2024年5月19日 礼拝説教「わたしが霊を吹き込むと」

牧師 田村 博

2024.5.19

説教「わたしが霊を吹き込むと」

旧約聖書 エゼキエル書37:1~14

新約聖書 使徒言行録2:1~11

 聖霊降臨日(ペンテコステ)に、日本基督教団聖書日課によって与えられた箇所を、旧約聖書(エゼキエル書)を中心に、御言葉に耳を傾けてみたいと思います。この箇所は、預言者エゼキエルに与えられて「枯れた骨」の幻です。一度聞いたら忘れられないほど強烈な、印象的な箇所です。なぜ、このような幻を、主なる神はエゼキエルにお与えになったのでしょうか。また、わたしたちにとって、どんな意味があるのでしょうか。

(1)場所(=「ある谷の真ん中」)について

 まず、この幻の場所に注目してみたいと思います。「ある谷の真ん中」とあり、口語訳、フランシスコ会訳でも「谷」と訳されていました。しかし、聖書協会共同訳では「平野」、新改訳では「平地」と訳されています。「谷」というと、狭い土地を連想するかもしれませんが、そうではないのです。岩波訳ではその解説で「盆地状の場所」と説明して、とても広い平らなところを伝える言葉であることを示そうとしています。

 創世記13章にはアブラハムとロトの双方の家畜の数が増え、一緒に住むことができなくなる場面があります。そのときアブラハムはロトに「あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう。」(13:9)と言いました。その結果、ロトが選んだのは「ヨルダン川流域の低地一帯」でした。「平野」「低地」は、生活のしやすい、住みやすい場所です。ロトは、住みやすい方を選択したのです。確かに、始めは生活しやすかったことでしょう。しかし、やがて、ロトは、こんなはずじゃなかったという混乱に巻き込まれてゆきました。神様との活き活きとした関係とは正反対のような、闇の世界に身を置くことになってしまったのです。霊的に見れば、「枯れた骨」で一杯になったような環境です。わたしたちもしばしば、似たような経験をいたします。ただ、安逸を安楽を選び続けることには大きな危険があります。

 私の書棚に『荒野の泉』という一冊の本があります。神学生(3年生)のとき、鳥取県米子市に2週間ほど夏期伝道奉仕に派遣されたのですが、その時、当時の主任担任牧師からいただいた本で、主任牧師のサインが残っています。カウマン夫人の著書ですが、その第1頁には、こんな言葉があります。

「この地は山と谷のある所である。それはどこもみな平地ではなく、又どこもみな下り坂でない。…わたしたちは山と谷が必要である。山は多く産物を出す谷のために雨水を集める。わたしたちにとっても同じである。わたしたちを恵の座に駆り立てて祝福の夕立ちをもたらすものは山のような困難である。」

 山の厳しさを避けて、平地へ平地へといつの間にか物事を選んでしまうわたしたちかもしれません。ふと気づくと、枯れた骨で満たされているような虚しさと絶望のような状況の真ん中にポツンと取り残されているように感じるということは、誰にでも起こりうることです。困難に思える「山」。しかし「山」があるからこそ、雨水が集められ濾過され飲料水を生み出すのです。また、山に風が当たることによって生まれる上昇気流が雲を生み出し、恵みの雨をもたらすのです。

 主なる神様は、安逸・安楽ばかり選びとったがゆえに「こんなはずじゃなかった」というところにはまり込んでしまった者を、自業自得だと放り出したままにされるお方ではありません。そこにいのちの回復をもたらそうと臨んでくださるお方です。エゼキエルを遣わし、エゼキエルに幻を見せてくださった目的のひとつがそこにあります。

 それでは、どのようにしていのちの回復をもたらしてくださるというのでしょうか。

(2)「これらの骨は生き返ることができるか。」

 主なる神は、まずエゼキエルに「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」(3節)と語りかけられました。エゼキエルの答えは、「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」(〃)でした。言い換えれば自分にはわからないという表明です。それでもいいのです。それ以上に大切なことは、「枯れた骨」に目を向け、しっかりと向かい合うことでした。そこに主なる神との会話・対話が始まるのです。主なる神は続けます。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。」(4節)。もちろん「枯れた骨」に命はなく、聞く耳もありません。無駄以外のなにものでもないかのように思えることを、主なる神はエゼキエルに告げるのです。さらに告げられます。「これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」(5~6節)。「枯れた骨」をエゼキエルにどうにかせよというのではなく、「わたし」すなわち神様ご自身が「霊を吹き込む」というのです。「霊を吹き込む」と繰り返して強調されています。主なる神ご自身が御業をなさるのです。しかし、その御業が実現・成就するためにエゼキエルが必要なのです。主なる神の御言葉を受けとめ、無駄のように思えることにも思いきって一歩踏み出すようにと促しておられます。

 わたしたちも 神の言葉が宣言されることの大切さに心を留めたいと思います。そして、目に見えるところに落胆、あるいは一喜一憂するのではなく、自らに与えられている使命、自らの命が与えられていることの意味を信じたいと思います。

 さらに、6節が「生き返る」で終わっていないことも重要なポイントです。そこには「そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」とあります。「知る」とは、深い交わりをあらわす御言葉です。主なる神との深い交わりにこそ、わたしたちのまことの目標があります。

  

(3)二段階の御業(Ⓐ.7~8節、Ⓑ.10節)

 7節以下の記述は、9節の御言葉を挟んで、前後2段階に分かれています。

Ⓐ「わたしは命じられたように預言した。わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。」(7~8節)

Ⓑ「わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。」(10節)

 Ⓐ(7,8節)だけでも驚くべきことであり、常識ではありえないことです。エゼキエルも驚いたことでしょう。エゼキエルは、そこで止まってしまったと考えられます。

 それゆえ、9節の主なる神の御言葉が必要になったのです。

「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」(9節)

 わたしたちも、目に見える変化で満足してしまうというところに陥りがちです。エゼキエルが「その中に霊はなかった」という重大な「欠け」に、気づかずに立ち止まってしまったように、主なる神の御業の途中で満足してしまうということが起こりうるのです。

 2027年に創立百周年を迎えようとしている茅ヶ崎教会は、その歴史をさかのぼるとメソジストという教派によって福音の種を蒔かれて誕生した教会であることがわかります。メソジストを創設したのは、ジョン・ウェスレーという人物です。彼は18世紀の英国において社会を大きく変えるほどの働きをした牧師です。彼は大きな回心の経験をしています。回心をする2年前、彼はアメリカ伝道に出かけました。時は1736年。帆船による旅でした。その航海の途中、ひどい嵐に遭遇しました。その時ウェスレーは死の恐怖に襲われたそうです。ところが同じ船に乗っていたモラヴィア兄弟団というドイツのプロテスタントのクリスチャンの人たちは、ひどい嵐で船が木の葉のように揺れているにもかかわらず落ち着いて讃美歌を歌っていたそうです。驚いたウェスレーは、その中の一人に「あなたは怖くないんですか?」と尋ねました。すると「いいえ、神様に感謝しています。怖くありません。」と答えが返ってきたそうです。ウェスレーは大きな衝撃を受けました。自分には何か足りないものがあると強く感じたのでした。帰国後、1738年5月24日の夕べ、嫌々ながら参加したロンドン・アルダスゲイトの集会において、聖書の御言葉を通して、彼は福音的回心を経験しました。信仰義認の確証が与えられ、主イエス・キリストが自分の罪のために十字架で死んでくださり、罪の罰を受けてくださり、そして三日目に復活し、永遠のいのちを与えてくださったという強い確信が与えられたのです。その時から、彼の生涯は180度変わりました。その彼の働きは、メソジストの信仰復興運動として大きく前進し、現在では世界中で約8000万人に迫る教会として成長しています。

 わたしたちがもし、恵みの途上で立ち止まってしまっているとしたら、それはもったいないことです。立ち止まるということは、起こりうることです。エゼキエルでさえ、そうだったのですから何一つ恥じる必要はありません。大切なことは、そこで、もう一度、主なる神の御声を聴き、従うことです。

  

(4)「非常に大きな集団と」(10節)

 10節以下には、「イスラエルの地へ連れて行く」(12節)、「わたしが主であることを知るようになる」(13,14節)、「自分の土地に住まわせる」(14節)といった御言葉がちりばめられています。主なる神は、わたしたちを本来の生き方に立ち帰らせ、あるべき場所に導いてくださいます。使徒言行録2章8~11節には聖霊降臨日、ペンテコステの日に弟子たちに起きた聖霊降臨の出来事に立ち会った人々の証言があります。彼らは、自分の生まれ故郷の言葉で弟子たちが主なる神の偉大な御業を語り合っている様子を目の当たりにしました。そこには多くの地名のリストがあります。まったくバラバラだった自分たちであるにもかかわらず、その違い超えて一つにさせられるという、驚くべき世界がその時に実現したのです。聖霊が降されるとき、深い闇のような「墓」は開かれるのです。主なる神は、深い闇のような「墓」から引き上げることのおできになるお方です。そのお方が、わたしたちにも聖霊を臨ませ、立ち上がらせ、まことの命を生きるようにと、すでに御業を始めてくださっています。

   

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