そのことを10章の1節から10節は伝えています。
10章1節にある「羊の囲い」とは、野原や荒れ野で、人の背丈ほどの石を積んで作られた囲いのことです。野原や荒れ野に何か所か「羊の囲い」がありました。夕方になってその場で夜を過ごさなければならなくなった羊飼いと羊たちにとって、とても大切な「囲い」でした。一箇所、石が積んでいない「入口」がありました。それが「門」です。その門を通って、羊たちは、羊飼いに連れられて出入りし、水を飲んだり、草を食べたりしました。その門のところには、夜中、羊飼いがいました。そして、侵入しようとする獣や、泥棒に目を光らせていたのです。
主イエスは、おっしゃいました。
「わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。」
主イエスがいらっしゃっる前と後では、根本的にまったく違うということをはっきりと宣言されたのです。その違いの鍵となるのが「声」でした。
3節「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。」
4節「自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。」
主イエスの「声」は、一度羊たちの耳に達すると、決して忘れることのできない、唯一無二の「声」としてとどまります。「声」を知り、その「声」に従って「門」を通り、命の糧に与かるのです。
9節にはこうありました。
「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」
10節後半にはこうありました。
「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」
羊にとって「門」を通ることは、命に直結することでした。それゆえ、主イエスはおっしゃったのです。
「わたしは羊の門である」
わたしたちに対しても主イエスは、語られます。
「わたしは羊の門である」
門である主イエスを通り、救いにあずかり、命にあずかることは、わたしたち一人ひとりにとって、わたしたちの霊的な命にとって、どうしても必要なことなのです。そして、それは肉的な命とも切り離すことのできない大切なことです。
本日の聖書箇所である11節以下には、そのように「声」をかけてくださる主イエスがどのようなお方であるか、羊と羊飼いというたとえを用いてわかりやすく、ズバリと語られています。
「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」
どうして、主イエスは、命を捨てるほどに、羊のことを思うことのできる羊飼いなのでしょうか。
それは、一匹一匹の羊が、他のもので替えることのできない存在だということを知っているお方だからです。
もし、いなくなってもまた補給すればいいや、と考えているならが、命を捨てる必要などまったくないでしょう。(東京オリンピックのボランティアの辞退が問題になったとき、それならまた補充したらいいと発言し、問題になったという出来事がありました。)
「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」
主イエスは、ご自身の羊を、他の羊で置き換えることのできない、大切な存在だ、そうおっしゃっているのです。
その根拠は、14節に記されています。
「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」
「知っている」という言葉は、単に「ああ、知っているよ」という言葉ではなく、「深い信頼と愛の関係、心の交流をあらわす」言葉として、ここで用いられています。
その深さがどれほどであるかを示すために15節があります。
「それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。」
父なる神様と主イエスは、決して切り離すことのできない、一つである関係です。この後の部分にそのことは出てきますが、来週は、棕梠の主日であり、イースター、イースター後と3回の主日にかけてルカによる福音書を与えられておりますので、その後にご一緒に礼拝で受けとめてみたいと思います。
とにかく、父なる神様と主イエスの関係と等しいような深い関係が、主イエスとその民の間にあるのだ、というのです。それゆえに15節の後半にあるように「わたしは羊のために命を捨てる。」とおっしゃるのです。かけがえのない関係であり、他のもので置き換えることのできない、代用できない関係がここにあります。
その深い関係の存在を誰もが容易に気づくことができるのだと、主イエスはおっしゃっています。12節、13節をご覧ください。
「羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。―― 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。」
普段は、その深い関係の存在は明らかになっていません。しかし、「狼が来る」という危機的な出来事が生じた際に、明らかになるというのです。「雇い人」とは、羊との深い真の関係をもっていない存在です。羊を置き去りにして逃げて、その場をやり過ごすことができると考える存在です。また別の羊をまかされて養えばいいやと考えるのです。しかし、主イエスは違うのだというのです。
「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」
主イエスとわたしたちとの関係は、そのような関係だと、主イエスはおっしゃっています。14節にあるように「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」という双方向の関係なのです。もちろんわたしたちが神様を完全に知ることはできません。神様がわたしたちのすべてをご存知であるというレベルとは比べものにはなりません。しかし、わたしたちには主イエスを知る恵みが与えられているのです。
ところで、そのようなすばらしいお方との関係に、自分が生かされているのだということに気づくとき、人間が陥ってしまう一つの危険を、主イエスはご存知でした。それゆえ、続けて16節に大切なことを語られています。
「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」
主イエスとのすばらしい関係は、「わたしたち」で終わりではありません。
その先に「ほかの羊」がいるのです。
主イエスとの関係のすばらしさを経験したわたしたちは、「ほかの羊」が来ると、そのすばらしい関係が壊されてしまうのではないか、薄まってしまうのではないか、と無意識のうちに考えてしまう存在なのです。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』という作品は、そんなわたしたちの人間性をテーマにしているといえましょう。
しかし、わたしたちが独占しようとして心を悩ませるようなところで終わらないのです。
17節、18節をご覧ください。
「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。」
「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」
「再び受ける」これは「復活」です。
「捨てる」これは「十字架」です。
「十字架と復活」…それは、主イエスがやむをえず追い込まれた結果ではありません。はっきりとした目的のなかで成就しました。
「それゆえ、父はわたしを愛してくださる。」「これは、わたしが父から受けた掟である。」とはっきりと語られている通り、「十字架と復活」は、神様の愛の究極的なかたちなのです。神様の愛には枯渇はありません。無限です。この「十字架と復活」ゆえに、「ほかの羊」の存在によって壊されたり薄まったりすることはないのです。
19節以下には、この主イエスの言葉を聞いていた人々の心の中に生じた混乱のことが記されています。主イエスは神に遣わされた存在なのだろうか、信じて従ってよいのだろうかという思いと、いや信じるべきではない、悪霊の働きだと誘う思いがぶつかり合うのです。わたしたちもこの混乱と無関係ではありません。
主イエスが、「ほかの羊」を導こうとされているということに気づくという場面を、わたしたちも至るところで経験します。そこで、わたしたちは、「自分だけ」の主イエスであって欲しいという感情を抱いている自分に気づくかもしれません。その瞬間、主イエスは語りかけてくださるのです。
「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」
その独占しようとする、自分勝手なあなたの思い、そのために「命を捨てる」のだよ。
「命」は捨てられたら、二度と戻らないものです。しかし、主イエスは「再び受ける」ことのできる唯一のお方です。そのお方が、「あなたのために」と語りかけてくださるのです。
「わたしは良い羊飼いである」
主イエスを信じて従ってまいりましょう。