2022年4月17日 礼拝説教「だれを捜しているのか」

牧師 田村 博

2022.4.17

 説教 「だれを捜しているのか」

 聖書 イザヤ書42:10~16  ヨハネによる福音書20:11~18

 イースターおめでとうございます。先週、わたしたちは、本日の聖書箇所の前の部分、ヨハネによる福音書の20章1~10節を開きました。そこには、世界で最初のイースターの朝、主イエスが葬られていた墓の前での様子が記されていました。しかし、そこには、登場する婦人たち、そして主イエスの弟子たちに、一気に喜びが大波のように訪れたのではないことが、丁寧に記されていました。

 マグダラのマリアが「朝早く、まだ暗いうちに」(20:1)墓に行くと、彼女の目に最初に飛び込んできたのは、墓の入口にあった重い石が、取りのけてあるという状態でした。そして、中をのぞくとそこには主イエスのご遺体がありませんでした。彼女は、ペトロともう一人の弟子ヨハネを呼びに走ります。ペトロたちも全速力で墓に走ったことでしょう。そして彼らは、主イエスのご遺体がないこと、主イエスの体を包んでいた亜麻布、頭を包んでいた覆いが、まるで、主イエスのお体を包んでいたときのままのようなかたちで残されていることを目撃したのです。しかし、それ以上の手掛かりはまったくありません。やむをえず弟子たちは家に帰ってゆきました。そして他の弟子たちに、その事実を急いで伝えたことでしょう。

 それに続く、本日の聖書箇所11節は、マグダラのマリアが墓の外に立って、なおも泣き続けていたことを伝えます。しばらくして、彼女は何か気配を感じたのかもしれません。あるいは、何か状況が変わっているかもしれない、主イエスのご遺体を運び出したものの後悔して戻すために誰かが戻ってきた、そう思ったのかもしれません。彼女は、「泣きながら身をかがめて墓の中を見」(20:12)ました。すると、そこには、「白い衣を着た二人の天使」(同)がいたのです。その瞬間、彼女の記憶にとどまったのは、「二人の天使」が並んでいたのではなく、離れて座っていたことでした。つまり、その二人の天使の間には、主イエスのご遺体がかつて置かれていた空間が、やはりぽっかりと空いたままだったのです。

 この世のものとは思えない真っ白な衣を着ている「天使」という天的な存在を前にしたら、普通は驚いて腰を抜かすはずです。しかし、マリアは「婦人よ、なぜ泣いているのか」という天使の言葉を聞いて、ちゃんと返答をしています。

「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」(20:13)

二人の天使の間にぽっかりとあいた空間。そこに主イエスのご遺体がなければ、たとえ天使であろうと、誰であろうと、彼女にとってまったく必要なものではないという正直な思いが、この彼女の言葉にあらわれているのです。

 彼女が墓の入口から中を覗くようにしていたその時、やはり、後ろに何らかの気配を感じたのかもしれません。彼女は、後ろを振り向きました。そこには、確かに、一人の人がいました。14節。

「こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。」

 なぜ、分からなかったのでしょうか?

 泣き続けており、涙ゆえに、目をしっかり開けることさえ難しい状況だったのでしょうか?

 15節。そのマリアに主イエスが語りかけられました。

「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」

 ところがそれを聞いたマリアは、園丁だと思って次のように応えました。

「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」

 しかし、そのすべてをひっくり返すようなことが起こります。それはたったひと言によってもたらされました。16節。

「マリア」

 自分の名前を呼ばれたとき、目の前に立っておられるお方こそ、主イエスであることがわかったのです。

彼女の口から思わず飛び出した言葉・ヘブライ語「ラボニ」は、「ラビ(先生)」から派生した「わたしの先生」という意味でした。

 自分が誰であるかのみならず、自分のすべてを知っている主イエスが、自分の名前を親しく呼びかけてくださっている。言葉を超えた主イエスの「愛」が、彼女の心を一気にひっくり返したのです。

 マリアは、走り寄り、主イエスのお体にすがりついたのでしょう。単なる幻ではないことを、彼女は、手で、頬で、全身で感じたでしょう。

 しかし、主イエスはおっしゃいました。17節。

「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」

 「父のもとへ上る」とは、いったい何を指しているのでしょうか?

 実際にこの後の展開を聖書に基づいて追っていくと、主イエスは、婦人たちや弟子たちにご自身を現わされたのち、40日目に天に上られました。その前に主イエスのお体に触れることに何らかの不都合があったのでしょうか? そうだとすれば、この同じ章の27節に「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしわき腹に入れなさい。」とトマスに言った主イエスの御言葉と矛盾することになります。

 ある注解書では、「すがりつくのはよしなさい」と訳されている言葉は、決して「触れてはいけない」という意味ではないと説明しています。新改訳聖書は、このところを「わたしにすがりついていてはいけません。」と訳しています。またちょっと珍しい訳なのですが、バルバロ訳では「わたしを引き止めるな」と訳しているのです。今、見えるところにのみ依り頼み、自分の手の届くところに主イエスをとどまらせようとする、そのことをやめさせようとされているというのです。

 復活の主イエスに再びお目にかかることができた、その喜びは、わたしたちの想像をはるかに超えたものでありましょう。しかし、主イエスは、さらにすばらしい恵みをマリアに、弟子たちに、ひいては私たちに届けようとされているのです。そして、それは、主イエスと父なる神様とのまったき一致、完全な一致と、そのお方から注がれる聖霊の恵みであります。

 マリアにはすべきことがあるのだと、復活の主イエスはやさしく語られたのです。弟子たちに、新しいことが起こっているのだ、と伝えなさいとのメッセージを、主イエスはマリアに託します。すがりついていたままでは、現状にとどまったままでは(変わらない自分のままであっては)その使命は果たせないのです。

18節。

「マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、『わたしは主を見ました』と告げ、また、主から言われたことを伝えた。」

 マリアの目には、もう涙はありませんでした。立ち上がり、スキップを交えながら弟子たちのところに向かったかもしれません。もちろん彼女の常識と理解をはるかに越えたこの出来事、“主イエスは復活された”ということゆえに、心が恐れおののき、鼓動が高まり、しばらく心の整理がつかないような気持ちにもなったことでしょう。しかし、マリアは、以前のマリア、墓の前で泣いていたマリアではありませんでした。

 墓の前で、主イエスと交わした言葉を、マリアは何度も何度も思い返したことでしょう。

 そして、考えたことでしょう。

 「マリア」とのひと言、魔法のようなひと言に込められた主イエスの思いは先ほど申し上げた通りです。

 その前に、主イエスが自分にお語りくださった言葉についても、マリアは、繰り返し、心の中で思い巡らしたことでしょう。なぜ、自分は、主イエスを主イエスとわからなかったのだろうか、事もあろうに、主イエスに対して、なぜ、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」などととんでもないことを申し上げてしまったのだろうか…、主イエスを盗人扱いしてしまったのか…と、深く思い巡らしたことでしょう。

 主イエスの言葉として、ここに書きとどめてあるひと言に注目してみましょう。

 15節をご覧ください。

「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」

 「婦人よ、なぜ泣いているのか。」は13節に書きとどめてある天使たちの言葉とまったく同じです。涙を流すことをやめるときが来たのだと、すばらしい「時」の到来の宣言がここにあります。

 そして、その宣言の言葉が繰り返された後には、15節には「だれを捜しているのか」という主イエスの御言葉があります。大切なひと言です。

 マリアは、思い返してこの御言葉を心に刻み続けたはずです。

 『自分は、だれを捜していたのだろうか』

 自分が捜していたのは、復活の主イエスではなかった。

 自分が捜していたのは、主イエスの御遺体だった!

 自分が捜していたのは、自分がこうであるに違いないと勝手に考えていた主イエスだった!

 自分が捜していたのは、静かに、自分の手のひら香油を塗ろうとしていたお体だった!

 わたしたちも、どのような主イエスを捜しているのでしょうか。

 主イエスは、わたしたちにも、今、語りかけていらっしゃいます。

 「だれを捜しているのか」

 わたしたちは、どのような主イエスを、今、捜しているのでしょうか?

 十字架につけられて苦しんでおられるままの主イエスを、捜しているのでしょうか?

 弟子たちに教え続けていらっしゃる主イエスを捜しているのでしょうか?

 多くの病を癒されたのだから自分をも癒してくれるに違いないと思い描きながら、癒してくれる主イエスを捜しているのでしょうか?

 マリアは、遺体となられた主イエスを捜し続けていたとき、主イエスが目の前にいらっしゃっても、そのお方を主イエスとはわかりませんでした。

 主イエスは、復活されたのです。今も、生きておられるのです。

 わたしたちが、捜すべきは、復活され、今、生きておられる主イエスです。

 そこにもたらされる主イエスとの出会いこそ、わたしたちが本当に求めるべきものです。

 わたしたち一人ひとりが、本当に必要なものです。

 「だれを捜しているのか」

 主イエスは、今、そう語っていらっしゃいます。

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