牧師 田村 博
月報よきおとずれ 2025年6月号 №898
目 次 日本基督教団 茅ヶ崎教会
〒253-0055 茅ヶ崎市中海岸4-2-18
電話0467-57-8180
HP: chigasakichurch.com
牧 師 田 村 博
〒253-0056 茅ヶ崎市中海岸4-2-22
Tel/Fax 0467-88-5814
「秋の雨と春の雨」
旧約 ヨエル書2:21~24 新約 ヤコブの手紙5:7~11
田 村 博
午後からの藤田智先生の特別講演会「大地を耕す人は、人の心も耕す -自然、人、園芸、そして神-」に先だって、この主日公同礼拝の聖書箇所として与えられたのは、旧約聖書ヨエル書2:21~24と新約聖書ヤコブの手紙5:7~11です。
○「春の雨と秋の雨」ではない理由
本日の礼拝の説教題「秋の雨と春の雨」ですが、「春夏秋冬」という言葉に馴染んでいる私たちですので、もしかしたら、どうして「春の雨と秋の雨」(「春」が先)でないのだろうか? と思われた方がいらっしゃるかもしれません。その理由は、ユダヤ暦を調べてみるとわかります。ユダヤ暦では、「ローシュ・ハシャナ(新年)」は「ティシュレ(第7月)」で、西暦では、「9~10月」に相当します。(正確には、ユダヤ暦は複数の「新年」を持っているのですがそれについては別の機会に…) それゆえ、「春」ではなく「秋」が先に記されているのです。「ティシュレ(第7月)」の15~22日には、ユダヤの三大祝日の一つである「仮庵の祭り(仮庵祭・スコット)」があります。その祭りは、出エジプトの出来事と深く結びついているのですが、秋分の満月に始まるこの祭りは、同時に秋の収穫祭としての意味を持っていました。その8日目にあたる最後の日に「雨が降ることを願っての祈り」がささげられたそうです。雨で耕地がうるおされ、くわを入れることが容易になることを期待しての祈りでした。つまり、地面を耕すという種まきの準備を念頭にした祈りです。種まきの時期は、11月から1月にかけてです。比較的乾燥に強い大麦が最初に蒔かれ、続いて小麦、亜麻、別の麦と順次蒔かれました。日本ですと、主食のコメのためには田んぼが用いられます。これは雨が多いゆえに可能なのですが、パレスチナ地方では気候が異なります。川からの灌漑などもパレスチナ地方では行なわれなかったゆえに、穀物(農作物)にとって「雨」は非常に重要でした。ホセア書6章3節では、「秋の雨」に続く「冬の雨」「降り注ぐ雨」について言及されています(12~2月)。そして「春の雨」(3月中旬から4月上旬)が必要なのです。
ユダヤの人々が、種を蒔く前の「秋の雨」をまず心にとめていることは、私たちにいろいろなことを教えてくれるのではないでしょうか。穀物の収穫は、「土」なしではありえません。「土」をいかにして準備するかによって、穀物の味や品質も大きく変わります。地味であっても欠かすことのできない「備え」があります。私たちの人生が「実」を結ぶ上でも、地味な「備え」が必要なことがあります。手を抜いていい加減にしてしまってもいいのでは、という誘惑が忍び込む部分です。そんな私たちにとって、「秋の雨と春の雨」という言葉の前に立ち止まることは大きな意味があります。
○ 農業とイスラエルの三大祝日
ユダヤの三大祭の一つである「仮庵の祭(仮庵祭・スコット)」が農業と結びついていることを見てきましたが、他の2つの祭りである「過越祭(ペサハ)」「七週の祭(シャボット)」も、農業と深く結びついています。農作物の収穫をもたらす存在としての「神」であれば、日本を含む世界各地に見出すことができるでしょう。しかし、イスラエルの民の三大祝日について見てみると、そのすべてが彼らの「救いの歴史」と深く結びついているという特徴があります。「過越祭」について見ると、それはイスラエルの民の出エジプトの出来事に由来します。自分たちの社会のインフラ工事の担い手であった(都合のよい労働力であった)イスラエルの民がいなくなってしまうことを惜しんだエジプトのファラオは、イスラエルの民がエジプトを後にしてカナンの地に出発してしまうことを拒みました。それゆえ、主なる神は、それぞれの家の鴨居と柱に犠牲の小羊の血を塗るように命じたのです。そして、その神の命令に従った人々の前を、「初子の死」という災いが「過ぎ越した」のでした。その過越祭の最初には「大麦の初穂をささげる」という儀式が組み込まれています。主なる神は、必要な備え(雨、日光、風など)をお与えくださり、自分たちに収穫の喜びを与えてくださるお方であることを、「大麦の初穂」をささげることを通して告白し、証しし続けたのです。三大祝日のもう一つの祭り「七週の祭」の由来は、「7×7=49」≒「50」にあります。出エジプトからモーセがシナイ山で律法を授かった日までの期間である「50日」とつながっているのです。同時に大麦の収穫から始まって、遅れて種まきをした小麦の収穫が50日を経て完了することと重ね合わされます。大麦と小麦は、イスラエルの民にとって「主食」です。私たちにしてみれば「コメ」に相当するものです。その大切な「主食」の収穫を喜んだのが「七週の祭」であり「五旬祭(ペンテコステ)」です。この喜びを分かち合うために人々が集まっていたところに聖霊が降りました。そして教会が誕生しました。
イスラエルの民は「暦」を通して、「信仰」と「生活」をしっかりと一つに結びつけ、心に刻み続けたのでした。
私たちはどうでしょうか。別々のものとしてそれらをとらえてしまってはいないでしょうか。イスラエルの民の歴史は、困難と忍耐の連続でした。その困難と忍耐の真っ只中にあっても、彼らが信仰を失うことなく生き続けることができ、新約の時代へと、主イエス・キリストを通してあらわされる新しい「時」の到来へと歴史をつなぐことができたのは、「暦」があったからといっても過言ではないでしょう。
○ 困難と忍耐の先にあるもの
「大地よ、恐れるな、喜び躍れ。主は偉大な御業を成し遂げられた。」で始まるヨエル書2章21節以下の本日の御言葉は、約束の地カナンから遠く1000キロ以上離れた地に強制移住させられたイスラエルの民にとって、回復の約束とその成就の雄叫びです。「バビロン捕囚」と呼ばれる出来事は、想像を超えた困難に満ちたものでした。民族存亡の危機と言ってよいものでした。その場所とは、現在で言えばイラン、イラクの土地と重なってきます。今から2000年以上前のこの出来事が現在につながっているのです。困難の真っ只中で人々は、「主はあなたたちを救うために、秋の雨を与えて豊かに降らせてくださる。元のように、秋の雨と春の雨をお与えになる。」(23節)という約束を、彼らの「暦」の中で、来る年も来る年も数え続けていったのです。ヨエルを含む旧約の預言者たちは、自分たちに困難をもたらす外敵に対して憎しみを燃え立たせるために語り続けたのではありませんでした。イスラエルの民が創造主なるまことの神に立ち返るべきことを、ただ一心に伝え続けたのです。
新約聖書・ヤコブの手紙は、迫害の連続であった初代クリスチャンたちに対して、この「秋の雨と春の雨」を思い返して忍耐するようにと勧めています。さらには「ヨブの忍耐」をあげています。全身できものだらけの体になり、最愛の妻から「神を呪って死になさい」と言われてしまうほどの困難を経験したヨブです。しかし、そのヨブは、最後には持ち物、家族を2倍にされたことを聖書は伝えています。それは、信じる者は地上で財産が祝されるといったことを示しているのではありません。大切なのは「最後」(11節)のことなのです。それは「主が来られる時」(8節)なのです。現在の「時」は、完成に向かって進んでいます。主イエス・キリストが再び来られるという特別な「時」であり、「世の終わり」です。「世の完成の時」に、私たちが授かる祝福・ほんとうの収穫があるのです。
○ わたしたちにとって本当に必要な「水」をくださる主イエス
イスラエルの民は、一年の初めにあたり、これからもたらされようとしているすべての収穫の「幻」を「秋の雨」と共に心に刻もうとしました。その仮庵祭の最後の日、人々の思いが最高潮に達するその時、主イエスがイスラエルの民を前にして語られた御言葉があります。
「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』」(ヨハネによる福音書7:37~38)
また、主イエスはそれに先だって次のように語られています。
「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。』」(ヨハネによる福音書4:13~14)
農作物にとって大切な「水」ですが、私たちにとっても「水」はなくてはならないものです。しかし、世の終わりの時、世の完成の時、主イエス・キリストが再び来られるその時に、その価値をはっきりと知ることのできる「水」があります。その「水」は、魂の渇きを満たし、私たちに「永遠の命」をもたらせてくれます。しかも、私たち自身がその「水」にあずかって終わりではなく、「私」という存在を用いて、その「水」を必要とする人々に届けるという新しい使命を、私たちにも与えてくださるのです。終わりの時のことですので、はっきりとは認識できないことでしょう。しかし、秋の雨を祈り願った人々の心に、収穫の「幻」がすでに映っていたように、私たちも「幻」を共有することができるのです。
春の特別伝道礼拝2025.6.15