牧師 田村 博
2023.7.2
■「七つの封印で封じられていた巻物」
(新約 ヨハネの黙示録5:1~5 旧約 ダニエル書12:1~4)
先週の主日礼拝の聖書箇所・ヨハネの黙示録4章6節後半から11節には、「四つの生き物」が登場しました。その「四つの生き物」は、「前にも後にも一面に目」(6節)があり、それぞれ「六つの翼」(8節)があり、その翼の周りにも内側にも「一面に目」(〃)があったと記されていました。本日の箇所に登場する、「表にも裏にも字が書いて」ある「巻物」といい、その表現に、わけが分からないぞ…、ついていけないぞ…と思われるかもしれません。しかし、4章1節から6節前半をしっかりと受けとめた上で、これらの箇所に向かい合うと、難解なことは何一つないことに気づかされます。
このヨハネの黙示録の著者ヨハネは、パトモスという島に幽閉されていました。明日の命も保障されず、孤独の中に閉じ込められていたヨハネでしたが、主なる神様は、彼を決してお見捨てになってはいませんでした。4章1節をご覧ください。
「その後、わたしが見ていると、見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパが響くようにわたしに語りかけるのが聞こえた、あの最初の声が言った。『ここへ上って来い。この後必ず起こることをあなたに示そう。』」
主なる神様は、幻と声、その両方をもって、決してお見捨てになっていないことをはっきりとお伝えくださいました。
ヨハネがまず目の当たりにしたのは、「天の玉座」とそこに座っておられるお方=すなわち神様ご自身でした。もちろん、被造物のひとつのようにして創造主なる神様の御姿を見たわけではありません。それゆえ「~~のような」という言葉が繰り返されています。
「天の玉座」から降り注ぐ光は、この地上に存在するものを用いて語るならば、不思議なあたたかい光を発する宝石のような光でした。かつてイスラエルの人々は、エルサレムの神殿で大祭司の胸当てに12の宝石がはめ込まれているのを目にしていました。その宝石は、大祭司の権威を高めるためにあったのではなく、神様の栄光を指し示そうとしていたものだったのでしょう。そのことを、ヨハネはこの瞬間、はっきりと悟ったに違いありません。もちろん、その宝石より、はるかにすばらしい光だったことでしょう。
その玉座の周りには、「二十四の座があって、それらの座の上には白い衣を着て、頭に金の冠をかぶった二十四人の長老が座って」いました。24というのは12の2倍です。旧約・イスラエルの12部族、新約・十二使徒が、そろって神様の前に招かれていることをあらわしているのでしょう。「白い衣」とは、主イエスの血できよめられた「衣」です。「金の冠」とは、地上でのさまざまな迫害、戦いに勝利したしるしとしての冠です。これらの視覚的なしるしに加えて、玉座からは、「稲妻、さまざまな音、雷が起こった。」とあります。世の終わり、すべてが完成される「時」に向けて、その「時」が進みゆこうとしていることをあらわしています。さらに、「また、玉座の前には、七つのともし火が燃えていた。これは神の七つの霊である。」とあります。御前に繰り広げられるそのすべてを、決して見放したり、見捨てたりなさらない、すなわち神の霊が包み込んでくださるということが「七つのともし火=神の七つの霊」を通して示されています。そして最後に(5つ目に)記されているのが、次の幻です。
「また、玉座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。」
驚異的な透明度を保つ、透き通った「水晶に似たガラスの海」があらわしているのは、神さまが、その玉座から、すべてのものをご覧になっているという事実です。暗やみに隠れてコソコソとなされる企みがあったとしても、主の目の届かないものは何一つないのです。
このような玉座は、ヨハネがただ眺めてうっとりとするために示されたのではありません。そのことを示しているのが「四つの生き物」の存在です。英語では「four living creatures」です。
「四つの生き物」がいる場所について、「玉座の中央とその周り」と言われています。玉座の中央とは、そこに座っておられるお方、すなわち神様ご自身の臨在と重なっています。つまり、この「四つの生き物」は、主なる神様御自身、24人の長老、などが位置しているところに自由に、living(生き生きと)そこを駆け巡っている、自由に行き来しているというのです。
この「四つの生き物」について繰り返されている特徴は、その全身が目に覆われていることです。「目」は、ものを見るためのものです。その「四つの生き物」を通して、すべてのものを見るという「つながり」がそこに存在することをあらわしているのです。言い換えれば、「四つの生き物」は、その「四つの生き物」で完結しているのではなく、他のすべてのものとつながっているのです。
その「四つの生き物」の特徴は、さらに7節に続きます。
「獅子」=「ライオン」 地上の野獣のうちのもっとも強い存在です。
「若い雄牛」 地上の家畜のうちのもっとも強い存在です。
「人間」 人間そのものです。
「空を飛ぶ鷲」 空を自由に飛び回る鳥のうちもっとも強い存在です。
つまり、この四つをもって、地上の被造物すべてをあらわしているといってよいでしょう。人間も、そして人間の営みもその中にあって、このつながりを形づくっているのです。
代々の教会は、この「四つの生き物」は、四つの福音書をあらわしているとも解釈してきました。確かに、四つの福音書こそ、わたしたちをこの地上で主なる神との生き生きとしたつながりの中で命の営みを継続させ、生かすための、まことの光をもたらします。
「玉座の中央とその周り」において、この「四つの生き物」が「玉座におられる方」を賛美するとき、すでに「二十四の座」についていた「長老」たちも、心をあらためて打ち震わせるようにして賛美をささげました。それは、まさに地響きのように地から湧き上がり、天に向けてささげられる礼拝だったに違いありません。
この「天の玉座」の幻がヨハネに示された目的は、4章1節の、「この後必ず起こることをあなた(ヨハネ)に示そう。」の御言葉にしっかりと刻まれています。
5章1節からは、「この後必ず起こること」の具体的な出来事が、いよいよ明らかにされるのです。
「またわたしは、玉座に座っておられる方の右の手に巻物があるのを見た。表にも裏にも字が書いてあり、七つの封印で封じられていた。」(5:1)
「この後必ず起こること」が「七つの封印」が一つずつ「開かれる」というかたちで明らかにされてゆくのです。
その出来事に目を向ける前に、まず、「玉座に座っておられる方の右の手」にある「巻物」が「七つの封印で封じられていた」ことについて考えてみたいと思います。
「封印」されているもの、しかも「七つの」とあるのだから、厳重にしっかりと封をされていることは間違いありません。「封印」と聞いて、真っ先に思い浮かべるものは何でしょうか? 「現金書留」を使う時、2重の封筒をしっかり糊付けして封印を押します。あるいは、土地権利書などの重要書類を思い浮かべた方もいらっしゃるかもしれません。
イスラエルの民の生活では、土地に関する考え方は少し異なります。その当時、イスラエルの民にとって、約束の地で与えられた土地は、神によって委ねられた嗣業でした。気軽に売買することなど、許されていなかったのです。何らかの理由で負債をかかえ、土地の所有権を相手方に渡すこと以外にどうしても方法がない場合、負債の支払いが完了するまで封をしたままにし、完了した時に、封を開き、その負債を無効にしました。
ここに出てくる「封印された巻物」には、その負債が記されていると考えてよいのではないでしょうか。誰かが、贖って、その代価を支払って、あるいは支払うことを確実にして、初めて開くことができるのです。
2節には「一人の力強い天使」なるものが登場します。天使は、玉座にいますお方(=創造主なる唯一の神)の御心を行なうために遣わされる存在です。また、天使は、人間とまったく等しいような自由意志を持つ存在ではないゆえ、勝手な判断で、そのような声を上げたのではないでしょう。誰にでもそう簡単に上げられる声ではなく神様ご自身から何らかの「力」を与えられてようやく声を発したという状況をあらわしているのかもしれません。
その封印を開けるということは、そこで開示される負債のすべてについての責任を負うことをあらわしています。そのような責任を負えるような存在について3節、4節にはっきりと繰り返して記されています。
「しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開くことのできる者、見ることのできる者は、だれもいなかった。この巻物を開くにも、見るにも、ふさわしい者がだれも見当たらなかったので、わたしは激しく泣いていた。」
いかに重く、大きな負債だったかがわかります。
その巻物には、七つの封印で封じられている以外のもう一つの特徴がありました。それは、「表にも裏にも字が書いてある」(1節)というものでした。それは、表にも裏にも目がある(4章)とはまったく異なります。「字」が書いてあることの意味については、いろいろと、こうではないか、ああではないかと考えられています。「聖書」をあらわしているのでは? あるいは「神の審判」をあらわしているのでは? といった説もあります。しかし、このあとのつながり、またその前とのつながりを考えると、どれもすっきりとしません。むしろ、「人間の業」をあらわしていると考えたほうがよいのではないでしょうか。「字」を書くのは、被造物の中で人間のみが授かった賜物といってよいでしょう。チンパンジー、ゴリラなどは、一部の「字」を識別可能であることが実験の結果分かっています。しかし、書くことはできないのです。ときどき、像が鼻に筆をもって字?や絵?を書いたりしている姿がテレビで放映されますが、あれは、自覚的に字を書いているのではありません。
人間は、字を書くという大切な能力を失おう(放棄しよう)としているのではとフト思うことがあります。AI技術を利用して、単なる文字データの並び変えと人間の満足度を優先させてしまって、「字を書く」という神さまから授かったせっかくの能力を置き換えようとしているように思えます。気をつけなければならない時代に、わたしたちは今生きています。
人間の業は、多くの負債を生み出し、封をしておかなければ生きられないほどの危険と隣り合わせに膨らんでいるのではないでしょうか。封をした中に閉じ込め、そして、誰も負いきれないほどのものとなっているのではないでしょうか。
その現実を前にして、ヨハネは、「激しく泣いて」いました。
しかし、5節をご覧ください。
「すると、長老の一人がわたしに言った。『泣くな。見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる。』」
主イエスは、地上の系図・肉のつながりによるならば、12部族の中の「ユダ族」です(マタイ1:2~3)。
「ダビデのひこばえ」とは、エッサイの子ダビデを通して成就されようとしていた約束を指し示しています(イザヤ11:1以下)。
「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち
その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。
彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。」
それは、預言者イザヤを通して語られた、やがて救い主=メシアがいらっしゃるという約束で、明らかに主イエスを指し示しています。
誰一人として解くことのできない封印、誰一人として背負うことのできない責任、誰一人として封を開けるために清算することのできない負債があります。しかし、唯一、それをできるお方=主イエスがいらっしゃるのです。そして、玉座のまわりにいた24人の長老たちのうちの一人が、主イエスの「勝利」、十字架の「勝利」の証人として証言をしたのです。24人の長老たちにしても、主イエスが負われたものの大きさすべてを知っているわけではないでしょう。自分がなぜそこに座しているのか、それは、主イエスが十字架の上で勝利されたからだということを知っていた一人でした。それゆえ、「誰も封を解くことのできない」という嘆きの声を聞いた時、促され、主イエスの「勝利」が完全であることを、勇気をもって断言したのです。
わたしたちも、主イエスの負われた重荷がいかに大きなものか、その何万分の一も、何億分の一もわかっていない者です。そして、その封が開かれるならば、重荷を負うことの苦しみを目の当たりにすることになります。それは、わたしたちにとっても苦しいことに違いありません。平然とそこで眺めていられないでしょう。個人の救いというレベルにおいても、主イエスが「わたし」のために負ってくださった負債を目の前に広げられたならば、平然とそこにとどまり続けることができないかもしれません。痛みをあらためて感じるかもしれません。しかし、向かい合うのが嫌だから封をしたままにしておこうという道を選ぶのではなく、24人の長老たちの一人が勇気をもって証しをしたように、わたしたちも証しをしたいと思います。わたしたちが勇気をもって証しをするとき、主イエスはお語りくださるでしょう。「大丈夫だよ。その重荷を負うためにわたしは十字架にかかったのだから。」と。やさしいまなざしを向けながら。
この後、封印が解かれてゆきます。闘いの場面があったあり、苦しみ嘆く場面が出てきます。なぜ、「この後必ず起こること」の中に、このようなことが含まれているのだろうか? と戸惑うかもしれません。その場面だけ眺めていては訳が分からなくなってしまうかもしれません。しかし、4章からの大きな流れをしっかりと心に刻み、重荷に正面から向かい合い負ってくださるお方がその封を開いてくださったのだ、その負債を清算してくださったのだということを心に刻み続けたいと思います。その時、大きな励ましと気づきが与えられるはずです。