2025年8月10日 礼拝説教「十二人の使徒」

牧師 田村 博

十二人の使徒

旧約 出エジプト記 3912  約 マルコによる福音書31319 

                          田 村  博

  本日の聖書箇所には、十二人の「使徒」と呼ばれる人々が登場します。「使徒」と訳されているギリシア語「アポストロス」 は、「遣わされた者」という意味です。実際使徒たちは、主イエスの十字架・復活後、イスカリオテのユダを除くそれぞれが、文字通り世界中に遣わされてゆきます。さまざまな迫害のためエルサレムに、そしてパレスチナ地方に留まることができなくなっていったということもありますが、決してそれだけではありません。「使徒=遣わされた者」として、主イエスご自身によって立てられたゆえに、ほとんどが殉教するというまことに厳しい生涯に、自らの意思で、喜びをもって立ち向かっていったのです。

 シモン・ペトロはローマで殉教しました。しかし、その歩みは無駄ではなく、「ペトロ」=「岩」という主イエスによってつけられた名前のごとく、「岩」のようにガッチリとした教会の土台となりました。ローマを拠点としてヨーロッパ各地に福音は伝えられ、そのつながりの中に、私たちの属するプロテスタント教会も生まれたのです。

 バルトロマイやタダイといった名前は聞き慣れていないかもしれません。彼らはアルメリアに福音を伝えたと言われています。アルメリアと聞いてもピンと来ないかもしれません。アゼルバイジャン、ジョージア、イラン、トルコに囲まれた国です。新共同訳聖書に付属する聖書地図にその場所を知る手掛かりが一つだけあります。「1.聖書の古代世界」の北の端にある「アララト」です。創世記8章にはノアの箱舟が漂着した場所がアララト山であったと記されています。このアララト山は現在はトルコ領になっているのですが、古くはアルメリア領でした。しかし、現在もアルメリアの首都エレバンからは、標高5,137mの夏でも雪を冠にいただいた雄大なアララト山の姿を見ることができます。アルメリアが有名なのはアララト山だけではありません。キリスト教が厳しい迫害を経て、ローマ帝国によって公認された313年のミラノ勅令を記憶している人が多いと思います。しかし、実はその10年以上前の301年にアルメリア王国が世界で初めてキリスト教を国教と定めているのです。現在でも500万人以上のアルメリア使徒教会を形成していることの発端は、バルトロマイとタダイなのです。

 フィリポがエチオピアの女王に仕える高官に福音を伝えたことは、使徒言行録8章に記されています。その高官がエチオピアで教会を設立し、エチオピアや北アフリカに福音が力強く広がっていきました。

 トマスはヨハネによる福音書にたびたび登場しますが、彼は十二人使徒の中で最も遠くインドまで福音を伝えたと言われています。日本に最初にキリスト教を届けたフランシスコ・ザビエルは、インドのゴアからマドラスを経由して日本にやって来ました。マドラスにはトマスの墓があり、ザビエルはわざわざ立ち寄ったそうです。十二使徒の一人であるトマスが福音を伝えたという事実は、ザビエルをどんなにか力づけたことでしょう。その意味で日本とトマスには接点があります。

 12人は、まさに「使徒=遣わされた者」でした。

 性格も職業もまったく異なる12人が「使徒=遣わされた者」として立てられました。

 ところで、この「十二使徒」のリストは、マタイによる福音書、ルカによる福音書にもそれぞれ記されています。しかし、前後にどのような出来事を伝えているかというと、マルコによる福音書とは微妙に異なります。 

 先々週の礼拝で、直前の箇所である3章7~12節の御言葉を受け取りました。そこで注目したのは、「おびただしい群衆」(3:7)でした。「群集心理」がどのように形成され、どんな性質を持っているのか、そして主イエスの人気が急上昇する様子をいぶかしげに見ていたファリサイ派の人々が、その「群衆」の力を恐れていたことも申し上げました。ところが主イエスは、ご自分にとって有利に働くかもしれない「群集」の力を利用することは決してなさいませんでした。「あなたは神の子だ」と賛辞をささげる者をきっぱりと退けました。そして、本日の聖書箇所13節にあるように「山に登られた」のです。

 私たちにとっても「山に登る」ことは、必要な、とても大切なことです。といっても「登山」を勧めているわけではありません。この世の価値観に流されて自らを見失うことのないために、「群衆」の流れから離れるべき時があるのです。それは、わたしたちにとってスマホを眺めることから一時的にせよ遠ざかることかもしれません。一日の始めの密室の祈りの時かもしれません。就寝前のひと時かもしれません。そして、それは「習慣」として体が覚えているから持つのではありません。13節の御言葉のように、主イエスご自身が私たちに先だって「山に登って」くださり、そこから御声をかけて招いてくださるのです。主イエスご自身が、私たちがその御声に応答するのを待っていてくださるのです。

 主イエスは、自分のような者をお招きくださるだろうか? ここでも特別な者、特別に活躍しそうな者をお選びになったのではないだろうか? 「これと思う人々を呼び寄せ」というのは、そういうことではないだろうか、と思われるかもしれません。

 先ほどは、12人の「遣わされた者」としての姿を少しだけ取り上げてみましたが、その12人のメンバーの「多様性」をご覧いただければ、主イエスの「招き」が、ご自身の周りで役に立ちそうだからといった基準によるものではないことがすぐにわかります。ペトロとアンデレ、ゼベダイの子ヤコブとヨハネは、漁師でした。マタイは、ユダヤ人たちから見下されていた取税人でした。シモンは熱心党、すなわちローマ帝国の支配に抵抗するレジスタンスのような組織に片足を突っ込んでいました。

 「多様性」といえば聞こえはよいですが、一見バラバラな個性に満ちた集団でした。

 このリストを注意して見ると、最初の3人が特別扱いされているかのように見えます。ペトロとヤコブとヨハネの3人です。ペトロはアンデレと兄弟同士なので、一緒に記されていてもよいような気がしますが、ペトロだけ真っ先に登場し、ゼベダイの子ヤコブとヨハネが割り込んでいるのです。そして、その3人だけが「あだ名」を付けられています。この3人セットは、このあとも登場します。主イエスが十字架におかかりになる直前のゲッセマネの祈りの際、主イエスはこの3人を近くに招かれました。しかし、主イエスの近くで祈っているように命じられますが「眠ってしまう」という失態を繰り返してしまうのです(マルコ14:32~42)。優等生として登場するのではないのです。ヤコブとヨハネは、他の弟子たちを差し置いて「(主イエスが)栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と図々しくも申し出るという失態を犯しています(マルコ10:35~45)。重要なことは、聖書が、その失態をそのまま包み隠さず伝えていることです。イスカリオテのユダに至っては、「イエスを裏切った」と紹介されています。主イエスには、人を見る目がなかったのでしょうか? そうではありません。主イエスは、すべてをご存知でした。ご存知の上で、一人一人を招かれたのです。ユダについて「裏切った」と訳されているギリシャ語は、「引き渡した」と訳したほうがふさわしい言葉です。自分自身の考えを信じて物事を貫き通そうとすることは、ユダに限らず誰でも取りうる行動です。それが人間です。それが私たちの偽らざる姿です。ユダはその代表、象徴としてここに登場しているのです。

 主イエスは、その「人間」の弱さをすべてご存知でいらっしゃいます。そのうえで、その「弱さ」「弱さがもたらす結果」をすべてご自身で背負ってくださるというのです。それが、主イエスの十字架です。そして「復活」を通して、「弱さ」「弱さがもたらす結果」をそのままにするのではなく、それを超えた本当の救い、唯一無二の救いを成就してくださるお方なのです。

 その十字架・復活の御業のために、主イエスは12人を招かれました。12人を呼び寄せ、一人一人に使命を与えてくださいました。

 それではなぜ12人だったのでしょうか(11人でも13人でもなく)。イスラエルの民(ユダヤ人)にとって「12」というのは特別な数字でした。ヤコブの子からつながり、その後の出エジプト、約束の地カナン定住においても「イスラエルの12部族」は、常に意識され続けています。

 この「12」は、私たちの生活の中にもすでに深く根付いています。

 1年間は12か月、時間は午前12時間、午後12時間です。これは偶然の一致ではありません。聖書の世界ではなおさらです。あわせて「3」は聖なる数字とされています。「三位一体(父・子・聖霊)」にあらわれている「3」ですが、福音書の数は「4」で、「3」×「4」=「12」です。また、「7」も「12」と並んで「完全数」とされていますが、使徒言行録6章で「十二使徒」を助ける人々が選ばれますが、それは「7」人でした。先ほどの聖なる数字「3」と福音書の数「4」を足すと完全数「7」になるわけです。

 これは、単なる数字遊びではありません。神さまがイスラエルの民を愛し、歴史を導いて来られたのは、神さまの祝福が、この地上のすべての人々に届けられるためです。すべての人々にとって必要な神さまの完全な御業を、完全数というかたちで象徴的に意識させようとされてのことなのです。

 イスラエルの12部族は、すべての人の救いのための祝福の源なのです。

 主イエスを信じる者を通して祝福が泉のようにして湧きあがり、すべての人の渇きを癒すような豊かな流れが沸き起こるのです。

 主イエスは、すべての人々をその祝福の流れにあずからせるために「十二使徒」を招かれました。

 12人限定の恵みを示しているのではなく、大きな流れの始まりをこの「招き」の中に示しているのです。

 つまり、「十二使徒」の招きを聖書を通して受けとめる私たち一人ひとりへの「招き」でもあるのです。

 14節、15節には、招いた上で、どのようにして整えてくださるのか、3つのポイントが示されています。

(1)「自分のそばに置くため」

 主イエスは、十二使徒を「ご自身のそばに置く」ことを良しとされました。ご自身と同じ空気を吸い、同じ音を聴き、同じ風を感じ、同じ喜びを共有することを良しとされました。バーチャルリアリティーという技術が急速に進んでいます。平面の画面でやり取りをするのではなく、立体的、疑似的に、時と場所を共有することができるようになりつつあります。もしかしたら、触感、臭いも共有することができるようになるのはそんなに先ではないかもしれません。昔は音と映像だけだったよね…と話すことになるかもしれません。しかし、このような技術を使わなくても、主イエスは、私たち一人一人をご自分のそばに置いてくださいます。そのために、死から甦ってくださったのです。今も、生きておられるのです。そして、私たちがそのことを信じて心に主イエスをお迎えするならば、そして目を閉じて、「主よ」と呼びかけるならば、主イエスが、私たちを「ご自分のそばに置」いてくださる幸いを受けとめることができるようにしてくださっているのです。

(2)「派遣して宣教させるため」

 その恵みは、一人の人格に留まることをもって閉じられるものではありません。私たちがおささげしているこの礼拝も、「祝福・派遣」で閉じられます。主ご自身が、派遣してくださるのです。そして福音の恵みを、主イエスが今、生きておられるという事実を宣べ伝えさせてくださるのです。

 一つの単純な細菌が増殖するスピードは驚くほど速いものです。数分で1個が2個、4個、8個、16個……と累乗に分裂し、増え続けるものもあります。24時間後には、なんと281兆個ととんでもない数になります。大切なのは、主イエスが今生きておられるという事実を割引することなく、変質させることなく、ただ単純に、分かち合い続けるということです。そのために、主イエスは「十二使徒」を立て、お用いになりました。そして、今、私たちを立て、お用いくださるのです。

(3)「悪霊を追い出す権能を持たせるため」

 弟子たちが、そして私たちが向かい合って対応すべき事柄は、霊的な領域に属するものなのです。

 パウロは、エフェソの信徒への手紙6章12節にこう記しています。

「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」

 私たちは、目に見える事柄にのみ関心を寄せてしまいがちです。そして、本来は敵対するべき相手ではないところに労力を用いるところに陥りがちです。主イエスは、十二使徒たちに霊的な勝利の体験をさせました。同様に、私たちにもその勝利の体験を味あわせてくださいます。

 主イエスは、すでに「山に登って」招いておられます。私たちの今週の歩みに先だって、すでに「山に登って」待っていてくださいます。「群衆」の中にうずもれて、自らを見失ってはいけません。それを神さまはお望みになっておられません。だから「十二使徒」を立てられたのです。そして、私たちを立ててくださるのです。お従いいたしましょう。

2025.8.10主日礼拝

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