牧師 田村 博
新年礼拝
2025.1.5
「エジプトへの逃避」
旧約:エレミヤ書31:15~17
新約:マタイによる福音書2:13~23
本日の新約聖書箇所のマタイ2章13~23節は、先週の2章1~12節とつながっています。主イエスがユダヤのベツレヘムでお生まれになったその時、東の国から占星術の学者たちが長い距離を旅してエルサレムを訪問しました。その目的は「ユダヤ人の王としてお生まれになった方を拝みに来た」というものでした。それを聞いて当時その地域をローマ帝国の影響のもので、一応「王」として認められていたヘロデは不安になります。民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めるほどのことですから、その不安の程度はかなりのものだったに違いありません。「見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と学者たちをベツレヘムに向かわせたヘロデですが、その心中は、すでにその命を奪い取って自分の「王」としての立場を守るためにはどうしたらよいかという思いで満たされていました。幼子イエスと無事相まみえることの出来た学者たちに、夢でお告げが与えられます。「ヘロデのところへ帰るな」と。彼らは別の道を通って、すなわちヘロデの待つエルサレムには立ち寄らず自分たちの国へ帰って行きました。
学者たちが東の国に去った後、その事実を知ったヘロデは、ベツレヘムとその周辺に住む2歳以下の男の子の命をことごとく奪いました。その虐殺をかいくぐるようにして主イエスは命をつなぎます。
1.「夢でヨセフに現れて」
マタイ、ルカの二つの福音書の主イエスの誕生の場面を見ると、どうしてもマリアの姿がまず目に止まります。本日の聖書箇所の直前の、学者たちがベツレヘムを訪れた場面でも「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。」(マタイ2:11)とあり、父ヨセフの名前がありません。天使による主イエスの誕生告知も、ヨセフではなくマリアに対してなされ(ルカ1:26~38)、ヨセフはその告知についてマリアから聞かされました(マタイ1:18~19)。野宿していた羊飼いたちが家畜小屋の飼い葉桶に寝かせられていた主イエスのもとを訪れたことを伝える場面でも、「しかしマリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。」(ルカ2:19)と伝えられています。その後の福音書全体を見ても、主イエスの公生涯開始(30歳ぐらいか)には、ヨセフはもう召されていたであろうことが察せられることもあり、どうしてもマリアばかりが目立ちます。しかし、冷静に聖書をじっくりと読むとヨセフも大切な役割りを担っていることがわかります。
「占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。『起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。』ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。」(マタイ2:13~15a)
主の天使が夢で語りかけた相手は、マリアではなくヨセフでした。マリアは役に立たないからヨセフを選んだというわけではありません。マリアは、幼子イエスの傍らで幼子を守ることに全神経を集中していたのでしょう。ヨセフは、夜中であるにもかかわらず、マリアも幼子もスヤスヤと寝息を立てて眠っていたにもかかわらず、ゆり動かして起こして移動を開始したのです。もし彼が夢の中の天使の言葉を信じなかったなら、従わなかったなら、幼子イエスは、ヘロデが送り込んだ「人」(マタイ2:16)によって亡き者とされていたことでしょう。
主は、マリアとヨセフをよきパートナーとして、絶妙のタイミングでそれぞれの役割りを担わせてくださいましいた。同じように、主は、わたしたち一人ひとりにも、それぞれその人でなくてはならない役割りをお与えくださいます。この新しい一年も、主ご自身のなさる方法とタイミングで、主はわたしたちにお語りくださいます。ヨセフが、「夢だから思い違いかもしれない」「夜遅くで眠いからもっと明るくなってからにしよう」などといった判断に陥らなかったように、わたしたちも自らの思いを優先させてしまうのではなく、主に従う者となりたいものです。
- 「エジプトに逃げ」
主の天使がヨセフに語りかけた言葉の中に「エジプトに逃げ」というひと言があります。さらに22、23a節には「しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。」とあり、「恐れ」「引きこもり」と彼らの行動について説明されています。
逃げることは決して恥ずかしいことではないのです。
ただし聖書は2種類の「逃げ」の存在を教えています。
一つは「神の前から逃げる」です。創世記3章には、食べてはいけないと命じられていた木の実を食べてしまったアダムとエバが、神が近づいてくる気配を感じて隠れたことが記されています。創造主なる神の臨在を喜びとできない、神の前にとどまれないことの原因は「罪」です。神への不従順です。それをそのままにしておくことを、主なる神は決して喜ばれません。かといって直ちに厳しく罰をもって迫るようなお方ではありません。創世記3章でも、そのような人間に対して「どこにいるのか?」と語りかけるお方として、はっきりと記されています。わからないから「どこにいるのか?」と尋ねられたのではありません。すべてをご存知であるにもかかわらず、わたしたちの応答を忍耐をもって待ってくださるのです。
もう一つの「逃げ」が、この場面のヨセフたちの「逃げ」です。神の命令により確信を与えられての出発です。15節と23節には、それぞれ旧約聖書の御言葉が引用されています。
「それは、『わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した』と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」(マタイ2:15←ホセア11:1)
「『彼はナザレの人と呼ばれる』と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。」(マタイ2:23←イザヤ11:1)
聖書の預言の成就であることがはっきりと示されています。ヨセフの決断、行動は、聖書の御言葉と共に生きることと直結していたのです。わたしたちが聖書の御言葉を読む目的は、確かに霊的な糧である御言葉にあずかることにあります。しかしそれだけではなく、わたしたち一人ひとりを通して神の御旨が、聖書の御言葉そのものが成就してゆくのです。
3.「激しく嘆き悲しむ声」
16節以下には、悲しく痛ましい出来事が伝えられています。当時のベツレヘムの人口は約1000人ほどだったと言われています。それから推察すると2歳以下の男の子は20人ほどだったかもしれません。ヘロデは、自らの立場が奪われるのではないかと疑い、その家族の何人もの命をも奪いました。こうと決めたら必ず果たそうとするような執着心を持っていたとの言われます。2歳以下の男の子を一人も逃さないように計算しつくされた手段が用いられたと考えられます。
昨年10月13日、世界中にガザで起きた一つのニュースが報じられました。ムハンマド・アブルクムサンという男のもとに双子の子どもが生まれたのですが、イスラエル軍の攻撃で死亡したというものでした。ムハンマド氏が出生証明書を取りに行き、戻ってみたら、妻と子どもたちが亡くなっていたのです。現場に駆けつけたムハンマド氏は、あまりの出来事にその場で失神してしまいました。その映像が世界中に流されたのです。
ヘロデによる虐殺という悲惨な出来事を伝えるマタイは、預言者エレミヤの言葉をその出来事と重ねて伝えています。
「主はこう言われる。ラマで声が聞こえる
苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。
ラケルが息子たちのゆえに泣いている。
彼女は慰めを拒む
息子たちはもういないのだから。」(エレミヤ31:15)
しかし、エレミヤ書には15節に続いて次の2節があります。
「主はこう言われる。
泣きやむがよい。
目から涙をぬぐいなさい。
あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。
息子たちは敵の国から帰って来る。
あなたの未来には希望がある、と主は言われる。
息子たちは自分の国に帰って来る。」( 〃 16,17)
これは、マタイがスペースの関係で省略したというわけではありません。エレミヤの預言は、バビロン捕囚からの解放というかたちで成就します。イスラエルの民にとって重要な出来事です。しかし、目に見える物理的な解放を越えたもう一つの解放があることを、マタイは、エレミヤ書の31章16,17節をあえて記さないことを通して伝えようとしているのではないでしょうか。それは、罪からの解放であり、死からの解放です。
主イエスの十字架の出来事を通して、罪からの解放が告げられようとしています。そして、主イエスの復活を通して、死からの解放が告げられようとしています。それは、わたしたちを通して告げ知らされようとしているのです。わたしたちが聖書の御言葉にあずかることの大切な意味がここにあります。新しい一年、特にわたしたちが自分にとって一番大切な時間を、主の御言葉にあずかるためにささげてみてはいかがでしょうか。「朝の15分があなたを変える。」という言葉があります。自分など信仰が弱くてとても…などと尻込みする必要はありません。自分の力ではどうしようもないこと、しかし、どうしても必要なことだからこそ、それを主は成就しようとされているのです。ご一緒に祈りつつ新しい一年を歩んでまいりましょう。