2025年7月13日 礼拝説教「正しい人を招くためではなく」

牧師 田村 博

       月報よきおとずれ  2025年7月号 №899

                  目   次       日本基督教団  茅ヶ崎教会    

テキスト ボックス: 説   教  ・・・・・・・1
特別講演(藤田智先生)・・・5
6月定例役員会報告  ・・・10
6月度会計報告 ・・・・・12
「牧師室の窓から」・・・・14

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正しい人を招くためではなく

旧約 民数記2149  約 マルコによる福音書21317 

                          田 村  博

 「イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。」(13節)という一言で、この聖書箇所は始まっています。その直前(1~12節)には、主イエスが立ち寄られた家に大勢の人々が集まってきて、面会を希望して新たに尋ねてきた人々が近くに寄れないほどだった様子が記されています。そのような状況に、主イエスが息が詰まりそうになって湖のほとりに足を向けたわけではないでしょう。人間には休息が必要だということを伝えようとしたわけでもないでしょう。ここには、何気なく「再び」という言葉があります。「再び」というからには「その前」があります。それは、1章16節以下の。シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネの4人の弟子たちが招かれた場面で、それが「湖のほとり」でのことでした。後に12使徒として、主イエスの身近にあってすべての出来事の証人として立てられることになる4名。そしてレビ(彼は、マタイと呼ばれ、マタイによる福音書を記すことになる)、5人とも「湖」との関わりのあるところで招かれています。「湖」は、口語訳では「海」と訳され、聖書協会共同訳では脚注で「海」とわざわざ付記されています。「海」という言葉は、すでに折に触れて何度か説明している通り、人間を吞み込んでしまうような得体の知れない、底知れぬ「闇」の象徴なのです。実際にガリラヤ湖は最大水深40m以上。南北20㎞、東西12㎞。12㎞といえば茅ヶ崎から鎌倉まで直線距離に相当します。しかもガリラヤ湖は、地中海の海面から測るとマイナス210mほどという特殊な地形をしています。ときどき突風が起こり、人の命を実際に呑み込むこともありました。主イエスが招かれた5名の弟子たちがいずれも「湖=海」と関わりのあるところで招かれていいることは決して偶然ではないでしょう。主イエスは、人々を闇の中に呑み込もうとする得体の知れない存在に対して、はっきりと対峙するためにあえてそのようになさったのだ、とマルコは伝えたかったのかもしれません。

 しかし、本日の聖書箇所をよく見ると、レビを招かれたのは、湖のほとりではなく、その「通りがかり」です。レビは、「収税所」に座っていました(14節)。岩波訳聖書では「税務所」と(「署」ではなく「所」)と訳しています。この時代、ユダヤ人たちはローマ帝国の統治下にあり、直接税(土地あるいは人頭税=現在でいえば固定資産税と住民税)と関税を納めさせられていました。関税には、道路や橋の通行税(現在でいえばガソリン税や高速道路の税)、ある町から他の町へと運ばれる品物への税(現在でいえば輸出入時の税=米国大統領がゆえに世界中で騒然としている)などがあります。税をもれなく集めるために、地域を区切り担当責任者を立て、その責任者のもとに下請けを立て、その下請けのもとに実務担当者といったガッチリとした組織が固められていました。そのそれぞれが生計を立てているわけで、その原資はもちろん納税者が負担することになっていました。つまり、納税者から見れば、徴税人は、ローマ帝国の手下となって、自分たちから金銭を巻き上げる存在だったのです。しかもユダヤ人たちにとって異教徒であるローマ人との接触ゆえに「汚れた者」とみなされ、軽蔑の対象となっていったのです。

 レビがどのような立場の徴税人だったのか、はっきりとはわからないが、「座っていた」という言葉から、そして、主イエスの「わたしに従いなさい。」(14節)という御言葉に従って、その場を誰かに任せることができたことから、さらには、15節にあるように家に主イエスや弟子たちや他の人々を大勢招いて食事の席を設けていることから、ある程度の責任ある立場にあったのではないかと想像できます。

 そのレビが、主イエスの「わたしに従いなさい。」という御言葉に従って、その場を後にしました。ルカによる福音書は「彼は何もかも捨てて立ち上がり」(5:28)と伝えています。なぜ、レビは、主イエスに直ちに従ったのでしょうか。その理由については、一切記されてません。主イエスのなさっていた御業を伝聞していたのかもしれませんが、記されていないことにこそ、大切な意味があるように思います。主イエスとの「出会い」は、一人一人異なるのです。そして、ただ事実として言えることは、主イエスご自身と、目と目をあわせて、顔と顔をあわせて向かい合う「出会い」の瞬間があったということです。マルコは、この事実のみをズバリと書いているのです。

 本日の説教後の讃美歌は532番です。愛唱讃美歌として選んでいらっしゃるかたもいらっしゃるかもしれません。

 1.ひとたびは死にし身も  

主によりていま生きぬ、

   みさかえのかがやきに  

罪の雲きえにけり。

   (おりかえし)

   昼となく、夜となく、 

主の愛にまもられて、

   いつか主にむすばれつ、 

世にはなき交わりよ。

 2.主のうけぬこころみも、  

主の知らぬかなしみも、

   うつし世にあらじかし、  

いずこにもみあと見ゆ。

 3.昼となく、夜となく、  

主はともにましませば、

   いやされぬやまいなく、  

さちならぬ禍(まが)もなし、

 この讃美歌の作詞者は、ダニエル・ウェブスター・ホイットルという19世紀の人でアメリカ人です。彼は南北戦争で右腕を失い、捕虜収容所に送られるという経験を持っていました。病院で療養していた時、読むものを探したところ新約聖書を見つけたそうです。その言葉は彼の心に響きはしましたが、信じるには至らなかったそうです。それから間もなく、彼は寝ているところを病院の当番兵に起こされました。そして、「瀕死の囚人が誰かと一緒に祈りたがっている」と言われたのです。ホイットルは、そんなことはできないと拒みましたが、当番兵は「でもあなたはクリスチャンではないですか。聖書を読んでいるのを見ましたよ。」と言いました。しかたなくホイットルは行くことにしました。彼は、死にゆく若者のかたわらでの出来事を次のように記しています。

 「私は少年のために心から祈った。少年は静かになり、私が神の約束を祈り願っている間、私の手をしっかりと握っていた。ひざまずいていた私が立ち上がったとき、彼は亡くなっていた。苦しんでいた彼の顔には、安らぎの表情が浮かんでいた。私は信ぜずにはいられなかった。神が少年を用いて、私を救い主のもとに連れていってくださったことを。そして私を用いて少年を、キリストの尊い血への信頼と罪の赦しに導いてくださったことを。私は少年と天国で会う日を待ち望んでいる。」

 このような経験をしたホイットルは、南北戦争後、シカゴのある腕時計の会社(エルジン腕時計)の会計係になりました。彼は、その会社の会計係の仕事をしていたときに、生涯を主にささげる決断へと導かれ伝道者となりました。その場所は、会社の「金庫室」でした。「金庫室に入り、最も静かな場所での完全な静寂の中で私は、天の父が私を御心のままに用いてくださるようにと、自分の生涯をささげた。」と彼は書き残しています。

 一人一人、主イエスとの出会い方、そして向かい合い方は異なります。ホイットルは、「金庫室」の中で主イエスと出会い、向かい合いました。レビ(マタイ)は、「収税所」に座っていた時に、主イエスと出会い、主イエスと向かい合いました。

 主イエスはレビ(マタイ)の内に、またホイットルの内に、何を見い出して声をおかけになったのでしょうか? 特別な能力ゆえに彼を招かれたのでしょうか? その問いの答えは、この聖書箇所の後半にあります。

 ここには、ファリサイ派の律法学者が登場します。彼らにとって、目の前に広がる光景は不思議なことのように思えたのです。そこで弟子たちに尋ねました。

「どうして彼(イエス)は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」(16節)

 「ファリサイ派」という言葉がマルコによる福音書で最初に登場するのがこの箇所です。それは、「分離」という意味の言葉から派生しています。「ファリサイ派」の人々にとって、自らを「罪」と分離させることこそ、何よりもの関心事でした。聖書における「罪」とは、私たちが通常考えるような様々な犯罪的行為も含みますが、それらはむしろ結果であり、その根本に「神様抜きにして、自らの力によって生きること」があることを示しています。その「罪」に対して、ファリサイ派の人々は、対峙しました。「神に従うことを、律法を守る生活をすることを無視するような人々」と、自らを「分離」して、自らの「正しさ」を保とうとしたのです。「朱に交われば赤くなる」という諺がありますが、「分離」という方法によって、自らの「正しさ」を追及していったのです。

 主イエスは、それを無意味だとおっしゃったのではありません。「神様抜きにして、自らの力によって生きること」を黙認したり、甘く見たりしておられるのでもありません。「正しさ」をいい加減にしていいとおっしゃっているのではないのです。

 主イエスが、弟子たちに、そして私たち一人ひとりに届けようとされているのは、「永遠の命」です。ホイットルが経験したように、「死」を超えた「命」が確かにあることを届けようとされたのです。「永遠の命」とは、創造主なる全能の神様との生き生きとした喜びあふれる交わりが永遠に続くことと言い換えることが可能です。神様に永遠に覚え続けられている状態です。そして、そこには一点の「罪」さえも入り込んだままでいることが赦されないのです。それは、私たちの努力では決して達成することができない状態です。だからこそ、主イエス・キリストが十字架におかかりくださり、ご自身の命を犠牲として神様に差し出してくださり、執り成してくださったのです。

 主イエスはおっしゃいました。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(17節)

 私たちに必要なのは、自らが「医者を必要としている病人である」という事実に目を開かれることです。主イエスは、私たちを含む、すべての人々を招くためにおいでくださいました。その「招き」にお従いしたいと思います。レビのように、ホイットルのように、お従いいたしましょう。

2025.7.13主日礼拝

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