2023年11月5日 礼拝説教「永遠の命に至る食べ物」

牧師 田村 博

2023.11.5

説教「永遠の命に至る食べ物」

旧約聖書 出エジプト記16:13~15

新約聖書 ヨハネによる福音書6:24~33

 召天者記念礼拝にあたり、茅ヶ崎教会に関わる先に召された兄姉の名前を司会者に読み上げていただきました。教会員としては115名、牧師および牧師夫人9名、客員9名、教会が責任をもって葬儀を行なった方4名(ただし2007年以降のみ)のお名前です。今、名前は読み上げられなかったけれども、ご家族、知人、友人の面影を、胸の中に思い浮かべていらっしゃる方々がいらっしゃることでしょう。主なる神様は、その一人ひとりの思いをもご存じでいらっしゃいます。

 キリスト教会では、多くの場合、年に一度、召天者記念礼拝を行なっています。茅ヶ崎教会では、11月第1主日を召天者記念礼拝として定めていますが、この11月第1主日は広く「聖徒の日」として覚えられている日です。「聖徒」といっても、その生涯を聖く、正しく、一点の過ちもなく過ごした特別な人々という意味ではありません。神様との出会いの中で、神様によって罪を赦され、清められ、神様の前に立つことができるようにさせられている人々、そのような恵みの中で生きる幸いを与えられた人々を指しています。何ゆえに聖とされ、清められるのでしょうか。先ほど名前を呼ばれた一人ひとりは、神様とのそれぞれの出会いの中で、神様のものとされたという経験を与えられました。中には、地上にあっての歩み(時間的な歩み)が、ほんのわずかであった方もいらっしゃるでしょう。しかし、神様の目からご覧になった時には、長い短いを比較したり、地上での働きの多い少ないを比較することは意味のないことです。神様ご自身が目をとめてくださり、清めてくださるという一本の道が、イエス・キリストというお方によって開かれているからです。

 朗読されたヨハネによる福音書には、主イエスの言葉が記されています。主イエスとの出会いの中で、何が大切なのか、何に人々が心を向けて何によって清められ、聖なるものとされ、その人生をまっとうすることができるのかについて記されている箇所です。

 ここには、パンをめぐる、主イエスと周囲にいた人々とのやりとりがあります。

「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」(6:26)

 この聖書箇所の前には、主イエスの周囲には大勢の人々が集まって話しを聴いていた様子が記されています。その数は男性だけで5000人以上もいました。女性や子どもたちを加えれば、1万人近い人々がいたと想像できます。夕刻が近づいてきました。主イエスの弟子たちは、熱心に話しに耳を傾ける人々の姿を見ていました。また、病人が連れてこられ、主イエスに手を置いていただいて癒される様子を見ていました。弟子たちは内心心配し始めていたに違いありません。『このままでは日が暮れてしまう。この大勢の人々はどうなるだろうか』と。極めて常識的な弟子たちの感覚です。しかし、それを知っておられた主イエスは、弟子のひとりフィリポに言いました。

「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」(6:5)

 フィリポは答えました。

「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」(6:7)

 またそこに居合わせた弟子のひとりアンデレが言いました。

「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」

 主イエスが事の重大さに気づいてくれたと思い、半分ホッとしてこう言ったのかもしれません。

しかし、主イエスが次に発した言葉は、「群衆を解散させよう」ではなくそれと逆のことでした。

「人々を座らせなさい」(6:10)

 そして主イエスは、パンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられたのです。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられました。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちにおっしゃいました。

「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」(6:12)

 人々が集めると、五つの大麦パンを食べてなお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになったのです。弟子たちも、集まっていた人々も驚いたことでしょう。聖書は、この出来事を経験した人々の反応について伝えています。

「そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。」(6:14、15)

 主イエスが自分たちと共にいてくれるならば、自分たちは常に飢えることなく、満ち足りた生活を送ることができるに違いないと思い、自分たちの「王」として祭りあげようとしたのです。そこで、主イエスは「自分が王となって地上での神の国を実現してあげよう」とおっしゃったのではありませんでした。「ひとりでまた山に退かれた」(6:15)のです。

 日が沈み、人々はそれぞれ家路につきました。しかし、主イエスを王として担ぎ出そうとしていた人々、そう簡単にあきらめない人々がいました。弟子たちの輪の中心に主イエスを見出そうとして見つけられないと、舟を使って主イエスを追いかけ続けました。カファルナウムという町で、主イエスを見つけた人々がいました。本日の聖書箇所は、その場面での会話です。

「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」(6:26)

 肉体的な満腹、すなわちこの人に従っていれば、常に満腹していられると人々は思って主イエスを追いかけてきたのでした。しかし、主イエスは、その人々を前にしてとても大切なことを語られました。

「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」(6:27)

 肉体の健康を保つ上で「食べ物」は大切なものです。空腹のままでは、聖書の御言葉に集中して耳を傾けることもできないかもしれません。しかし、「いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物」があることを主イエスは語られました。そして、そのために働きなさいと勧められたのです。

 一人一人に命が与えられ、一人一人に時間が与えられているのは、そして一人一人に出会いが与えられているのは、「永遠の命に至る食べ物のために働く」一人一人であって欲しいという、神様の御心があるからなのです。それは、世のことから離れて崇高な人生を送ることへの勧めではありません。主イエスは、一握りの“悟りを開いた特別な人”を作り出そうとされたのではありません。主イエスと出会い、心を開き、主イエスを信じ、受け入れるならば、その時に、誰にでも始まるような“道”を開いてくださったお方、それが主イエス・キリストです。

 人々は尋ねました。

「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」(6:28)

 どんな正しいこと、どんな役に立つことをしたらよいでしょうか、と尋ねたのです。主イエスはお答えになりました。

「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」(6:29)

 主イエスの答えは、「良い人になりなさい」でも「良い業をしなさい」でもありませんでした。「信じること=神の業」とおっしゃったのです。「信じること」「知的領域」は、実際に実を結ぶの出発点にしか過ぎないのではないかと考えがちです。主イエスは、「信じること、それが神の業である」とはっきりと語られたのでした。「信じること」こそ、神様がわたしたち一人一人に一番願っておられることなのです。「それならできる」と思われたでしょうか。しかし、実は、神様ご自身の助けなしには、信じ続けることはできないものです。自分が感動したときに「神様が与えてくださったのだ」と感謝することは比較的容易かもしれません。「信じよう」と一時的な「決心」をすることはできるかもしれません。しかし、ここで「信じる」のは、一時的な「決心」を指しているのではありません。困難の只中でさえ、信じ続けることができるような恵みを指しているのです。

 わたしたち一人一人が永遠に神様のことを覚え続けることを「信じる」という言葉に重ねて、主イエスはお語りになりました。それはどのようにして実現するのでしょうか。

 鍵は「パン」にあります。

 主イエスはおっしゃいました。

「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」(6:32、33)

 主イエスご自身が「まことのパン」として、神様によってわたしたちに与えられた存在なのだというのです。人々は、自分たちの先祖がモーセに率いられてエジプトを脱出したことを思い出していました。先祖たちが、40年間荒れ野で食べ続けることができたことを思い浮かべながら、「あのパンをください」と主イエスに迫ったのです。しかし、主イエスは、ご自分こそ、「まことのパン」であるとおっしゃいました。難解な悟りが必要とされているわけではありません。非常にシンプルなことなのです。代々の教会は間違えることなく、主イエスの御言葉をそのまま受け入れて2000年という時を超えて、まったく変わることなくその恵みを受け取り続けているのです。この茅ヶ崎教会においても同様です。茅ヶ崎教会では、毎月第1主日とクリスマス、イースター、ペンテコステには聖餐式を行います。カトリック教会では聖体拝領という名称です。聖餐式では、主イエスがパンを割いて弟子たちに渡され「これはわたしの体である」とおっしゃったその通りを行ない続けています。レオナルドダヴィンチの「最後の晩餐」の壁画が有名ですが、まさにその出来事が、教会では延々と受け継がれているのです。

 本日、名前を読ませていただいたお一人一人の生涯は、生きざまはそれぞれ異なっています。しかし、唯一の共通点は、「天からのまことのパン」に与かった一人一人であるということです。洗礼を受けずに生涯を終えてしまった人はどうなるのでしょうか。確実に言えることは、多くの祈り、とりなしの祈りに囲まれていたということです。そして、一人一人の命が、長い短いにかかわらず、この地上で与えられていたという事実は、神の御心によらずしては起こりえなかった奇跡そのものなのです。ある人は、母の胎内のみの命であったかもしれません。それでも、神様の目からご覧になれば、何一つ変わることのない大切なかけがえのない命なのです。わたしたちが考える以上に、神様はわたしたちの命にその御目を注ぎ続けてくださるお方です。それゆえに、わたしたちが「まことのパン」を受けとることができるように、分け隔てなく道を開いてくださっているのです。その道を歩んだ一人一人の存在そのものが、その道の存在を指し示し続けています。召天者記念礼拝のこの時、その大切な証しを心にしっかりと刻みたいと思います。祈ります。

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