2022年1月23日 礼拝説教「主にあって一つ」

牧師 田村 博

2022.1.23

 説教 「主にあって一つ」           

 聖書 申命記30:11~15  ヨハネによる福音書17:20~26

 新型コロナウイルスの感染拡大の勢いが衰えず、先週21日(金)から「まん延防止等重点措置」が神奈川県全域にも適用されました。わたしたちは対策を厳守しつつ、何とか主日礼拝を継続しようとしていますが、教会によっては再びオンライン礼拝のみという選択をされたところもあります。

 1/17朝日新聞に「オンラインで心はつながるか」という見出しで、「脳トレ」で知られる東北大加齢医学研究所所長の川島隆太教授の記事が掲載されていました。川島教授は、「Zoom(ズーム)」などを使ったオンラインでのコミュニケーションと対面との違いを定量的に評価するために、ある実験を行いました。東北大の学生の協力を得て、学部や性別が同じで、興味関心が似ている人たちを5人一組にして、学部の勉強や趣味など共通するテーマについて、顔を見ながらの対面とズームなどを使ったオンラインとで、それぞれ会話してもらい、脳活動を比較しました。何がわかったかというと、顔を見ながら会話しているときは、きちっと脳反応の周波数で同期現象が見られます。ところがオンラインでは、同期現象が一切見られなかったそうです。同期現象がみられない、すなわち脳活動がまったく同期していないということは、何もしないで、黙ってぼーっとしているときと同じ状態であると言えるそうです。つまりコロナ禍で多用しているオンラインでのコミュニケーションツールは、脳にとってはコミュニケーションになっていない。何もしていないときと同じだということが、科学的に分かりました。同期しないということは、相手と心と心がつながっていないということ意味しています。つまりオンラインでのコミュニケーションは、情報は伝達できるが感情は共感していないというのです。

 これを読んで、ふと思いました。時々、熊本の娘がオンラインで孫の顔を見せてくれるのですが、最近は、会話の最初だけ満面の笑みを投げかけてくれるものの、すぐにポイと自分の遊びに熱中してしまうのです。もしかしたら、1歳にならない乳幼児のほうが「同期現象がおこらない」ことを敏感に察知できているのではないか、しかもその年齢ゆえに画面の向こうの相手に遠慮することなく感じるままに行動しているのではないか、そう思いました。

 本日の聖書箇所、ヨハネによる福音書17章21節をご覧ください。そこには繰り返されている御言葉があります。

「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。」

 さらに22節にはこうあります。

「わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。」

 そして23節。

「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。」

 主イエスの祈り、大祭司の祈りと呼ばれるこのすばらしい執り成しの祈りの結びには、「一つになる」という言葉が繰り返されています。

 コロナ禍にあって、オンラインの助けを借りながら、「一つになる」ということが当たり前のことではない、ということにわたしたちは気づき始めています。このコロナ禍でなくても、現代社会のあちこちで、その難しさと直面し、壁のような困難さを感じることがあるのではないでしょうか。身近な交わりの中で、わたしたちはしばしば「一つになる」ことに困難を覚えるものです。「一つになる」とは、決して同じ考え方になり、一色に染まって、個性を喪失するということとではありません。お互いの違い、個性からくる違和感を乗り越えて、別のものによって互いに結びあわされるという一致です。

 そのような「一致」「一つになる」というところに、主イエスの祈りは向かっているのです。

 言い換えれば、わたしたちにとって本当に大切な「一致」「一つになる」ということのために、主イエスは祈り続け、その恵みの中に、わたしたちを生かそうとしてくださっているのです。

 17章の1節から始まった主イエスの祈りは、3つのステップを形づくっていることを、先々週、先週と申し上げてきました。1節から8節までは、主イエスご自身のための祈りでした。17章2節に「子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。」とあります。主イエスは、わたしたちに「永遠の命」を与えるために、地上での「業を成し遂げ」(17:4)て、神様の「栄光」(17:1、5)をあらわされました。その「栄光」とは、「世界が造られる前に」(17:5)、すなわち万物の創造にまで遡る、とてつもなく大きな栄光です。その「栄光」が「御名」(7:6)というかたちで弟子たちに伝えられ、弟子たちはそれを受け入れ、主イエスを知り、信じたのでした(17:8)。この主イエスの祈りは、弟子たちの内にあって実現しました。

 この主イエスのご自身のための祈りは、弟子たちのための祈りへとつながってゆきます(17:9以下)。

 「彼ら(弟子たち)のためにお願いします。」

 主イエスとの出会いを与えられた「弟子たち」は、「あなた(主なる神)のもの」すなわち神様の所有物であると、まず確認されています(17:9)。そしてそれは同時に「わたし(主イエス)のもの」(17:10)であるというのです。主イエスは、弟子たちを「御名によって」守ってくださいます(17:11)。「滅びの子」が滅びたのは、主イエスの守りの御手が届かなかったからではありません。主イエスが力不足であったからではありません。「聖書が実現するため」(17:12)です。「滅びの子」とは、弟子たちが守られる代価としての犠牲者ではありません。究極的にはサタンを指しています。サタンのありとあらゆる試みが、滅ぼされる必要があったのです。そのために主イエスは、ご自身のおささげくださいました(17:19)。主イエスご自身という他に代わるもののないささげものゆえに、弟子たちは「聖なる者」(17:17)とされるのです。真理なる御言葉が弟子たちの内に臨むときに、その御言葉が、一人ひとりを聖なる者として、きよいものとしてくださいます。主イエスがご自身をささげられることなしには、このことはなしえないことです。

 弟子たちのための祈りが、この地上において成就するために、さらにもう一つの祈りがどうしても必要でした。それは、「彼ら(弟子たち)の言葉によってわたし(主イエス)を信じる人々のため」の祈りでした。19節のところで「終点」「完了」ではないのです。

 弟子たちの言葉によって主イエスを信じる人々の存在が大切なのです。それを抜きにしては、主イエスがご自身をささげるということも虚しくなりかねないほどです。

 その祈りは「一つに」なるところにあって完成されます。その「一つ」が何にあって一つであるかを、21節の次の祈りの言葉は教えています。

 「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。」

 その「一つ」という状態は、主イエスと父なる神様が一つであるのと等しいほどの一致であるというのです。冒頭の脳波計測の実験の例で言うならば、二つの波形が完全に一致するほどの一致がそこにはあります。それゆえ、わたしたちが聖書の御言葉を通して、主イエスと父なる神様の一致について知れば知るほど、わたしたち自身の気づきの中で、「一致」のもたらす豊かな恵みがわかってくるのです。その気づきの中で、21節後半「そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。」が起こるのです。

 さらに22節を見ると、弟子たちの言葉を聞いて信じるようになるということが起こるために、主なる神様は、主イエスに「栄光」をくださり、主イエスはその「栄光」を弟子たちにお与えくださったと言われています。その「栄光」を通して、まことの「一つになる」「一致」が実現するのです。その「栄光」は「愛」というかたちで、主イエスから弟子たちに与えられました。15章12、13節には次のような主イエスの言葉があります。

 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」

 「愛する」とは、単に誰かを大切にすること以上のものであると、この御言葉ははっきりと示しています。わたしたち一人ひとり、自分の心の内にも少しは人を大切にする思い、すなわち「愛する」という思いがあると思っていることでしょう。しかし、この御言葉をもってわたしたちが主イエスに迫られたならば、「わたしたちの心の内に人を愛するということがすでにあります」などとは、答えることなどできなくなるに違いありません。「自分の命を捨てるというほどの愛は、自分の内にはありません」と言わざるを得ないのではないでしょうか。わたしたち一人ひとりが持ち合わせていないゆえに、主イエスがわたしたちに「与える」のです。

 17章23節後半と24節には次のように記されています。

 「こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。」

 「天地創造の前から」すなわち神様ご自身しか示すことのできない「愛」があります。その「愛」を主イエスがご自身の「栄光」(=十字架・復活)を通して一人ひとりに与えてくださるのです。22節に「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。」とあるように一方的に、すでにお与えくださっているのです。その「愛」のすばらしさを、今はおぼろげにしか見ることのできないわたしたちではありますが、世の完成の時には、それをはっきりと見ることができるようにしてくださいます(17:24)。そのところに向かってわたしたちは日々、一歩一歩進んでいるのです。神様が与えてくださる「愛」を、この地上で、わたしたちはどのようなかたちで受け取り続け、心に刻めばよいのでしょうか。

 14節に「世は彼らを憎みました」とあるように、かえって反発をもたらすというようなことも起こることが伝えられています。6章22節以下には、主イエスご自身が激しく世にある人々から憎まれたにいきさつについて詳しく記されています。6章51節「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」と主イエスがおっしゃったときに、人々は激しく議論し、憎しみを募らせてゆきました(52~60節)。しかし、人々が憎しみを募らせても主イエスは一歩も引き下がりませんでした。それほどに大切なことだったのです。地上にあるわたしたちが、まことに「一つ」になるために、主イエスは「命のパン」となってくださった。ここに、弟子たちに、そしてわたしたちに対して、主イエスが与え続けてくださっている「愛」があります。「命のパン」とは、主イエスが弟子たちに与え、弟子たちが命がけで守ってきた聖書の御言葉です。そして、もう一つ、主イエスが「取って食べなさい」と開いてくださる聖餐です。御言葉と聖餐。このために主イエスは今も祈り続けてくださっているのです。

 主イエスの祈りは17章26節の言葉によって閉じられています。

 「わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」

 主イエスに対する神様の愛が、彼ら(弟子たち、そしてわたしたち)の内にとどまり、主イエスご自身も一人ひとりの「内にいる」というのです。御言葉と聖餐を通して、これがわたしたち一人ひとりに成就してゆくのだというのです。その時、心と心が通じ合うのです。わたしたちの「内に」変化を与えてくださり、本当に大切な「一つになる」「一致」がもたらされてゆくのです。主イエスは、このすばらしい恵みを、わたしたちを与えようとしてくださっています。

 18章以下の出来事は、そのすばらしい恵みをわたしたちから奪うものは何一つないということを、わたしたちに教えてくれます。主イエスが捕えられえるというとんでもない出来事が起きてくるのですが、そこにあっても主イエスの変わることのないこの17章の祈りが、出来事全体を貫いているのです。

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