牧師 田村 博
詩編23:1~6 ヨハネによる福音書 4:1~15
神保 望(日本聖書神学校・校長)
本日の聖書箇所は、サマリア地方で起こった出来事について記されています。主イエスが休息をとるために立ち寄られた町には、「ヤコブの井戸」がありました。このヤコブの井戸の傍らで主イエスは福音を語られたのですが、それを最初に聞いたのはサマリア出身の女性です。この場面設定には、読者には隠された民族的意味が込められています。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか。」この言葉は、ユダヤ人の血を引く主イエスとサマリア地方に生まれ育った女性との民族的確執があったことを連想させます。しかし意外にもそうした疑問を投げかけた女性自身は、水を欲した主イエスから「永遠の命に至る水をあなたに与える」と言われたことによって福音に与っており、この出来事以後はキリストを信じて生きる決断へと至っています。それは当時ユダヤ人とサマリア人の間にあった社会的障壁も、主イエスがもたらされた福音によって一気に乗り越えられた事実を伝えています。こうした喜ばしくまた希望に溢れた出来事に対して、聖書は一体何を私たちに伝えようとしているのでしょう。この問いへの明確な答えが得られますよう聖霊の導きを祈り求めつつ、御言葉の説き明かしとしての礼拝説教を通じて福音に込められた豊かな意味を、茅ヶ崎教会の皆様とご一緒に味わい知るひとときとしたく思います。
舞台となっているサマリア地方は、当時のユダヤ人にとっては歴史、宗教そして民族上特別な意味を持つとされていました。と言いますのも、イエス時代から時を遡ること数百年前までのサマリア地方は、北イスラエル王国の一部として栄えていました。サマリアを首都とする北イスラエル王国、エルサレムを首都とする南ユダ王国、旧約の時代、イスラエル王国は二つに分断されていました。これは、イスラエルの南北王朝時代と呼ばれるものです。しかし紀元前8世紀以降、二つの王国を取り巻く政治的・軍事的環境は大きく変化します。特にアッシリア帝国が力をつけるようになると、北イスラエル王国にまで勢力をのばしたことで戦争が勃発したのです。その結果は惨憺たるものであり、国力の差は歴然である上、軍事力においても劣勢に立たされた北イスラエル王国はアッシリア軍によって滅ぼされます。結果として首都サマリアにはアッシリアの異邦人が移り住んだのですが、ユダヤ人と異邦人との間で共生の道が模索されることとなり、サマリア地方はユダヤ人と異邦人の血を受け継ぐ人という意味のサマリア人が多数派となりました。そこで同族である北イスラエル王国が滅ぼされたことへの恨みからか、今度は南ユダ王国側の人々が異邦人によって様変わりしたサマリア地方をユダヤ教の律法が及ぶことも遵守することもない異邦人の地と化してしまったとして厳しく批判し次第に差別するようになりました。そして後にはサマリア人との交流をも拒絶するようになったのです。
マタイによる福音書10章5〜6節(新共同訳)には次のように記されています。「イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。『異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。』」これは、主イエスによる福音がまず初めにユダヤ人にもたらされ、続いて異邦人にもたらされた事実を示していますが、こうした主イエスの御言葉が紹介されたのもサマリア地方に伝えられた歴史的、宗教的、民族的な問題が複雑に絡み合ったからなのです。これはサマリア人に対する差別と偏見が人々の間にあった事実を示しており、そうした悲しむべき事実をも聖書は包み隠そうとはしません。キリストによってもたらされた福音は、世の差別と偏見の壁をもあっけなく乗り越えるものだからです。
本日の聖書箇所には、歴史的・宗教的・民族的問題があったため、ユダヤ人である主イエス一行がサマリア地方に立ち寄られたこと自体、サマリア人側からすると信じ難いものでした。しかし主イエスはそうした世の非常識の壁を乗り越えて歩まれたのであり、ここでもそうであったからこそ福音を信じることによって救いを得た人々との恵みに満ちた出会いが実現しているのです。こうした主イエスの生き様は、十字架による死と復活後登場した使徒パウロの言葉によって更に深く理解することが出来ます。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(コリントの信徒への手紙一1章18節・新共同訳)この御言葉から気づかされるのは、十字架刑が執行された時点で罪人の愚かさが表されるはずでありながら、主イエスの場合はそうではありませんでした。世の全ての罪人を贖うために、主イエスは罪なきお方であるにもかかわらず十字架刑によって殺されているからです。それは父なる神による救いをキリストの十字架の出来事を通して実現されたのであり、こうした神の真理を信じる者は神による救済の出来事が愚かな出来事ではなく、むしろ神による恩寵であると確信するのです。しかし「イエスを十字架につけろ」と叫んだ人々は、十字架の出来事の中に愚かさを見て取った結果、救い主が来られたにもかかわらず依然として「世に救いは無い」と誤解したのであり、こうした罪の現実は絶望感と虚無感とに満ちています。本日の聖書箇所では、こうした絶望感と虚無感とに支配されている世の状況をこそ、「渇いている」と表現しているのではないでしょうか。そして絶望感と虚無感に基づく人間の不信に対して真正面から応えられたお方こそ主イエス・キリストであり、このお方は「愚かな行為」と人々から揶揄されながらも父なる神により示された救いの実現へと続く苦難の道を歩み通されたのです。聖書ではキリストが歩み通された道をこそ、「十字架への道」と表現しています。ですからサマリア人女性の第一声である「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」との言葉には、十字架の出来事がユダヤ人からもサマリア人からも愚かであるとされた上に、民族的問題を背景とした複雑な事情があったことを聖書は暗に伝えているのです。
こうした民族的問題が背景にあったのに加えて更に問題を複雑化させているのは、キリストとの記念すべき出会いの場となった「ヤコブの井戸」でした。創世記33章19節によりますと、ユダヤ人の祖先であるヤコブが土地を購入して掘った井戸であるとされていることから、ユダヤ人が移り住む以前は異邦人の土地、そしてアッシリア軍によってこの地方が制圧されて以降はユダヤ人と異邦人の雑婚によって生じたサマリア人が住む世界へと変化していました。ですから「ヤコブの井戸」を巡って人々の間に生じた問題は、「この土地は一体誰のものなのか」ということであり、それはとりもなおさずユダヤ人と異邦人、そしてサマリア人との間に乗り越えることが困難な歴史的・宗教的・民族的分断と対立という社会的問題だったのです。しかし聖書は、この「ヤコブの井戸」を分断と対立の象徴ではなく、主イエスとサマリア人女性が出会い福音が語られた救いの象徴として登場させています。主イエスが来られた時、サマリア人女性との出会いの場とされたのがヤコブの井戸であったのは、単なる偶然であったのかというと決してそうではありません。何故ならここに登場するサマリア人女性と主イエス・キリスト、そして異邦人の町シカルとユダヤ人の祖先ヤコブが有した井戸に象徴される歴史的背景を持つ対立軸は、主イエスがもたらされた福音の御言葉によって一気に克服されているからです。そして民族的違いを越えた豊かな関係が回復され、再び一つにされるきっかけとなった分岐点こそ、「水を飲ませてください」との渇きを覚えられた主イエスの御言葉であり、それに懸命に応えようとしたサマリア人女性の「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」との救いを求める言葉だったのです。これはサマリア人のみならずユダヤ人にとっても、かつて栄華を誇った王国の再建以上に求めるべきものが「神の国」の到来であり完成であることを改めて気付かせる出来事となりましたし、長年に亘りユダヤ人と対立して来たサマリア人にとっては民族的違いやユダヤ教律法によって分断された関係が、父なる神が送られた御子の苦難の道としての十字架の死と永遠の命に生きる希望を確かなものとした復活の出来事を通して再び一つにされ、キリストを信じる者は誰であっても二度と渇くことのない永遠の命に生きる希望が与えられたのです。
主イエスが十字架にかけられ、敵の手により槍が突き立てられ御体が裂かれた時のことについて、聖書には次のように記されています。「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。」(ヨハネによる福音書19章28節・新共同訳)十字架上で絶命しかけた時、主イエスは「渇く」と言われたのには深い意味が込められています。それは「永遠に渇くことのない水を父なる神がお与え下さる」ことを主イエスご自身が知っておられたということであり、だからこそ主イエスは世の全ての渇く者(罪人)の身代わりとしてご自身の命が取られる程の渇きを十字架上でお引き受け下さったのです。そしてこうした救い主の犠牲によってこそ、私たちは二度と渇くことのない人生を歩むよう導かれています。「渇き」とは言っても、喉の渇きを癒すような一時的なものではありません。「永遠に渇くことがない」と主イエスが約束しておられることから、私たち人間にとっては霊的な渇きが癒されることであり、たとえ死に匹敵する程の苦難に遭遇したとしても霊的潤いに満たされた者は、絶望したり虚無的になったりはしないのです。むしろ虚無的な世の現実に対しては、生きる希望と喜びとを苦難の只中にあってなお示し続ける者へと変えられるのであり、主の証人として生きる者こそ「イエスは我らの主である」と公に信仰を告白し、洗礼を受けることによって決して渇くことのない水をくぐり抜け、新しい命をいただいた私たちキリスト者なのです。
現代社会の状況を省みてみますと、そこにも渇きの実態があります。巨大地震をはじめとする自然災害の出来事においては、回復の目処が立たず絶望感に打ちひしがれている被災者がおられることでしょう。ウクライナとロシアの戦争やパレスチナにおける長年に亘る争いにしてもそうですが、今もなお領土問題を巡る国家間の戦争や地域的紛争は絶えませんし民族間においても各地で激しい衝突が繰り返されており、和解の実現はかくも難しいと言わざるを得ません。また宗教間においても平和を実現すべく福音に基づく対話を試みながら、そこに政治的思惑が絡むようになると途端に信頼関係が壊れてしまい互いに反目し合います。そして世界経済においても地域的格差が増大しており、こうした渇きの問題は誰にとっても他人事ではなくなっています。渇きとはそれがいかなる理由によるものであれ深刻な被害をもたらすのであり、私たち人間は常に渇きが癒されるための何かを求めています。そして渇きの現実の只中に立つ教会は、社会的、霊的な渇きに対する癒しが何によってもたらされているのかとの問いに対する明確な答えを持っています。それは二度と渇くことのない水としての聖霊による洗礼へと導かれ、キリストの十字架の犠牲によって罪人が救われた実例として存在するのが、キリストの御体なる教会を構成する私たちキリスト者であるということです。ですから聖霊の働きを祈り願いつつも象徴としての水を用いて行われる洗礼式は、キリスト者にとって永遠に渇くことのない水を与えられることを意味しており、与えられた日々を信仰によって生きる者には誰であっても苦難の只中にあってなお決して渇くことのない希望が与えられます。洗礼を受けキリスト者として生きる者は、誰であってもサマリア地方のシカルの町で主イエス・キリストと出会い、「二度と渇くことのない、その水をください」と声に出して願ったサマリア人女性と同じ生き方に入れられているのです。
「主よ、その水をください。」私たちの切なる求めにお応え下さる神は、愛と憐れみをもって御子イエス・キリスト、そして聖霊を幾度でも送って下さいます。ですからそれは尽きることなく湧き出る恵みなのであり、求める者に対して主なる神は惜しみなく永遠の命に至る水をお与え下さいます。このことを信じる時、私たちも二度と渇くことがないばかりか、世の只中へと主の証人として派遣され福音を宣べ伝えることによって、出会った全ての人々を潤わせることが出来ます。ですから福音によって救われた人々の群れとしての教会や礼拝がささげられる所ではどこでも、ヤコブの井戸端で起きた出来事と何ら変わることのない恵みに満ちた体験が繰り返し与えられますし、茅ヶ崎教会にて礼拝生活を送っておられるお一人一人にも、永遠の命をお与え下さる主イエス・キリストが共におられるのです。そして渇く者の側に立たれ十字架上で罪人の重荷を担い身代わりの死をお引き受け下さった主イエスは、復活されたことによって様々な理由から渇きに苦しむ私たちを永遠の命の水で満たし救って下さいます。我らと共におられる神(インマヌエル)として来られた主イエス・キリストを信じる信仰に生きる者は、誰であっても決して渇くことのない永遠の命に生きる者とされています。祈ります。
(2024年10月13日主日公同礼拝)