2023年5月14日礼拝説教「続・聖書の中の宝④『祈り』」

牧師 田村 博

2023.5.14

■「続・聖書の中の宝 ④『祈り』」

 (新約 使徒言行録1:12~14  旧約 創世記18:22~33)

 本日は、母の日として覚えられている日です。ある人が、教会で母の日を覚えて祈りをあわせている様子を見て、「教会でも母の日を祝うのですね!」と言いました。実は、母の日のルーツをたどってゆくと、母の日は教会でスタートしていることがわかります。アメリカの小さなメソジスト教会で40年近く日曜学校の先生をしていたクレア・ジャーヴィスという婦人がいました。彼女は1905年5月9日に召されたのですが、彼女の娘であるアンナ・ジャーヴィスが、敬愛していた母の記念として、毎年、その日に近い日曜日にカーネーションをささげました。アメリカの小さな一つの教会で行なわれたことが、全世界に広がり、日本にいるわたしたちも覚えるに至っているのです。

 先ほど朗読していただいた使徒言行録1章14節にも「イエスの母マリア」という言葉がありました。主イエスの母マリアは、主イエスの弟子たちと共にいました。彼らの「主」であるイエス・キリストは、十字架にかかられましたが復活されました。そして天にあげられたのですが、今度は、「聖霊が降るまで待っていなさい」と勧められたのです。そこで、彼らは「祈って」いました。その祈りの交わりの中に、主イエスの母マリアもいたと聖書は伝えています。そして共に祈っていたのです。

 本日は、「続・聖書の中の宝」シリーズの4番目として、「祈り」を取り上げてみたいと思います。

(1)誰に対して祈るのか

 キリストの教会に限らず、わたしたちの身の回りには「祈り」があります。お寺でも、神社でも、イスラム教の寺院でも、ヒンズー教の寺院でも、世界中の古今東西問わず「祈り」がささげられています。では、誰に対して祈っているのでしょうか。祈ると何となく心が落ち着いていい、ということがあるかもしれません。確かに日常の喧騒から離れ、無の境地で心を静めることは精神衛生上決してマイナスにはならないでしょう。無意味ではありませんが、誰に対して祈っているのかという点が、とても大切です。

 わたしたちは皆、「祈り」という宝ものを与えられており、聖書にはその「祈り」がしばしば登場します。わたしたちが本当に意味のある「祈り」を祈るために、「祈り」をわたしたちそれぞれの人生の「まことの宝」とするために、「誰に対して祈るのか」という点をスキップすることはできません。なぜならば「鰯の頭も信心から」という言葉もあるように、何か目に見えるものを前にして祈るということも十分に起こりうるからです。聖書は、わたしたちがその祈りを無駄にしないために、わたしたちが誰に対して祈るべきかについてはっきりと語っています。本日、旧約聖書の創世記18章を読んでいただきましたが、その創世記の1章に「誰に対して祈るべきか」を知ることのできる御言葉があります。創世記1章には、天地創造の御業が記されています。

「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。」(創世記1:1~5)

 創造の御業の第一声は、「光あれ。」でした。「混沌」「闇」に満ちた状態に「光」をもたらし、「秩序」がもたらされました。それに続いて、「水」「天の光」…「植物」「動物」と、次から次へと創造されています。わたしたちが「神様!」と祈るとき、その「神様」というお方は、天地万物を創造された方なのです。わたしたち一人ひとりの命を造ってくださったお方なのです。正確に言えば、わたしたちを創造し、生かしてくださっているお方を、わたしたちが「神様」とお呼びしているのです。つまり、「造られたもの」=「被造物」を「神様」と呼ぶのではなく、あくまでも、すべてを造ってくださったお方を「神様」と呼んでいるのです。英語では「GOD」「LORD」です。言語によって発音は違い、何と名付けてもよいのですが、大切なことは、「造られたものを神様と呼ぶのではなく、造ってくださったお方を神様と呼ぶ」ということです。

 本日は、詳しく解説しませんが、1日目、2日目、3日目、4日目、5日目、6日目、7日目とつながっていることがきわめて重要です。バラバラに、独立したものとして、造られているのではないのです。それぞれが、自分のことしか思わないような、個々がそれぞれで完結した存在として造られたのではないのです。この「日数」は、わたしたちの日々の「一日」というスケールを意味しているのではありません。被造物それぞれには「命のつながり」があるということ示しているのです。

 わたしたちが、わたしたちを創造してくださったお方に対して「神様!」と祈るとき、その「祈り」は、わたしたちそれぞれの人生の中で、「宝物」のようにキラリと輝き始めるのです。そして、その中で、自分は一人ではない、孤独ではない、命のつながりが与えられているのだということを体験できるのです。

 礼拝堂という空間で、今、生かされているわたしたちですが、もしこの空間を密封してしまい、空間を最小にしてしまい、外との空気の流れを遮断してしまったとすれば、まもなく酸素が足りなくなり呼吸を続けられません。しかし、わたしたちが造った酸素ではなく、道ばたや山にある緑の植物が造った酸素ゆえに、わたしたちは窒息することなく生きることができているのです。わたしたちは「命のつながり」なしには生きられない存在なのです。その「つながり」を与えてくださっているお方こそ「神様」であり、わたしたちが祈る対象です。このことはとても大切なことです。

(2)マンツーマンの絆(きずな)の中での祈り

 創世記の2章に進むとそこには、最初に造られた人間と神様との関係が記されています。

 

「主なる神は人に命じて言われた。『園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。』」(創世記2:16~17)

 人間を造ってくださった神様は、造りっぱなしで終わりではなく、人間に語りかけ、人間との対話をなさるお方なのです。この語りかけに対して、この最初の人間は、喜びの中で応答したことでしょう。このような「マンツーマンの絆」を与えてくださっているのが「神様」です。わたしたちが、この「絆」を意識して祈るとき、わたしたちの人生の中で「祈り」は宝物となります。

 確かに創世記3章まで読み進めると、人間の不完全さが浮かび上がってまいります。「決して食べてはならない」という御言葉を、人間は、誘惑ゆえに守れないのです。いや、守らないのです。人間を創造され、生かしてくださっているお方は、完全なお方です。その完全なお方とわたしたちが向かい合うときに、見えてくるのは自分の不完全さです。しかし、不完全ゆえにそのつながりをただちに破棄されるではありません。そこから何とかして対話を続け、「マンツーマンの絆」を保とうとしてくださる神様のお姿がはっきりとあらわれているのが、創世記18章です。22節には、「アブラハムはなお、主の御前にいた。」とあります。主のみ使いがソドムとゴモラの町に向かって出発したとき、アブラハムは、「主の御前にいた」のです。自分にできることはないのだろうかと神様に対して語った言葉、アブラハムの祈りの言葉がここに記されているのです。主のみ使いが向かっていったソドムという町には、自分の親族・甥であるロトとその家族が住んでいました。その町が滅ぼされようとしていたのです。何とかして彼らを救い出すことはできないだろうかとアブラハムは考えました。その町がモラル的に乱れている様子は噂としてアブラハムの耳に入っていたことでしょう。人々がその過ちに気づいて行動をあらためることはできないのだろうかという思いがアブラハムにあったかもしれません。そのような状況を前にアブラハムは行動します。

「アブラハムは進み出て言った。」(創世記18:23)

 アブラハムは、神様の前に、すがりつくような思いで「祈った」のです。

「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。」(創世記18:23~25)

 ここにはアブラハムの神様に対する深い信頼があります。自分を造ってくださり、目には見えないが、自分を生かし続けてくださっているお方への告白です。そのアブラハムに対して、主なる神様はお答えになりました。

「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」(創世記18:26)

 神様は、モラル的に退廃していたその町の存続は、正しい神様からご覧になって「痛み」に他なりません。しかし痛みをもちつつ「赦そう」とおっしゃったのです。立ち返るための猶予を与えようとされました。アブラハムによって、50人から45人、40人、30人、20人、10人…と、バナナのたたき売りのような交渉がなされました。これはアブラハムの「祈り」です。アブラハムの「祈り」一言一言に、神様はお応えくださっています。ここには「マンツーマンの絆」があります。

(3)「律法」を通しての祈り

 アブラハムの「マンツーマンの絆」を通しての祈りは、「律法」を通しての祈りにつながっています。聖書をさらに読み進めてゆくと、モーセという人物が登場します。モーセは、神様から、あの有名な「十戒」を授かった人です。さらにこの「十戒」を骨格とした「律法」が与えられます。「憲法」は人と人の関係に秩序を築く上で重要ですが、「律法」は、神の御言葉である「十戒」を土台にすえた「憲法」のようなものです。各国の憲法は時代とともに変わってゆくものかもしれませんが、イスラエルの民にとって、「十戒」「律法」は、決して変わらないものでした。

 「律法」全体を詳しく説明しませんが、「律法」を貫くようにしてあるものの一つに「犠牲(いけにえ)」があります。モーセがエジプトの地を脱出して約束の地に向かって歩み始めるとき、一つの出来事がありました。イスラエルの民は、それを「過越祭」として、ずっと大切にしてきました。「過越祭」の大切な要素に、小羊を屠り、その血を家の入口の柱と鴨居に塗るという行為があります。その小羊を料理して食し、祈りをささげました。そのすべては詳細にわたって、律法の中に記されています。わたしたちの日常生活と重ね合わせて想像してみると、一歩引いてしまうような行為かもしれません。イスラエルの民にとっても、それは決して安易にできる行為ではありませんでした。小羊を屠ることは簡単なことではありません。大切に育てている羊です。その羊を屠らなければならないということには大きな痛みが伴いました。その痛みを、早く忘れるというのではなく、逆に柱と鴨居に、もっとも目立つところに塗るのです。何と大きな痛みだったことでしょう。なぜ、神様はモーセにそのようなことをするように命じられたのでしょうか。そこには大きな意味がありました。新約聖書に至って、屠られた小羊とは、イエス・キリストを指し示していることに気づかされます。すべての人のために十字架の上に、命をおささげくださった主イエス・キリストは、神の小羊と呼ばれているのです。主イエス・キリストは、十字架におかかりになり、命をささげられました。これ以上ないほどの「痛み」がそこにあります。その「痛み」は、「主イエスを十字架につけた人を一生忘れないぞ」と覚えさせるための「痛み」ではありません。主イエスは、わたしたち一人ひとりが、まことに神様との交わりを回復するために、そしてマンツーマンの絆の中に生きるために、貴い命をおささげくださったのです。本来ならば、わたしたちが自分自身で負わなければならないさまざまな罪、咎のための主イエスの犠牲です。その血潮ゆえに、わたしたちは神様の裁きを過ぎ越すことができるのです。

 主イエスは、神の小羊となってくださったのみならず、復活され、今も生きておられ、わたしたちのために執り成し祈っていてくださいます。

「しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」(:ヘブライ7:24~25)

 この主イエス・キリストの執り成しの祈りゆえに、わたしたちの「祈り」は、この主イエスの祈りの中にある、主イエスの祈りに包まれた「祈り」となるのです。わたしたちには、このような「祈り」という宝ものが与えらえています。その前を通り過ぎてしまうのではなく、その恵みにあずかりたいものです。

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