牧師 田村 博
「恐れることはない。ただ信じなさい。」
旧約 列王記下4:32~35 新約 マルコによる福音書 5:21~24、35~43
田 村 博
前回、マルコによる福音書をご一緒に開いたのは、10月11日のことでした。その次の主日は伝道礼拝として、その次の次の主日は教会創立98周年記念礼拝として他の聖書箇所を開き、先週11月2日は召天者記念礼拝として、それぞれ他の箇所を開いたので、およそ1か月ぶりにマルコによる福音書に戻ってきたことになります。
10月11日は、本日の箇所に挟まれた部分でした(25節から34節)。そこには、12年間出血が止まらないという病に悩まされていた一人の女性のことが記されていました。彼女は、多くの医者にかかって全財産を使い果たし、またユダヤ人のコミュニティの中でも「汚れた者」という扱いを受け、結婚や人並みの幸せからは程遠い人生を歩んでいました。その彼女が、主イエスの衣に後ろからそっと触れ、その瞬間、癒されたのです。この女性のみならず、主イエスと出会い、癒された出来事がたくさん聖書に収められています。おそらく記されていない出来事もたくさんあったことでしょう。
神の御子・主イエスなら、そのようなことはありえたのだろうな、と受け入れている方が多いことでしょう。現代でも、起こりうることかもしれないと、やんわりと受けとめていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。しかし、今日の聖書の箇所にあるような、死んでしまった人が生き返るなど、ちょっとにわかに受け入れ難いと思われる方が、もしかしたら少なからずいらっしゃるのではないでしょうか。
一時的に仮死状態になっていて、息を吹き返したというような出来事なら、今日でも稀に起こっています。シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」でも、ジュリエットは42時間仮死状態になる薬を服用し、一旦死んだふりをする場面があります。納骨堂に潜入したロミオは、仮死状態のジュリエットを見て死んだと勘違いして絶望して毒薬飲んで死んでしまうという有名な場面です。
2000年前のこの時も、実はそれに近いこと、すなわち一時的な仮死状態だったのではないだろうか、と考えてこのところをやり過ごすことが可能かもしれません。
しかし、本日の聖書箇所の並行箇所であるマタイによる福音書では、明らかに同じ出来事を伝えているのですが少し違っています。ヤイロが主イエスのところに出向いて、ひれ伏して言った言葉はこうだと伝えているのです。
「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」(マタイ9:18)
息を引きとって間もなくだったから、なんとかギリギリ蘇生することができたというレベルではないんだと伝えているのです。よりはっきりと、「死」に向かい合っているのです。
では、この出来事は、わたしたちに何を求めているのでしょうか。何に目を向けて、何をどう受け取ればよいと迫っているのでしょうか。
(1)神の御業があらわされようとするときそれを妨げようとするかのように見えることが起こりうる
本日の聖書箇所の最初の部分では、主イエスと弟子たちの周囲には「大勢の群衆」(5:21)がいたことがわかります。主イエスに押し迫るほどの群衆でした。その群衆の中にいたヤイロと主イエスたちのところに、ヤイロの家から人が遣わされ娘の死を伝えました。その様子をそばで聞いていた主イエスは、会堂長に「恐れることはない。ただ信じなさい」(5:36)と告げられ、同時に「ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。」(5:37)と記されています。12弟子のうちの残りの9人は、どうしたのでしょうか。おそらく、その場にとどまり、主イエスたちの周りに集まっていた群衆に向かい合い、人々の必要に耳を傾け、精一杯、自分たちにできることをしたと思います。さらに主イエスがヤイロの家に着くと、そこには、少女の死を嘆き悲しむ人々(親族、近隣住民を含む人々)がたくさんいました。しかし、主イエスはその人々を少女の部屋から退け、家族を父母の2人に絞り込みました。なぜ、主イエスは人々を絞り込んだのでしょうか。その理由は、わたしたちがいかに目に見えるものに支配されてしまうかということをご存知だったからです。福音書は、ガリラヤ湖の上を主イエスが歩かれた出来事を伝えています。マタイによる福音書では、その時ペトロが、自分も歩きたいと申し出、主イエスに許され、水の上を歩いたことを伝えています。しかし、同時に湖の上を吹く風を見て恐ろしくなり、沈みかけたのでした。主イエスだけを見つめているときには起こらなかった「疑い」が、周囲を見ることを通して引き起こされ、神の御業にあずかる恵みからペトロを妨げたのです。
この時も、人々の存在は、神の御業を妨げるものとなりかねなかったに違いありません。たとえそれが善意からくる言葉一つであったとしても、それらは退けられる必要があったのです。主イエスが徹底的に人数を絞り込んだことが、この聖書の箇所では、はっきりと記されています。
わたしたちも、神の御業にあずかろうとするとき、それを妨げようとするものがあるとするならば、それらを退けることが必要な場面と遭遇するかもしれません。そのような時、神は、あえて、様々なものを退け、わたしたちが1:1で集中して神と向かい合うことができるようにしてくださるのです。
(2)「少女よ」という本人への語りかけ
第二に心に留めたいことは、主イエスの御言葉の中にあります。
「そして、子供の手を取って、『タリタ、クム』と言われた。これは、『少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい』という意味である。」(5:41)
主イエスは、少女に向かって語りかけたのです。主イエスは、少女が聞いているとわかっていたのです。「タリタ、クム」が二つの単語で、日本語では三つの単語で訳されているので、どれがどれに対応しているのかわかりにくいかもしれません。アラム語(ヘブライ語との説もあり)の「タリタ、クム」は「少女よ、起きなさい」ですが、命令する形が用いられていて、主イエスが、少女に対して向かい合って1:1でしっかりと告げられたことをあらわすかたちとなっているがゆえに、このような日本語に訳しているのです。主イエスは、少女に向かって、はっきりと語りかけられました。主イエスの目から見れば少女は「眠っている」状態であり、主イエスの御声を聞くことができる状態だということをあらわしています。ヨハネによる福音書11章にはラザロをめぐる弟子たちと主イエスとの次のようなやり取りがあります。
「こうお話しになり、また、その後で言われた。『わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。』 弟子たちは、『主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう』と言った。イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。そこでイエスは、はっきりと言われた。『ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。』」(11:11~15)
主イエスは、ラザロの「死」を「眠り」と表現されました。それは、主イエスがラザロが死んだことを知らなかったからではありません。地上の「死」を認めつつも、神に覚えられ続けているのだという大切なことを告げられたのです。「死=聖なる眠り」と言ってもよいかもしれません。その意味で「死」は終わりではないのです。もし終わりであれば、主イエスは少女にこのように語りかけはしなかったでしょう。
(3)「12歳」への言及
第3に心に留めたいことは「12歳」が強調されていることです。
「少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。」(5:42)
ユダヤ教では、男の子は13歳、女の子は12歳で、ユダヤ教的「成人式」を迎えます。女の子の成人式を「バット・ミツヴァ」、男の子の成人式を「バー・ミツヴァ」といいますが、成人式を迎えると、「トーラー(律法)」の「ミツヴァ(戒律)」を守る責任を負うようになります。「バット」は、ヘブライ語で「娘」、「バー」は「息子」という意味ですので、「ミツヴァの娘」、「ミツヴァの息子」ということになります。その際にはパーティーが盛大に催され、結婚式のような豪華さだそうです。
聖書は何も伝えてはいませんが、ヤイロの娘は、急に病に罹ったのではなく、もしかしたら病弱で寝たり起きたりを繰り返していたのではないでしょうか。「12歳=成人」を迎えた時に、形ばかりお祝いをしたものの、他の人たちのように祝えなかったのかもしれません。ヤイロが主イエスの足もとにひれ伏して願った言葉は、「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」(5:23)でした。「幼い娘」という言葉は、少女のそれまでの歩み(成人したにもかかわらずそのように生きられていない歩み)のあらわれかもしれません。病ゆえに「12歳」としての歩みが出来ていなかったのではないでしょうか。その意味において、この「12」という数字は、12年間出血の止まらない病を負い続けた女性の「12」と重なります。そして、二人とも、主イエスとの出会いによってまったく変えられたのです。本来の、彼女たち自身の歩みが、この主イエスとの出会いによって始まったのです。43節に「食べ物を少女に与えるようにと言われた」とありますが、成人式の際にはできなかった喜びの食事がここから始まりました。
わたしたち一人ひとりにとっても、主イエスとの出会い・主イエスの御業との出会いこそ、本来の自分の生きざまのスタートとなるのです。
最後に主イエスは、「このことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ」(5:43)られました。主イエスは、この出来事を見聞きした者たちが、目に見える部分(死からの復活)だけにとらわれてしまうことを良しとされなかったのです。もちろん、主イエスには死人に命を与えることがお出来になります。しかし、それ以上に大切なことがあるのです。主イエスとの出会いによって、その人自身の生き様を生きることこそ、何よりも大切なことなのです。 (2025.11.9主日礼拝)
