牧師 田村 博
イザヤ書45:11~13 マルコによる福音書1:21~28
田 村 博
旧約聖書箇所であるイザヤ書45章11節にある通り、主なる神様は「聖なる神、その造り主」なるお方です。そのお方に対して「しるしを求める」ことは、そのお方に信頼を寄せていない証拠であり、自らの知識・知恵を、そのお方の知識・知恵の上に置くことにもつながりかねません。12節にはこうあります。
「大地を造り、その上に人間を創造したのはわたし。自分の手で天を広げ、その万象を指揮するもの。」
そのお方が求めているのは、暴君のようにその権威を振り回して人々を屈服させることではありません。13節に「わたしは正義によって彼を奮い立たせ、その行く道をすべてまっすぐにする。」とあるように、人種、国籍、立場を超えた救いの器を立てて、あらゆる手段を用いてその御業を前進させてくださるお方です。「彼はわたしの都を再建し、わたしの捕らわれ人を釈放し、報酬も賄賂も求めない。」にある「わたしの都」とは、ここではエルサレムのことであり、「わたしの捕らわれ人」とは、ここではバビロン捕囚下にあるイスラエルの民のことですが、この御言葉と出会い、この御言葉を通して語りかけられているわたしたち一人ひとりにとって、現在進行形の大切な意味を持っています。
主イエスの到来と共に、神の国の到来が高らかに告げられました。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)
「神の国」の再建です。主イエスをその「頭」として、わたしたち一人ひとりを組み合わせて「体」として組み立て、生ける神殿としての「神の国」を建て上げようとしてくださっているのです。「罪」の奴隷になっている一人ひとりを「罪」から解放し(救い出し、釈放し)ようとされているのです。しかも「報酬も賄賂も」なしに、無償でその御業を完成させようとしてくださっているのです。
そのために、マルコによる福音書は、その冒頭で「洗礼(バプテスマ)」の重要性を宣言していました。
主イエスに先立って神様に遣わされ、「主の道を整え、その道筋をまっすぐに」するという役割のために立てられたヨハネを、「祭司ザカリアの子ヨハネ」ではなく「洗礼者ヨハネ」と呼んでいます。彼はヨルダン川で人々に洗礼(バプテスマ)を授けました。その彼がはっきりと語っています。
「わたしは水であなたたちに洗礼(バプテスマ)を授けたが、その方は聖霊で洗礼(バプテスマ)をお授けになる。」(1:8)
「バプテスマ」とは、ギリシャ語「バプティゾー(浸す)」から派生した名詞です。主イエスが、ご自身の命と引き換えにわたしたちに授けようとなさっている聖霊は、わたしたちに「はい、どうぞ」と手渡されるのではなく、また特別な力を授けるかのように付与されるのでもないのです。わたしたち自身が、聖霊なるお方の臨在に、実存に、浸されるのです。わたしたちが、聖霊なるお方のご支配のもとに組み入れられるのです。これは、わたしたちが何によって、どう生きるかという、わたしたちの生き方の本質と深く関わる大切なことです。
使徒言行録8章9節以下には、サマリア地方に住んでいた魔術師シモンという人物のことが記されています。シモン自身も、フィリポたちによって告げられた福音のメッセージを信じて洗礼(バプテスマ)を受けていました(同8:12)。そのサマリア地方に、ペトロとヨハネが訪れ、神の言葉を受け入れた人々に聖霊を受けるように祈りました。その様子が、次のように記されています。
「二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである。ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。シモンは、使徒たちが手を置くことで、“霊”が与えられるのを見、金を持って来て、言った。『わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください。』すると、ペトロは言った。『この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。お前はこのことに何のかかわりもなければ、権利もない。お前の心が神の前に正しくないからだ。この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれないからだ。お前は腹黒い者であり、悪の縄目に縛られていることが、わたしには分かっている。』シモンは答えた。『おっしゃったことが何一つわたしの身に起こらないように、主に祈ってください。』」(使徒8:15~24)
これは、神様のすばらしい御業を目の当たりにしたわたしたちに対しての警告でもありましょう。そのすばらしさを自分のものにしたい、自分の思い通りに用いたい、という思いにいつの間にか心を奪われてしまうということが起こりうるのです。
聖霊に浸されて、聖霊の御働きの中に身を置き、聖霊にお委ねして生きる、そんな生き方があります。それは、ある意味で、とても厳しい面を持った生き方であると言えましょう。本日の聖書箇所、マルコによる福音書1章21節以下の出来事が、主イエスが宣教を開始して間もなく、シモンのしゅうとめの癒しよりも、重い皮膚病を患っている人の癒しよりも先に記されていることには、大きな意味があることのように思います。一見すると、熱を出して寝ているということ、あるいは重い皮膚病を患って社会からも分離されていることの方が、深刻なことのように見えます。「汚れた霊に取りつかれた男」が具体的にどのような苦境を背負っていたのかについては、聖書の記述からはうかがい知ることができません。むしろ、何もふれていないことに意味があるのかもしれません。「汚れた霊に取りつかれた男」は、主イエスが安息日に入って教え始められた「会堂」の中にいました。その中で、別段問題を起こしていたわけでもありません。居心地がよかったのです。そこを居場所として生きることを、誰からも邪魔されない状態だったのです。「会堂」では、安息日ごとに聖書(旧約聖書)が開かれて朗読されていました。律法学者たちが折にふれてわかりやすく解説してくれていました。でも、その男にとっては、居場所としては申し分ない場所だったのです。
しかし、主イエスにはわかりました。その居心地のよい状態が、その男にとって本当にふさわしい状態なのかということが、主イエスには瞬時にしてわかったはずです。表面的には取り繕って生きていたものの、その魂、心は、悪霊に支配され、その人本来の人生、その人が本当に生きるべき生き方からはかけ離れた状態であるということが、主イエスにはわかったに違いありません。
その場所について、聖書は「とある場所」ではなく「カファルナウム」と伝えています。「カファルナウム」という町は、旧約聖書には登場しません。おそらくバビロン捕囚後に建設された町なのでしょう。ペトロとアンデレの家もこのカファルナウムにありました(マルコ1:29)。収税所もあり(同2:14)、ヘロデ・アンティパス王の役人の住まいもあり(ヨハネ4:46)、ローマの百人隊長の詰所もあった(マタイ8:5~13)ことなどから、相当繁栄していて活気のあった町だったことが推察できます。文化水準が高く、生活水準が保たれていることは、わたしたちの生活の安定という面からすれば必要なことかもしれません。しかし、時はそれが「汚れた霊」にとって、自分の存在を隠す上で都合のよい環境を形づくってくれる要素となりうるのです。人々の関心の大部分が、本当に必要なことに向かわずに、表面的な課題に終始してくれるからでありましょう。
主イエスは、そのカファルナウムを宣教活動の拠点としました。賑わっていて便利だからではありません。人々の魂の救いに、躊躇することなく踏み込んでいったのです。
22節には次のように記されています。
「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」
また、27節には人々の驚きが次のような言葉と共に伝えられています。
「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」
この「権威」は、何によってもたらされた「権威」なのでしょうか。
- 「御言葉」による「権威」
主イエスは、悪霊の問いかけ(24節)に対して議論を開始したのではありませんでした。ただひと言おっしゃいました。
「黙れ。この人から出て行け」(25節)
後に弟子たちと共に乗っていた舟が激しい突風に見舞われた時、右往左往する弟子たちを前にして、その時も、主イエスはただひと言おっしゃいました。
「黙れ。静まれ」(マルコ4:39)
すると、風はやみ、すっかり凪になりました。ここに、主イエスの御言葉の力があります。創世記1章の天地創造の場面にある「光あれ」(1:3)とまったく同じです。洗礼者ヨハネも言いました。「言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」(マタイ3:9)と。神様ご自身の御言葉には、ありとあらゆるものを創造する御力があります。この御言葉の御力を意識して、わたしたちは聖書の御言葉に耳を傾けているでしょうか。あらためて自分に突き付けられた問いのような気がします。律法学者がどのように登場し、主イエスの時代にどんな働きをしていたかについては諸説あります。バビロン捕囚から帰還した後も、各地に離散して暮らすイスラエルの民は相当数いたと言われています。その彼らがそれぞれの町で「会堂(シナゴーグ)」を建てて、集まって礼拝をささげ始めました。モーセ五書を中心とした律法が朗読され、人々は心に刻み続けました。同時に「会堂」は、教育の場でした。物心つく年齢になった子どもたちは、会堂で律法を暗唱しました。その働きが脈々と続けられる中で、朗読用の律法を書き写す役割を担っていったのが律法学者の始まりであるという説もあります。誰かが担わなければならない大切な役割です。しかし、いつの間にか御言葉があるのが当たり前になり、その御言葉の持つ力を忘れてしまったのかもしれません。わたしたちにも、聖書の御言葉が今、手元にあるのを当たり前のように思ってしまう危険性があります。御言葉にこそ、最大の「権威」があるのです。
- 「真実の愛」による「権威」
マタイによる福音書10章34節から39節には次のように記されています。
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」
平和の君として来られた主イエスにふさわしくない御言葉のように思われるかもしれません。主イエスは、表面的な「愛」を人々に届けに来られたのではないのです。主イエス御自身が十字架の上でお示しくださった唯一無二の「愛」があります。「永遠の命」とつながる、「永遠の命」に至る「真実の愛」です。主イエスは、会堂から大声で叫び声をあげる男を追い出して会堂を礼拝の場としての平安を回復させることを良しとしませんでした。その男を愛するがゆえに、まことの権威をもって、真実な愛による権威によって凛と臨まれたのです。
- 「本当に必要なつながり」による「権威」
会堂で叫び声をあげた男の言葉を注意して見てみたいと思います。
「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」(24節)
「かまわないでくれ。」を塚本訳聖書では「放っておいてください。」と訳しています。また、新改訳聖書では「私たちと何の関係があるのですか。」と訳しています。「神の聖者」は、「神と特別な関係で結ばれている者」という意味です。男を支配しつづけようとしている霊が恐れているのは、万物を創造する力のある権威であり、真実な愛によって自分さえも見過ごさない愛に基づく権威であり、本当に必要な「関係、つながり」を回復させようとする権威だったのです。
ブルームハルトという人の名前を聞いたことがあると思います。父ヨハン・クリストフ・ブルームハルトは19世紀、子クリストフ・ブルームハルトは19世紀から20世紀始めにかけて、当時のドイツの形骸化した教会に警鐘を鳴らした牧師でした。その力強い働きは、目の前で一人の少女が「イエスは勝利者だ!」という絶叫と共に悪霊から解放されるという経験に端を発していると言われています。生まれた時、堅信礼の時、結婚の時、葬儀の時だけ教会に行くという形骸化した教会の殻を破ることを勧め、生きて働いておられる主イエスとの本当に必要なつながりを宣べ伝えました。ブルームハルト(子)は、「死ね、さらばイエスは生き給う」という確信のもとに当時の教会に向けて語り続けたと言われています。主イエスは、十字架の「死」を通して、わたしたちにとって本当に必要なつながりを、わたしたち一人ひとりにもたらしてくださいました。わたしたちが自らの思い、自らの信仰のパターン、自らの確信に留まるとき、形骸化が始まります。そこには何の力もありません。そこには主イエスが会堂で示されたあの「権威」のかけらもありません。主イエスは、今生きて働いてその形骸化を打ち壊すことのおできになる唯一のお方です。わたしたちの「限界」「絶望」は、わたしたちが自らの力を放棄するためにあるのです。わたしたちが「限界」「絶望」の極地で、自らの努力の「死」を認めるとき、主イエスは、その「死」とご自身の十字架の「死」とを重ね合わせてくださいます。そして復活の新しい力を注ぎ込む出発点としてくださるのです。
ここにこそ、わたしたちにとって本当に必要な「権威ある新しい教え」があります。
(2025年5月25日主日公同礼拝)