2023年10月23日礼拝説教「天使のラッパと災い」

牧師 田村 博

2023.10.22

説教「天使のラッパと災い」

旧約聖書 エゼキエル書38:22~23

新約聖書 ヨハネの黙示録8:6~13

 本日の聖書箇所の最後の節には、「不幸だ、不幸だ、不幸だ、地上に住む者たち。なお三人の天使が吹こうとしているラッパの響きのゆえに。」という「一羽の鷹」の声が記されています。神様は、礼拝に集った私たちに「不幸だ」と宣言なさり、私たちがしゅんとうなだれてこの会堂を後にすることを望んでおられるのでしょうか。決してそうではありません。聖書の御言葉は、その一部だけを取り上げて、その枠の中だけで完結させようとしても無理でありましょう。神様は、旧約聖書と新約聖書の両方を与えてくださり、このすべてを通して、私たちが神の言葉を神の言葉として受け取ることができるようにしてくださっています。とは言え、主の日ごとに、この聖書の最初から最後まですべてを読むことはできません。しかし、少なくとも与えられた御言葉の前後にどのような御言葉があるかということは正確に受け止める必要があります。

 前回の8章1には次のような御言葉があります。

「小羊が第七の封印を開いたとき、天は半時間ほど沈黙に包まれた。」

 「嵐の前の静けさ」という言葉がありますが、まさに大きな混乱と苦難を伴う出来事が起ころうとしている、その前触れのような一節です。

 そして8章2節には次のような御言葉がありました。

「そして、わたしは七人の天使が神の御前に立っているのを見た。彼らには七つのラッパが与えられた。」

 「ラッパ」による大きな混乱と苦難の開始の合図がなされようとしていました。

 しかし、その直前8章3~5節に大切なことが記されています。

「また、別の天使が来て、手に金の香炉を持って祭壇のそばに立つと、この天使に多くの香が渡された。すべての聖なる者たちの祈りに添えて、玉座の前にある金の祭壇に献げるためである。香の煙は、天使の手から、聖なる者たちの祈りと共に神の御前へ立ち上った。それから、天使が香炉を取り、それに祭壇の火を満たして地上へ投げつけると、雷、さまざまな音、稲妻、地震が起こった。」

 「聖なる者たちの祈り」が、神様にささげられる「香の煙」のようにささげられ、神様に届けられているのだというのです。これから起ころうとしている混乱と苦難の一つ一つは、決して神様に見放されたところでの出来事ではないのです。「祈り」によってとりなされ続けているのです。この「祈り」があるから、混乱と苦難の真っ只中にあったとしても、待ち望むことの意味を見失うことがないのです。

 この「祈り」の存在をはっきりと伝えられた後で、6節以降があるのです。天使たちに手渡された「ラッパ」が吹かれます。

 「さて、七つのラッパを持っている七人の天使たちが、ラッパを吹く用意をした。第一の天使がラッパを吹いた。…」

 「ラッパ」という言葉を聞いて、どのような楽器を連想するでしょうか。トランペットのような管楽器を思い浮かべるかもしれません。しかし、ここに出てくる「ラッパ」は、金属製の楽器ではなく、羊飼いたちにとって、最も身近な楽器でした。この「ラッパ」は、羊飼いが飼っている「雄羊」の「角」を用いて造られたからです。この「ラッパ」をあらわす言葉「ショーファー」の本来の意味は「穴」です。口をつけて吹く先端部分、そして必要に応じて「穴」をあけて、吹きやすいように、よい音が出るように加工をしました。熱を加えてなめらかにしたりして、大きな、澄んだ音色が出るようにしたのです。

 イスラエル民は、この「ラッパ」を「祭」の時に用いました。ユダヤ暦の新年は「第7月」から始まりますが、「ラッパ」が、最も多く用いられたのが「ロシュ・ハシャナ(新年)」と呼ばれるこの「第7月」でした。月の満ち欠けに従った暦ですので、私たちが用いている西暦とずれていて、毎年異なりますが、西暦では9月から10月にあたります。ユダヤ暦の第7月15~22日は、三大祭の一つである「スコット(仮庵祭)」です。

 レビ記23章24節には、

「第七の月の一日は安息の日として守り、角笛を吹き鳴らして記念し、聖なる集会の日としなさい。」

とあります。この「角笛」が「ラッパ」です。イスラエルの民は「ラッパを吹き鳴らして」新しい年を歩み始めました。そして、続く27節にあるように「ヨム・キプール(贖罪日)」を守りました。

「第七の月の十日は贖罪日である。聖なる集会を開きなさい。あなたたちは苦行をし、燃やして主にささげる献げ物を携えなさい。」

そして、34~40節にあるように「仮庵祭」を迎えたのです。

「イスラエルの人々に告げなさい。第七の月の十五日から主のために七日間の仮庵祭が始まる。初日に聖なる集会を開きなさい。いかなる仕事もしてはならない。七日の間、燃やして主にささげる物をささげ続ける。八日目には聖なる集会を開き、燃やして主にささげる物をささげる。これは聖なる集まりである。あなたたちはいかなる仕事もしてはならない。以上がイスラエルの人々を聖なる集会に召集すべき主の祝日である。あなたたちはこれらの定められた日に、燃やして主にささげる焼き尽くす献げ物、穀物の献げ物、和解の献げ物、ぶどう酒の献げ物をささげる。このほかに主の安息日、主にささげるさまざまの献げ物、満願の献げ物、随意の献げ物がある。なお第七の月の十五日、あなたたちが農作物を収穫するときは、七日の間主の祭りを祝いなさい。初日にも八日目にも安息の日を守りなさい。初日には立派な木の実、なつめやしの葉、茂った木の枝、川柳の枝を取って来て、あなたたちの神、主の御前に七日の間、喜び祝う。」

なぜ「仮庵祭」を守るのかについては、42~43節に記されています。

「あなたたちは七日の間、仮庵に住まねばならない。イスラエルの土地に生まれた者はすべて仮庵に住まねばならない。これは、わたしがイスラエルの人々をエジプトの国から導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたたちの代々の人々が知るためである。わたしはあなたたちの神、主である。」

 イスラエルの民がモーセに率いられてエジプトを脱出し、約束の地カナンを目指したとき、彼らは40年間「仮庵」すなわち「テント」生活をしました。そのことを覚え続けるために、彼らは普段石の家に住んでいたとしても、木の家に住んでいたとしても、この期間はあえて「仮庵」に住み、この祭りを祝ったのでした。その最後の日は「シュミニ・アツェレット・スィムハット・トーラ(律法の歓喜の祭り)」と呼ばれています。この間、折に触れて「ラッパ」が吹かれました。

 今月7日(土)の早朝、イスラム組織ハマスがイスラエルを奇襲攻撃しました。この日は、ちょうど「仮庵祭」に続く安息日の早朝だったのです。つまり、人々が律法を与えられたことを喜ぶ祭りのフィナーレのような時に、悲惨な出来事は起きたのです。それゆえ、イスラエルの人々の怒り・ショックの感情は並大抵なものではなかったはずです。しかし、イスラエルの住民の中から「ガザへの地上侵攻には反対です」とプラカードをもって声をあげている人々がいる様子を報道でご覧になった方もいらっしゃるかもしれません。彼らはどのような思いをもってそのような声をあげているのでしょうか。

 先ほど聖書にあったように、第7月の10日目は、「ヨム・キプール(贖罪日)」でした。過去の1年の失敗と罪の記憶を呼び覚まし、自らの罪深さを真剣に考える日でした。「ラッパ」は、そのための合図でした。その日を同時に守っていた彼らは、もしかしたら、その「贖罪日」ゆえに、「さらに罪を犯してしまっていいのだろうか」と、悲しみの中にありながら思い巡らし、そのようなプラカードを掲げようと決心したのかもしれません。

 「ラッパ」の音には三つの意味がありました。

(1)「良心を呼び起こし、債務への注意を喚起する」⇒敬虔な生活を送ることに心を向ける

(2)「過去の1年の失敗と罪の記憶を呼び覚ます」⇒自らの罪深さを真剣に考える(目をさます)」

(3)「出エジプトの途上、シナイ山で神ご自身を顕された」⇒生きて働き共にいてくださる主

 1番目、2番目のことを新年のラッパの音と共に心に刻み続けたイスラエルの民でした。そして、3番目のことについては、出エジプト記19章16、19節に記されています。

「三日目の朝になると、雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いたので、宿営にいた民は皆、震えた。」

「角笛の音がますます鋭く鳴り響いたとき、モーセが語りかけると、神は雷鳴をもって答えられた。」

 ラッパの音は、神様がシナイ山でモーセと語ってくださったそのことを思い出させる大切な合図だったのです。目には見えずとも生きて働いてくださるお方として、愛してくださるお方として、主なる神様はご自身をあらわしてくださるお方です。確かに自らの罪を深く思い起こすラッパの音でしたが、同時に、このシナイ山での出来事が彼らの記憶の奥底に伝えられ続けていたのです。

 ヨハネの黙示録に記されている「ラッパの音」は、イスラエルの民にとって、悔い改めさせてくださり、律法を与えてくださり、喜びをあらわさせてくださる合図です。

 しかし、第一の天使がラッパを吹くと、目を覆いたくなるような出来事が起こるのです。

「血の混じった雹と火とが生じ、地上に投げ入れられた。地上の三分の一が焼け、木々の三分の一が焼け、すべての青草も焼けてしまった。」(8:7)

 こんなことが起こるのだろうか? と現実との乖離を感じるかもしれません。

 世界各地で、地球温暖化を原因とした山火事が起こっています。わたしたちが生きていけるような温度で起こっているのですが、もしあと1度、あと1度と上がり続けたらどうでしょうか。「地上の三分の一が焼け」は、決してオーバーな表現ではありません。

「第二の天使がラッパを吹いた。すると、火で燃えている大きな山のようなものが、海に投げ入れられた。海の三分の一が血に変わり、また、被造物で海に住む生き物の三分の一は死に、船という船の三分の一が壊された。」(8:8~9)

 ハワイで山火事があったとき、人々は海に飛び込んで逃げました。船に乗って逃げて助かった人もいました。逃げるための道具である船さえも破壊されるというのです。

「第三の天使がラッパを吹いた。すると、松明のように燃えている大きな星が、天から落ちて来て、川という川の三分の一と、その水源の上に落ちた。この星の名は「苦よもぎ」といい、水の三分の一が苦よもぎのように苦くなって、そのために多くの人が死んだ。」(8:10~11)

 飲料水は、私たちの命を支える上でなくてはならないものです。しかし、今、水の中のマイクロプラスチックの汚染問題は深刻化しています。じわりじわりと私たちの思いもしなかったような、経験したことのないような影響をもたらしつつあります。

 「苦よもぎ」は、あの原発事故のあった「チェルノブイリ」のロシア語の意味だという指摘があります。植物学者によると、聖書のこの箇所に出ている「苦よもぎ」とは異なるのではないかという指摘もあります。「チェルノブイリ」という地名を差しているかどうかは別としても、たった一つの事故で、放射能で食物が汚染され、とんでもない健康被害が生じるというようなことは、もう現実に起きつつあるのです。

「第四の天使がラッパを吹いた。すると、太陽の三分の一、月の三分の一、星という星の三分の一が損なわれたので、それぞれ三分の一が暗くなって、昼はその光の三分の一を失い、夜も同じようになった。」(8:12)

 光が失われて「暗く」なる様子や「雹」(8:7)、「水が血に」(8:9)といった出来事を聞いて、モーセが出エジプトの時、エジプトでファラオと相対した時に起きた出来事を思い出した方もいらっしゃるかもしれません。ファラオがイスラエルの民をカナンの地に去ることを許さなかった理由は、もしイスラエルの民がいなくなってしまったら自分たちの生活を支える労働力が失われてしまう、奴隷として都合よく使っていた人々が消えてしまうという経済優先的な理由でした。今、私たちの物事の判断基準も「経済的に有利か否か」というところに陥っているという点において、似たようなところがありはしないでしょうか。

 出エジプトの際に、モーセらが経験したことは、その時には「なにゆえにこんなことが」としか感じられなかったかもしれませんが、その一つ一つは、未来に起きようとしている出来事の前味のようなものなのだと、ヨハネの黙示録は私たちに教えているのではないでしょうか。決して絵空事が示されているのではなく、すでに過去において実際に予告編のように経験した出来事なのです。

 このような困難の真っ只中でこそ、8章の1節以下にあった「聖なる者たちの祈り」が必要なのです。「とりなして祈る」「とりなし祈って人のために生きる」者が必要なのです。主なる神様は、私たち一人一人にこの御言葉を届けることを通して、そのような生き方をさせようとしてくださっているのです。

 9章1節以下では、第5、第6、第7という三つのラッパが吹かれようとしています。破壊する力がより明確にあらわされてゆきます。その中にあって、私たちが真実に目を向け、聖なる者たちの祈りをささげ続けるようなものとなることを主なる神様は願い、導こうとされているのです。だから、「一羽の鷲」が声高く、誰にでもわかるように「裁きの時」の到来を告げ知らせているのです。あらゆる苦難や困難を通り過ぎることができるような「道」が神様ご自身によって備えられています。8章1節には「小羊」の存在がはっきりと語られています。ユダヤ暦の「贖罪日」に繰り返しささげらえた犠牲に代わって、神様の御子であられる主イエス・キリストご自身が命をささげてくださいました。十字架の上にてすでに! だから右往左往する必要はありません。主イエスが、「道」を指し示してくださるのです。

 米国の大統領はクリスチャンではないのか、どうして適切な判断ができないのか? などという声が飛び交います。クリスチャンというレッテルを張っているだけでは何の意味もありません。クリスチャンとして聖書の御言葉を生きた糧として与かり続け、養われ続ける中で、主なる神様との生きた交わりを保ち続けることにこそ意味があるのです。

 誰がいけない、誰が間違っていると指をさして生きることは簡単かもしれません。しかし、祈りをささげ続ける「聖なる者たち」をこそ、主なる神様は、この地上で造り上げようとしておられるのです。そのために主なる神様は、今朝、私たちをこの礼拝に招いてくださっているのです。祈ります。

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