2025年9月28日 礼拝説教「主があなたにしてくださったこと」

牧師 田村 博

主があなたにしてくださったこと

旧約 イザヤ書 6512  約 マルコによる福音書5120 

                          田 村  博

 前週にはマルコによる福音書4章35節以下の出来事を通して、大勢の群衆に囲まれて「種」に関わるたとえ話を語られた主イエスが、その日の夕方になって何をなさったかについて御言葉に聴いてまいりました。主イエスは、群衆との距離を保つために「舟」の上から語っていました。その主イエスが、弟子たちに対して、群衆を後に残したままにして「向こう岸に渡ろう」(4:35)とおっしゃいました。主イエスを乗せた舟は、「向こう岸」に向けて出発しました。しかし、「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。」(4:37)とあるように、天候が急変します。ガリラヤ湖では、その地理的条件ゆえに突風が生じることは珍しいことではありませんでした。36節には、「ほかの舟も一緒であった。」とありますが、おそらく危険を察知して岸辺に引き返したのでしょう。しかし、主イエスの口からは「危険だから引き返そう」という言葉は発せられませんでした。それどころか主イエスは眠っておられたのです。その主イエスが、「黙れ。静まれ」と言われるとその通りになり、舟は進むことができるようになりました。そして到着したのが、異邦人の多く住む「ゲラサ人の地方」(5:1)でした。

 岸辺で主イエスと弟子たちを出迎えたのは、噂を伝え聞いて集まった歓迎の熱気であふれる群衆ではなく、一人の「汚れた霊に取りつかれた人」(5:2)でした。この人について、聖書は次のように紹介しています。

「この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。」(5:3~5)

 「墓場」は、本来人が住む場所ではありません。その場所を住まいとするということは、人々とつながりが断絶していることを意味しています。「鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった」とは、常軌を逸した彼の行動が制御不可能であったことを説明しています。あまりにも強烈な印象ゆえに、「ゲラサ人の地方」とは、人影もまばらな荒れ果てた土地をイメージしても致し方ないかもしれません。また、ヘブル語で「ゲラサ人」のことを「ゲーラーシッイーム」といいますが、「追い出す、投げ出す」という意味の動詞「ガーラシュ」がその語源と考えて、「ゲラサ人」のことを「追い出された人々」と重ねて解釈する説もあります。そうなると、ますます人の住まない荒涼とした大地…を連想してしまいます。しかし、実際は、そうではありません。「ゲラサ人の地方」は、当時、デカポリスと呼ばれる地域を構成する都市の一つでした。「デカ」は「10」、「ポリス」は「都市」を意味しています。時代によって入れ替わりがあるのですが、主イエスの時代には、「ダマスコ、フィラデルフィア、ラファナ、スキトポリス、ガダラ、ヒッポス、ディオン、ペラ、ゲラサ、カナタ」の10都市から構成されていました。ローマの軍人であり政治家であったポンペイウスによってその都市連合の基礎が築かれ、貨幣の鋳造権などを含む自治権を与えられていたそうです。つまり、経済的にはかなり繁栄している、生活水準の高いコミュニティが営まれていたのです。ちなみに、マタイによる福音書では、「ゲラサ」ではなく、「ガダラ」となっていますが(マタイ8:28)、両方とも上記のデカポリスのリストに含まれています。

 経済的な繁栄がもたらされるところには、どの時代でもどこでも「格差」が生じるものです。その「格差」は、やがて人と人とのつながりを断絶し、制御不可能な課題が積み上がってゆくことへとつながってゆきます。

 現代社会もまさにそのような課題が膨れ上がってきているといってもいいでしょう。ヨーロッパ各地でも移民・難民問題は手のつけられないようなレベルへと向かいつつあります。

 しかし、その「格差」が生み出す絶望に近い状況を打開する一本の「道」が、ここにあります。

 「イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ。『いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。』イエスが、『汚れた霊、この人から出て行け』と言われたからである。」(5:6~8)

 主イエスは、課題の本質にズバリと切り込みます。「霊的な課題」に、その混乱の根源があることを、主イエスは正確に察知されました。「汚れた霊」が心を蝕み、その支配を拡大してゆくところにこそ問題があるのです。本来は「神の聖なる霊」をお迎えし、その「神の聖なる霊」がもたらす聖なる交わりによって心を満たされて歩むところにこそ、私たちがこの地上で生活し、私たちが生きることの意味があるのです。にもかかわらず、その霊的な大切な事実に無関心になってしまうとき、「汚れた霊」は喜んで支配領域を拡大してゆくのです。

 主イエスは、はっきりと宣言されます。「汚れた霊、この人から出て行け」と。その主イエスの御言葉に対して、いかなる悪の力も太刀打ちできません。主イエスは、「名は何というのか」と言われました。それは主イエスご自身が知りたかったからではなく、弟子たちが、そして私たちが、「汚れた霊」の行動の本質に気づくことができるように、いつの間にか妥協して受け入れてしまうことを避けさせるために言われたのです。「レギオン」とは、「当時のローマの軍隊組織で5000人から6000人の単位」でした。大きな集団であれば、人を支配し、社会を支配し、国を支配することができるに違いないという、私たちが陥りやすいレトリックがそこにあります。さらに「汚れた霊」は、「自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。」(5:10)とあります。「汚れた霊」は、彼が支配していた「人」から追い出されたとしても、その地方には、いくらでも入り込むことのできる「人」がいることを知っていました。それゆえに、そこから離れたくないのです。「格差」が生み出す混乱、断絶は、一見エンドレスのように見えます。

 しかし、そこに「二千匹ほどの豚の群れ」(5:13)が登場します。動物愛護の立場からすれば、「なぜ?」と首をかしげたくなる出来事です。ユダヤ人にとって「不浄の動物」(レビ11:6)であるからどうでもいいというのでしょうか? 決してそのようなことではありません。「豚」も貴い命を持つ存在です。その死を誰よりも悲しまれ、痛みをもって受け取られたのは、すべての被造物の「命」を創造された神ご自身、すなわち主イエスご自身です。

 一人の人が「汚れた霊」の支配と決別し、本来の自分、「神の聖なる霊」のもたらす豊かな交わりの回復の中に自らを見い出すために、主イエスご自身が担われた「犠牲」「痛み」がいかに大きなものか…というところへと、この命の犠牲、痛みはつながっています。

 私たち一人ひとりの魂の回復、霊的な命の回復のためにも、実は、私たちの想像をはるかに超えた「犠牲」「痛み」があるのです。主イエスは、そのことを恩着せがましく見せびらかせたりなさいません。一切の責任を、ただおひとりで担われました。十字架の上で、その貴い命をおささげくださいました。それゆえに、私たちは、今、生きることができるのです。

 そのことのすばらしさに、私たちが、今、気づくことを、神様は願っておられます。にもかかわらず、その恵みの大きさより別のものに目を奪われ、挙句の果てに、主イエスとの関りをやめてしまうということが、実際に起こりうるのです。

 聖書は伝えています。

「豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。」(5:14~17)

 汚れた霊につかれていた人に起こったこと、そして二千匹の豚に起こったことを知らされた人々は、魂の回復、命の回復よりも、経済的な損失(豚二千匹分)の方に心を向けたのです。主イエスの痛みよりも、自分たちの利益に心の軸足を置いたのです。

 そのような価値観の中に引きずり込まれてしまい、まことの救い主イエスを追い出してしまうという、悲しむべき状況を前にして、私たちにできることは何もないのでしょうか? 主イエスは語ります。

「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」(5:19)

 マルコによる福音書において、「知らせなさい」と主イエスがおっしゃっている貴重な箇所です。汚れた霊の支配から完全に解放され、神の聖なる霊の豊かな交わりの中で生きることへと招き入れられた、かつては墓場を住まいとしていたその人は、自分自身のためにいかに多くの犠牲が払われたかを心に刻んでいました。だから主イエスは、「ことごとく知らせなさい」と促されたのです。主イエスの十字架の御業へとつながってゆく出来事を、そのまま語るところに、実は「一本の道」が開かれてゆきます。

 私たちも、自分のために主イエスがなさったことを、臆することなく、大胆に語りたいと思います。

 この出来事は「イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると…」(5:21)へと続きます。せっかく暴風の中を命の危険を冒してたどりついた「向こう岸」でしたが、この「汚れた霊につかれた人」の回復のみで、主イエスたちは戻ることになります。まことに非効率的な行動のように思えます。コストパフォーマンスに合わないことのように見えます。それでも主イエスは、「ひとり」のために、歩みを進められます(マタイによる福音書の並行箇所では「二人」ですが、大きく変わりません・マタイ8:28)。そして、たった「ひとり」であっても、その語る真実な証しは「人々の驚き」(マルコ5:20)を巻き起こしてゆきます。

  私たちも、心を込めて語りたいと思います。派手でなくていいのです。過去の自分を恥ずかしがる必要などまったくありません。ただシンプルに「主があなたにしてくださったこと」を「自分の家(ゲラサ人の地方で彼が伝えたように)」で知らせましょう。

2025.9.28主日礼拝

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