牧師 田村 博
2月23日降誕節第9主日礼拝 (2025年度 年間聖句による礼拝)
聖書 旧約 創世記1章1~5節 新約 ヨハネによる福音書12章27~36a節
説教題「光のあるうちに」
「光の子となるため、光のあるうちに、光を信じなさい。」(ヨハネ12:36a)
この聖句は、来る2025年度の一年間、心に留め続けて歩もうとしている御言葉です。この聖句を含む本日の聖書箇所の直前には、とても大切な主イエスの御言葉があります。
「イエスはこうお答えになった。『人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。…」(12:23~24)
その中でも「栄光を受ける時が来た。」は、特に私たちひとり一人にとって大きな意味のある御言葉です。なぜならば、主イエスがお受けになる「栄光」は、「一粒の麦が地に落ちて死ぬ」ことによって結ばれる「多くの実」とつながっており、その「実」とは、「永遠の命」という人生最高の「実」に他ならないからです。
特別な「時」の到来の宣言と共に、主イエスは力強く歩み始めるであろうと想像してもおかしくない流れがあるのですが、続く聖書箇所=本日の聖書箇所には、「力強さ」にふさわしくないような言葉が続いています。
「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」(12:27~28a)
共観福音書では、主イエスの捕縛、十字架の直前に、ゲッセマネの園での祈りが収められていますが、このヨハネによる福音書では、ゲッセマネの園での祈りに相当する箇所であるとも言われています。ここには主イエスの苦悩とも言えるような御言葉があります。神の御子であり神ご自身であられる主イエスゆえに、なぜ苦悩する必要があるのだろうか? と問いたくなってしまうかもしれません。しかし、これは主イエスが完全な神であられると同時に、完全な人であられるがゆえの苦悩なのです。
今、海外ではウクライナとロシアといった国同志の対立が頻発しています。アフリカ大陸の対立についてはあまり報道されていないですが、厳しい対立とその対立がもたらす混乱、飢餓が日常化しています。それらは、武力、経済力といった圧力、強さにより互いに相手よりも優位に立とうとするようなせめぎ合いの結果です。しかし、主イエスは「弱さ」の中に、ご自身の本当の強さと、ご自身の栄光をあらわされるお方なのです。
この主イエスの御言葉を受けて、天からの声が響き渡りました。
「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」(12:28)
ヨハネによる福音書の著者ヨハネは、その「天からの声」の意味を、しっかりと識別できました。ところが29節をみると、「そばにいた群衆」には「雷」の音としか聞こえなかったのです。「天使の声」と受け取った人々もいたことがわかります。
同じメッセージを聴いても、まったく異なるものとして受けとめるということは、私たちの主日公同礼拝においても普通に起こります。何が、この違いを生み出すのでしょうか。
主イエスは語られました。
「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。」(12:30)
主イエスは、父なる神様と完全に一つであられるゆえに、父なる神様の答えがなければ状況を理解できないということはありえないのです。天からの声が響き渡り、人々の理解の度合をはるかに超えた「時」の到来が告げられたのです。
31節から32節に3つのことが記されています。
- 「この世が裁かれる時」
- 「この世の支配者が追放される時」
- 「すべての人を自分のもとへ引き寄せる時」
主イエスは、完全に正しいお方です。その正しさを物差しにして、この地上のすべてのことは裁かれます。であるならば、早々にその物差しにて裁いてくださったらよいのに、と思われるかもしれません。そのような疑問が湧き上がる時、「毒麦のたとえ」は、適切なメッセージを届けてくれます。
「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」(マタイ13:24~30)
今、この瞬間、裁きをなさらないのは、いい加減でよいと思っていらっしゃるのではなく、主の裁きは完全であり、誤って抜いて捨てるようなことが決しておきてはならないという強い意志のあらわれなのです。
第二の「この世の支配」とは、「永遠の支配」の対極にあるものです。ローマ帝国の支配を例にあげるまでもなく、どんなに繁栄している「支配」でも、限度のある時間軸でのものに他なりません。主イエスが私たちにくださろうとしているのは、「永遠の」支配です。
そして、それは第三の「すべての人を自分のもとへ引き寄せる」ことによってもたらされるのです。それは「地上から上げられる」=「十字架の死」によって、すべての人に明らかにされているのです。「十字架の死」によって私たちに示されているのは、主イエスが十字架にかからなくても済むようにするために、私たちが清く、正しくなることではありません。私たちが、その方向を向き直ることです。十字架に向かって、私たちの生き方の方向を転換することです。ご自身の方を向き直る一人ひとりの、すべての人の「罪」「咎」「過ち」を、主イエスは、「私が代わってその代償を支払います」とおっしゃってくださるのです。私たちが幼稚園児だったとき、間違って石を投げて窓ガラスを割ってしまうようなことが起きたとしたら、そして、幼稚園の先生がその事実を親に告げた時、親は「その子が大きくなったときに自分で弁償します。」などと答えるでしょうか? 「私が支払います」と躊躇なく答えるでしょう。そのように、主イエスは、私たちの罪の代価を、その貴い命によって支払ってくださるのです。その事実、十字架の贖いの事実は、私たちを主イエスご自身のもとに引き寄せるのです。ここに救いがあります。
主イエスはおっしゃいました。
「わたしは世の光である。」(8:12)
そこには、まことの「世の光」でいらっしゃる主イエスの圧倒的な宣言があります。と同時に、主イエスは、私たちを「光の子」として招いてくださっています。「子」は、「親」と深いつながりがあります。いろいろな動物の生態をみると、そこには、まだまだ私たちのわからないことがたくさんあります。「子」は「親」の遺伝的要素を受け継ぎます。しかも、生まれながらにして引き継いでいるものもあれば、後天的に学習し、身に着けてゆくものもあります。本当に、不思議な世界です。
その不思議な世界を、明日もそのまま同じようにしてそのまま存在する、と受け取ることを良しとしません。「光のあるうちに」とその有限性に目を向けさせます。私たちを清めて、聖なるものとしてくださるお方がいらっしゃいます。聖霊です。聖霊は、私たちの体を「聖なるもの」として成長させてくださいます。「聖化」の歩みです。私たちは、物事を「明日から」と言って先延ばしにしがちです。それゆえ、「光のあるうちに」を心に常に刻みながら歩ませていただきたいものです。
そして、「光を信じなさい」と命じられています。「信じる」という言葉は、英語では「Believe in」です。外から観察して物事を判断するのとは異なる世界がここにあります。中に入って、初めて見えてくる景色があります。「in」の持つ意味をしっかりと受けとめましょう。