牧師 田村 博
2025.3.16
「受難と復活の予告」
旧約:ヨブ記1:1~12
新約:マタイによる福音書16:13~28
主イエスは弟子たちに問いかけられました。
「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」(15節)
この問いかけを、今、主イエスからされたら、私たちはどのように答えることができるでしょうか。弟子たちの中でも積極的な性格だったシモン・ペトロは答えました。
「あなたはメシア、生ける神の子です」(16節)
「メシア」とは、元々「油を注がれた者」という意味の言葉でした。イスラエルの民の中で、油を注がれて立てられる役職には「王」「祭司」「預言者」がありました。ペトロは、主イエスこそ神に油を注がれて立てられたまことの「王」であり、まことの「祭司」であり、まことの「預言者」であると告白したのです。また、「メシア」はギリシャ語訳聖書では「救い主」を表す言葉でもあります。人々の救いのために神によって立てられたお方主イエスは、自分たちを含む一人ひとりにとって本当に必要な救いをもたらしてくださるお方であると告白したのでした。同時にペトロは「生ける神の子」とも告白しています。創造主なる神ご自身は、わたしたちが目で見て指し示すことのできるようなお方ではありません。主イエスこそ、その創造主なるお方に限りなく等しいお方、神のご性質をそのままお持ちであるお方であると言い表そうとして、「神の子」という言葉を用いたのでした。しかも「生きて」おられるお方、すなわち「今」という時の中で働き続けておられ、ご自身を示し続けていらっしゃるお方であると告白したのです。
ペトロは、どうしてこのように告白をすることができたのでしょうか。
「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」(15節)という主イエスの問いかけの前には、別の一連のやり取りがあります。それは、主イエスの次の言葉によって始まっています。
「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」(13節)
それに対する弟子たちの答えは次の通りでした。
「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」(14節)
主イエスは、世間での自らの評価を気にして弟子たちにこう尋ねたのではありません。また、弟子たちに世間の評価を気にすることを求めたわけでもありません。世の中の人々がどこに目を向けているのかを冷静に受けとめるように、弟子たち一人ひとりを促したのです。「洗礼者ヨハネ」とは人々に神の正しさ、正しい行いをはっきりと示した人物です。その「洗礼者ヨハネ」と主イエスを重ね合わせている人々がいることを弟子たちは知っていました。また「エリヤ」は、偶像崇拝や異教の習慣に対して決して屈せず、イスラエルの民の純粋さを示し続けた預言者でした。その「エリヤ」と主イエスを重ね合わせている人々がいることを弟子たちは知っていました。「エレミヤ」は、イスラエル国家存亡の危機にあって弱さの中、屈辱の中に甘んじて自らを見出すべきことを預言者として示しました。その正しさは、歴史が証明していました。その「エレミヤ」と主イエスを重ね合わせている人々がいることを弟子たちは知っていました。いずれも決して低くない評価です。神のメッセージを携え、神によって遣わされた預言者たち。人々から見れば、すばらしい役割りを与えられた最大限の尊敬に値する評価がそこにあります。しかし、その人々の思いや願いをはるかに超えたお方、それが主イエスです。
「あなたはメシア、生ける神の子です」(16節)
この告白には、それほど大きな意味が込められています。そして、ペトロをその告白に導いたのは何なのかということについて、主イエスははっきりと語られました。
「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」(17節)
告白させてくださったお方がいらっしゃるから告白出来たのだ、そのお方とは神ご自身であると、主イエスははっきりとおっしゃいました。
「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」(1コリント11:3)とあるように、私たちに告白させてくださるのは、神ご自身であり、神と等しい聖霊なるお方に他なりません。
私たち一人ひとりの真実なる「告白」も、神ご自身がさせてくださいます。自分にそんな資格がない、自分はそんな告白に値しないと思うような時でさえ、自分の力を、自分の能力をはるかに超えた「告白」をさせてくださるのは、神ご自身に他なりません。
「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」とペトロに対しておっしゃった主イエスは、こう続けられました。
「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」(18節)
ただ神ご自身の御力によってなされたペトロの告白でした。そしてその告白をし続ける群れこそ「教会」なのです。しかも「わたしの教会」とあるように、主イエスご自身を頭(かしら)とした「キリストの体なる教会」に他なりません。その「告白し続ける群れ」には「陰府の力もこれに対抗できない。」というのです。「陰府の力」とは、「死」「虚無」をもって人々に恐れを抱かせ、闇の中に引きずり込もうとするような力です。その力に対して完全な勝利が約束されています。これはすばらしいことです。
現在、日本基督教団の教会の勢いは衰退の一途をたどっていると、信徒数などのデータは語っています。そんな教会に何ができるんだ、神の祝福からはずれてしまっているのではなかろうか、と不安に陥りそうになります。しかし、私たちが神ご自身の力によって告白し続け、その告白に生きるならば、恐れる必要はないと、主イエスの御言葉は告げています。
さらに主イエスは続けられました。
「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(19節)
今日のこの礼拝の中でも「主の祈り」を祈りました。その「主の祈り」は、
「天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ。」
という祈りの言葉で始まっています。地上にあって礼拝をささげている私たちが、天上のすばらしい交わりとつながっていることを確信させてくれる祈りの言葉です。
しかし、20節には次のように記されています。
「それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。」(20節)
そのようなすばらしい天上とのつながりが与えられるというのなら、多くの人々に声を大にして伝えてもよいのではないか、と思っても当然です。しかし、主イエスは禁じられたのです。その理由は、21節以下にあります。
「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」(21節)
21節に記されているこのこと抜きには、主イエスが地上にもたらそうとされていることが正しく受けとめられないことを、主イエスはご存知だったのです。「打ち明け始められた」とは、覆いを掛けられていたものが除かれて一つまた一つと明らかにされるように、心を込めてその大切なことを主イエスが語り始められたことを伝えています。エルサレムにおいて多くの苦しみを受け、殺され、三日目に復活する。メシア、神の子なら苦しみを受けて殺される必要など考えられない! ペトロの反応は至って当然のことです。しかし、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」(22節)と語るペトロに対して、主イエスはとても厳しい言葉を発せられました。それは、21節の主イエスの御言葉がいかに重要なものかを物語っています。
「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」(23節)
そして、続けられました。
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」(24~26節)
私たちは、いとも簡単に「神のことを思わず、人間のことを思っている。」という状態に落ち込んでしまう存在です。あのペトロでさえ、そうだったのです。しかし、だからもうあきらめましょうと主イエスはおっしゃいません。神の御心から離れ、ここでもいいじゃないかと安住しようとする一人ひとりに厳しく、しかもはっきりと一本の道があることをお示しになっていらっしゃいます。「ついて来たい」と思う者には、その道がある、鍵となるのは「自分を捨て、自分の十字架を背負って」なのだと語られました。自分の中には、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白し続ける力は、まったくないのだということを認めるところから、その道は始まっています。「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」と、すべては神ご自身の御力によるものだという、ペトロに示された原点に、私たちも立ち返る必要があります。そこに開かれてゆく道は、私たちにとって最も大切な「永遠の命」へとつながっています。「自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」あるように、私たちがどんなに自らの力で得ようとしても決して得られない、しかし、私たちすべてが、あずかるべき最も大切な「永遠の命」です。
主イエスは、さらに一つの「時」の存在について語られます。
「人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。」(27節)
世の終わりの時、世の完成の時、主イエスが再びいらっしゃる時(再臨の時)です。そして、次のように続けられました。
「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」(28節)
「決して死なない者」とは、「永遠の命」にあずかるがゆえに死なない者を指しているのでしょうか? それとも、自らの命に執着するがゆえに、自らの力で何とかなると意地を張り続ける者を指しているのでしょうか? すべての人が、世の終わりの時、世の完成の時、主イエスが再びいらっしゃる時に、全能の神の御前に立たされるのです。その時になって初めて、神があずからせようとしてくださっている「永遠の命」があると知るような生き方は、なんともったいないことか! と語っておられるのではないでしょうか。
この地上において「永遠の命」を喜ぶ生涯を、主イエスは、私たち一人ひとりにくださろうとしていらっしゃいます。そのために主イエスは、「受難と復活」を予告されたのです。