2022年10月16日 礼拝説教「聖書の中の宝 シリーズ①『羊』」

牧師 田村 博

2022.10.9

聖霊降臨節第20主日礼拝(秋の特別伝道礼拝)

説教 「聖書の中の宝 シリーズ①『羊』」    

聖書 詩編 23:1~3  ヨハネによる福音書 10:11~17

 新約聖書の福音書には、次のようなイエス・キリストの言葉が収められているところがあります。

「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」(マタイ13:44)

 聖書の中には、実は、宝ものがたくさん隠されているのです。

 それを、知りつつも、そのままにしておくことは、あまりにももったいないことです。

 それゆえ、このたびは「聖書の中の宝シリーズ」の第1回目として、「羊」を取り上げてみたいと思います。

 よくオーストラリアでは人間より羊のほうが多いと言われますが、最近の統計によると人間は約2,600万人ですが、羊は6600万頭で約3倍です。英国では、人間は6700万人で、羊は3300万頭と人間の約半分ですが、それでも割合にしてみれば、とても多いことがわかります。身近な、ポピュラーな存在と言っていいでしょう。ちなみに日本ではどのくらい羊が飼育されているかというと、全国であわせて16,000頭ですので、オーストラリアや英国の1000分の1よりはるかに少なく、まったく比較になりません。

 そんな日本でも、羊を知らない人はいないでしょうし、大人から子どもまで、どの年齢層に聞いても、親しみを感じている人の多い動物だと思います。皆さんはどんなイメージをお持ちでしょうか。おとなしい、癒し系に属する動物というイメージが多いと思います。

 そのようなイメージの自然と浮かんでくる背景には、人間と羊との間に、とても長く、深いつきあいがあるということが考えられます。

 旧約聖書を最初から読んでいくと、天地万物の創造の場面を除いて、動物の種類の名前で2番目に出てくるのが「羊」なのです(出てくる回数ではなく登場する順番)。ちなみに1番最初は何だと思いますか? それはエバを誘惑した「へび」です。

 創世記4章には、次のように記されています。

「さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、『わたしは主によって男子を得た』と言った。彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。」(1~5節)

 人類史上、最初の兄弟と共に、なんと家畜としての「羊」が登場しているのです。

 そののち登場するアブラハムも、その甥のロトも「羊や牛を飼う者」として登場し、羊と牛が記されるときには多くの場合「羊」が先に記されています。アブラハムに続くイサク、ヤコブも「羊を飼う者」です。その住んでいた土地が飢饉に見舞われ、エジプトに下った際に、エジプトの王ファラオに謁見した時、その職業について「先祖代々、羊飼いでございます。」(創世記47:3)と答えています。

 時が経過し、ヤコブの子孫であるイスラエルの民が、モーセに率いられて、約束の地カナンに向けて出発するという、いわゆる出エジプトの場面でも「羊」は、大切な場面で登場します。

 家族ごとに「小羊一匹」を用意し、屠り、食事をし、その屠った羊の血を家の入口の鴨居と2本の柱に塗るように神様に命じられます。それに従ったイスラエルの民は、「すべての初子の死」という災いをこうむらなくて済んだのです。「羊」が命を救う存在として登場します。以降、イスラエルの民は、神様の裁きが自分たちの前を過ぎ越すという意味から「過越祭」として記憶に刻み続けました。そして、エジプトを脱出してから40年間荒れ野をさまよい続けたときの天幕での祭壇においても「羊」がささげられ、その後約束の地カナンに定住して、しばらくして建てられた神殿においても「羊」がささげられるのです。もちろん牛なども登場しますが、常に「羊」はその中心的な存在でした。

 家畜として人間のかたわらに常にいる「羊」であるだけでなく、神様への礼拝という、大切な行為において、欠かせない存在として「羊」がいたのです。

 

 それゆえ、「羊」「小羊」が登場する詩や賛歌は、いくつも存在します。先ほど賛美した讃美歌第二編の41番「主はわが飼い主」は、詩編23編を讃美歌にしたものです。その作詞者は、ウィリアム・ウィッティングハムという人物です。彼は『ジュネーヴ聖書』という聖書の翻訳に携わりました。『ジュネーヴ聖書』とは、16世紀の英語訳聖書で、歴史上、最も重要なうちの1つに数えられている聖書です。初版は1560年に発行され、欽定訳聖書(キングジェームス訳聖書)より約50年前に訳されて出版された聖書です。宗教改革期のプロテスタント運動における主要な聖書で、シェイクスピアもこの聖書を用いていますし、多くのピューリタン(清教徒)たちがこの聖書を用いています。讃美歌第二編の41番の作詞者ウィリアム・ウィッティングハムは、単に作詞が得意だったというだけでなく、『ジュネーヴ聖書』の訳出に携わるほど、聖書全体に精通し、信仰に生きた人物でした。その彼の詩に19世紀になってこの曲がつけられ、この讃美歌は、英国でますますよく歌われる讃美歌となってゆきました。

 去る9月8日96歳で召されたエリザベス女王の葬儀においても、この讃美歌は賛美され、その様子は全世界に放映されました。彼女自身が選んだ愛唱歌であり、ウエストミンスター大聖堂において行なわれた自身の結婚式においても彼女はこの讃美歌を選んでいました。若くして大変な大役を担うことになった彼女でした。その彼女は、自分にとって何が大切かと問うたとき、この讃美歌が自らの内側に満たしてくれるメッセージこそ、かけがえのないものがあると受けとめたに違いありません。

 

 詩編23編

1主は羊飼い、

 わたしには何も欠けることがない。

 2主はわたしを青草の原に休ませ

 憩いの水のほとりに伴い

 3魂を生き返らせてくださる。

 主は御名にふさわしく

 わたしを正しい道に導かれる。」

本日配布させていただいたプリントにはその一部を口語訳を載せておきました。

1主はわたしの牧者であって、

 わたしには乏しいことがない。

 2主はわたしを緑の牧場に伏させ、

 いこいのみぎわに伴われる。」

 聖書の原文には「わたしの」という言葉が入っており、口語訳それを忠実に訳しています。詩編23編の1節は、主なる神様が羊飼いのようなお方であると説明をしているのではなく、主なる神様は、「わたし」を導き、わたしを養ってくださる、そのつながりの大切さを、わたしたちに教えてくれるものです。そのつながりがいかにすばらしいものであるかを、イエス・キリストは弟子たちに、そしてわたしたちに伝えるために羊を用いて一つのたとえ話をなさいました。

「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」(ルカによる福音書15:4~7)

 主イエスが、見失った一匹に注がれたその愛は、ヨハネによる福音書10章11節に「わたし(主イエス)は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」とあるように「命」がけの愛でした。

 「命」の大切さについて、現代社会はこれほど希薄になってしまったのか、とショックを受けるような出来事が続いています。つい先日も、北海道で「死にたい」とSNSでつぶやいた女子大生が、それならばと手を貸した男に殺害されるという痛ましい出来事がありました。まさに、「命」の価値が見失われています。

 2008年に『ブタがいた教室』という実話にもとづくドキュメンタリー映画が作成され話題になったことがありました。ご覧になった方もいらっしゃるかもしれません。

 新学期が始まった4月、6年2組の担任・星先生が1匹の子豚を連れてやってきました。クラスのみんなに命の大切さ、食べて生きることの尊さを学んでほしいと考えた星先生です。1年間クラスで飼い、最後はそのブタを食べようと提案します。生徒たちは毎日世話をして1年間育てることを決めました。校長たちはブタを飼うことに難色を示しますが、生徒たちは飼うことを楽しみにしており、父兄への報告をおこたらないと星先生は説得に努めます。

 生徒たちは、校庭にブタを飼うための小屋を作り始めました。次の日、生徒だけで作った小屋を見て星先生は驚きました。そして校庭でブタを飼うことが決まりました。生徒たちは大はしゃぎです。名前を決めようとする生徒たちに、ペットではないブタに名前を付けることを星先生は反対しました。しかしブタは「Pちゃん」と名づけられました。

 飼育係が決められ、生徒たちは休みの日も順番にPちゃんの世話をします。給食で余った残飯をもらい、餌やりや小屋を洗うなど、一生懸命にPちゃんを生徒たちは育てました。いろいろな出来事があるのですが、いろいろな学びをクラスのみんなは重ねてゆきます。

 2学期になり、Pちゃんはどんどん大きくなります。星先生はクラスのみんなにPちゃんを「食べる」か「食べない」か、今どう思っているかを問いました。賛成派、反対派いろいろな意見が出て、喧嘩まではじまります。「ペットとして愛着がわいてきたPちゃんを殺して食べるなんて出来ない」との意見が多くあり、結論は出ませんでした。職員室でもいろいろな意見が交わされました。こっそり、ブタを飼ってくれそうな農場を一件ずつあたりますが、なかなか見つかりません。星先生は「子どもたちに残酷なことをしているのかもしれない」と後悔していました。

 3学期になり、星先生は職員室でブタを引き継ぎ、育ててくれるクラスを探します。生徒たちも、Pちゃんを育ててくれるクラスを探し始めました。すると3年生が引き継ぎたいと名乗り出てくれました。卒業まで残りわずかというところで、再度話し合いがもたれました。「3年生に引き継ぐ」か「食肉センターにおくる」かを泣きながら話し合う生徒たち。話し合いは難航し、全く決まりません。卒業式まであと3日になり、もう一度話し合われ、「3年生に引き継ぐ」か「食肉センターにおくる」かのどちらかに投票をすることになりました。多数決でちょうど半分にわかれ、最終判断は星先生に委ねられます。

 次の日、星先生はクラスのみんなをPちゃんの小屋の前に集めました。そして自分の決断=「食肉センターに送る」ことを告げました。生徒たちは引き継いでもらう予定だった3年生に謝りました。そして、校庭でPちゃんと一緒に遊んで別れを惜しみました。

 卒業式の日、食肉センターのトラックがPちゃんを引き取りに来ました。みんなでPちゃんがトラックで去っていくのを泣きながら追いかけるのでした。(以上、映画『ブタがいた教室』のあらすじと結末)

 わたしたちは、すでに多くの命の犠牲によってささえられているのです。そして、物理的な「命」のみならず、霊的な「命」、目に見えない、しかし、大切な領域における「命」があります。「わたしは羊のために命を捨てる」とおっしゃったイエス・キリストは、わたしたちの霊的な「命」のために、ご自身の命をかけるとおっしゃったのです。それほどに、わたしたちを愛してくださるような愛があることをお示しくださいました。

 実は、ヨハネ福音書21章には、主イエスが、「羊」という言葉を用いて「わたしの羊を飼いなさい」と弟子ペトロに繰り返し語りかける箇所があります。主イエスがわたしたちのために犠牲となり、命をかけるほどの大きな愛があるのだということを示してくださいましたが、そのことを受け入れた一人ひとりは、今度は「羊」をめぐり、新しい関係へと招かれているのです。まことの「命」に携わっていく新しい使命が与えられるのです。ヨハネによる福音書には「羊」という言葉が何度も出てきますが、新約聖書のうちで「羊」という言葉が一番多く出てくるのは、聖書の一番最後の書であるヨハネの黙示録なのです(ただし「小羊」)。一人ひとりが永遠の命を与えられて未来に向かってわたしたちが目を向けて生きてゆくときに励ましを与えてくれる黙示録に繰り返し「小羊」という言葉が出てくるのです。

 細かいことですが、ヨハネによる福音書21章には「羊」という言葉と「小羊」という原語(ギリシャ語)でみると2種類の言葉が用いられています。ヨハネによる福音書21章の前(共観福音書のほとんど)では、「羊」が多く用いられているのですが、このヨハネによる福音書21章(十字架、復活を経て主イエスが弟子たちにご自身をあらわされた箇所)で両方が用いられ、ここでその用いられる回数が逆転=スイッチしているのです。

 イエス・キリストは、「わたしは羊のために命を捨てる」とおっしゃいました。わたしたちを「羊」に目を向けさせて終わりではなく、今度はわたしたちを通して、命がけの愛=神様の愛があることが語り継がれてゆくのです。神様は、そのような新しい使命をわたしたち一人ひとりに与えて、人生を全うさせてくださろうとしているのです。

 「羊」は、聖書の中の宝ものです。わたしたちがその宝ものに目を向けるとき、新しい意味がそこに広がってゆきます。神様は羊を愛するように人間を愛してくださるお方なのだな、と客観的に受けとめるにとどまらず、「わたしの羊飼い」と告白させてくださいます。そのように告白しながら、共に歩んでまいりたいと思います。

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