牧師 田村 博
2024.8.4
説教「世に打ち勝つ勝利」
旧約聖書 士師記6:13~40
新約聖書 ヨハネの手紙一 5:1~5
8月という月は、終戦(敗戦)記念日があり、広島・長崎の原爆投下日があり、「平和」について考えさせられる時です。日本基督教団でも、8月第1主日を「平和聖日」と定めています。しかし、世界に目を向けると、ウクライナとロシアの戦争は泥沼化しています。さらに、イスラエルとハマスやヒズボラとの関係は悪化し、ハマスやヒズボラを支援しているイランと、イスラエルの支援を明言しているアメリカとの直接的な戦争が勃発する危機が現実味を帯びてきています。
なぜ人は「戦争」と無縁に生きられないのでしょうか。あきらめるしかないのでしょうか。キリスト教国と言われ、聖書に手を置いて大統領の就任式をおこなう国でさえ、武器と力にものをいわせて振る舞うその様をみると、「信仰」さえ「平和」を実現するために無力なのではないかという疑念を持ってしまいそうになるかもしれません。
しかし、聖書は、はっきりと「あきらめるのは早い」「ここに道がある」と私たちに示しています。今日与えられたヨハネの手紙一の御言葉は、まさにその中の一つです。その御言葉を開く前に、旧約聖書の士師記の御言葉に心を向けてみたいと思います。6章11後半~12節には次のように記されています。
「その子ギデオンは、ミディアン人に奪われるのを免れるため、酒ぶねの中で小麦を打っていた。主の御使いは彼に現れて言った。『勇者よ、主はあなたと共におられます。』」
「酒ぶね」は、本来ぶどうの収穫という喜びの時に用いられるものです。この後士師の一人となるギデオンは、隣国ミディアン人によって収穫したての小麦を奪われないように、「酒ぶね」の中に身を小さくして作業していました。そのギデオンに対して神様は御使いを遣わして「勇者よ」と語りかけられました。おおよそ現状にそぐわない言葉です。しかもさらに「主はあなたと共におられます。」と語りかけられました。四方を敵に囲まれ、なすすべもなく身を低くしているような状況に置かれていたギデオンに「あきらめるのは早い」と道が開かれたのです。ギデオンは、主の御前に犠牲をささげました。主に向かって礼拝をささげたのです。その犠牲は、岩からの火で焼き尽くされました。彼の思いが受け入れられたことをあらわしています。ギデオンはそこに「主のための祭壇」を築きました。そしてそれを「平和の主」と名づけました。敵に囲まれて、自らの弱さしか見出せない状況の中で、語りかけられ、そこにまことの「平和」を見出したのです。目に見えるところを超えて、神様が与えてくださる「平和」があるのです。ギデオンは、自らの民の中にあった「アシェラ像」と「バアルの祭壇」を破壊しました。自らを敵よりも強くする方法を追及したのではなく、自らの目をまことの神様から離れさせていたものを取り除いたのです。さらに聖書は「しるし」を求めるギデオンの姿も伝えています。私たちもギデオンのように、神様の御言葉を受けつつも、心が揺れ動き、しるしを求める弱さを持っている存在かもしれません。神様は、ギデオンに「しるし」を与えてくださいました。私たちにも「しるし」を与えてくださいます。神様の「平和」にあずからせてくださるためです。
ヨハネの手紙一5章1~5節は、課題や問題に囲まれている私たち、キリスト教の教えの中には「平和」を実現する力が残っていないのではないかと疑いたくなるような私たちに対して、ここにこそ道が残されているのだということを教えてくれます。
5章1節は、次の御言葉で始まっています。
「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。」
「自分はクリスチャンです。イエス・キリストが救い主・メシア(神によって油を注がれてまことの王として遣わされた)であると信じます。」と告白する人は、「神から生まれた者」なのだというのです。私たちのうち誰一人として、自分はこの親の元に生まれようと自らの意志で決定して生まれたという人はいません。それと同じように、「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者」だというのです。確かに一人ひとりがそれぞれ、その人ならではの聖書との、教会との、福音との出会いを与えられ、その出会いをかけがえのないものとして受けとめ、ここに真実があると信じて、自らの意志と、自らの言葉をもって「信じます」と告白したはずです。しかし、ヨハネははっきりと「皆、神から生まれた者です。」と記しています。『神が生んでくださった』という事実が、そこに厳然とあるというのです。一人ひとりの告白は大切なものですが、同時にそこにこのような事実があるのです。私たちは、この事実をどれほど意識しているでしょうか。肉体的、生物的な誕生の場面を思い浮かべると、母の胎にその体、新しい命が形作られるという発生学的過程は、神秘としかいいようがありません。一つ一つに意味があり、目的があり、タイミングがあります。それと同様に、霊的な誕生(神から生まれた)においても、神ご自身が霊的な誕生のために心を注ぎ、御業を行ってくださっているのだというのです。しかもここには「皆」という言葉があります。一部の特別な人ではなく「皆」なのです。ここにいる「あなた」も、「私」も例外なく含まれているのです。
「自分」という存在を、肉的にも、霊的にも、生んでくださったお方がいらっしゃるということを気づかされる時、生んでくださったそのお方を「愛さずにはいられない」という気持ちが、私たちの喉の奥から湧き上がってきます。5章1節の御言葉も、
「そして、生んでくださった方を愛する人」
とつながっています。神様を愛せざるを得ないところに導かれてゆくのです。そして、その御言葉はさらに続いています。
「そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。」
「その方から生まれた者」とは誰を指しているのでしょうか。神様を信じている人、教会の中に共にいる人に限定されるのでしょうか。信仰が同じだと信頼しやすいと思うかもしれません。しかし、ここには、今現在という時に限定する言葉は一つもありません。神様が「生んでくださる」という御業を継続している限り、「壁」が築かれることなく広がってゆくのです。それゆえ、私たちが「この範囲において愛します」などとは決して言うことができないのです。そのことを、私たちはこの聖書の御言葉からしっかりと受けとめるべきです。神の御心は、すべての人に、すべての被造物に向けられています。今、敵対していても、1か月後、1年後には、まったく異なる人生を歩んでいる、まったく異なる感情を神様に向けているということが、世界中で起こることを、神は知っておられます。そして、それを願っておられるのです。私たち自身も、かつては神様に敵対し、あるいは、神様の愛に気づかずに歩んでいた一人ひとりだったのです。そこから神様が導き出し、「生んで」くださったのです。
続く2節は、この大切なことを別の表現を用いて記して強調しています。
「このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。」
「わたしたち」そして、「神の子供たち」と複数形が用いられています。ここに広がりがあります。さらに、ここに「掟を守る」という言葉が「愛する」という言葉に重ねて語られていることも重要な点です。「神様を愛する」ということは、わたしたちの内面の領域だけにとどまることではありません。精神的な、知的な、感情的な領域にとどまることではないことを、「その掟を守る」という言葉を重ね合わせることを通して伝えているのです。3節では、そのことを強調しています。
「神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。」(5:3)
「神を愛する」ことは、「神の掟を守る」という具体的な行動(かたち)としてあらわれるのです。国籍の違い、信仰の違い、生活習慣の違いなどは、「神の掟を守る」障壁にはなりません。
そのすべては、自分が「神から生まれた者」であるという一点から出発するのです。
しかも4、5節にはこう記されています。
「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」(5:4、5)
「神の掟」を「難しいもの」ではないと断言することができるのは、主イエス・キリストが、十字架、復活を通して、すでに「勝利」を地上にもたらしてくださったゆえです。しかも、そのご自身の「勝利」を、ご自身を告白する教会にくださっているのです。
5章1節と5節を並べてみると、あることに気づかされます。
「イエスがメシアであると信じる人」(1節)
「イエスが神の子であると信じる者」(5節)
主イエスについて「メシア」「神の子」という二つの告白が最初と最後になされています。
マタイによる福音書16章16節には、主イエスに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と尋ねられたシモン・ペトロの応答の御言葉があります。
それは、「あなたはメシア、生ける神の子です」でした。そのペトロの応答を受けて、主イエスは、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」(マタイ16:17~18)と、完全な勝利が、この告白をし続ける一人ひとりに、そしてその告白の群れである教会にあることをお示しになりました。
この箇所の並行箇所では、それぞれ微妙に異なる言葉となっています。
「あなたは、メシアです。」(マルコ8:29)
「神からのメシアです。」(ルカ9:20)
ヨハネの手紙一では、「メシア」「神の子」というマタイによる福音書が大切にした二つの告白を、しっかりと受けとめてこの箇所をまとめ上げています。ここに「世に打ち勝つ」まことの主イエスの勝利があるからです。
この勝利は、私たち一人ひとりが、「神から生まれた者」であるというところから出発し、神様を愛し、隣人に向かい合うときにもたらされる勝利です。ここに世の「憎しみ」の連鎖を断ち切る道があります。ここに世の「断絶」が癒され回復される道があります。