牧師 田村 博
2021.9.19
「永遠にあなたがたと一緒に」 創世記17:1~8 ヨハネによる福音書14:15~24
14章15節をもう一度ご覧ください。
主イエスの御言葉「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」
この御言葉の中の、「わたしの掟」とは何だったでしょうか?
13章34節を見ると、こう記されていました。主イエスの御言葉です。
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(主イエスご自身が「愛する」ことのお手本をすでに示してくださったのです。)
「わたしの掟」とは、「互いに愛し合いなさい。」です。
わたしたちは、知人、隣人、友人、あるいは家族…といった人と人との関係を考えたとき、どのような関係の中に生きること、生活することを望むでしょうか。ピリピリと緊張感あふれる状態でしょうか。敵意と憎しみに満ちた関係でしょうか。そうではないはずです。人を大切にし、人からも大切にされるような、「互いに愛し合う」ような関係に生き、生かされたい、誰もがそう願うはずです。そう願ってはいるものの、なかなか、思うようになりません。プライドだったり、理解不足であったり、こじれた感情であったり、いろいろなものが邪魔をします。あきらめが肝心だ、期待するからいけないんだ…と、真剣に向かい合うことに距離を置き、なんとか日々やり過ごそうと考えたりします。しかし、そのようなわたしたちに対して、主イエスは、はっきりと語りかけているのです。
「あなたがたは、わたし(=主イエス)を愛しているならば、わたしの掟(=互いに愛し合いなさい)を守る。」
日々の人間関係の中で、調整しようとしたり、自分を成長させようとしたりして「互いに愛し合いなさい」にたどり着くのではなく、「わたし(=主イエス)を愛しているならば」にこそ、すべての課題を解決する「鍵」があるというのです。それゆえ今日の短い箇所にも3回も繰り返されています(15、21、23節)。
「主イエスを愛する」ならば、「互いに愛し合いなさい」という関係の中に、自らを見い出すことができる、というのです。
それでは、「主イエスを愛する」とは、どういうことでしょうか。
「愛する」ということについて、コリントの信徒への手紙(一)13章4~8節の、次の有名な聖書箇所にわかりやすく記されています。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。」
このような「愛」をもって、あなたは主イエスを愛していますか? と問われると、「そんなの無理だ!」と尻込みをしてしまうのではないでしょうか。
実は、この問いかけは、ヨハネによる福音書全体を貫く、大切な問いかけです。ヨハネによる福音書の一番最後は、主イエスがペトロに「あなたはわたしを愛するか」と3度尋ねられたその場面で終わっています。その出来事については、このヨハネによる福音書の講解説教の最後にあらためて丁寧に御言葉に聴きたいと思います。
主イエスは、わたしたちには無理だ、不可能だと知りつつ、「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」とおっしゃったのでしょうか。「あなたは主イエスを愛するか?」と問いかけられたのでしょうか?
主イエスは、無理難題を与えようとされたのではなく、とても「わたしは主イエスを愛しています」と胸をはって答えられないわたしたちだからこそ、16節以下にあるようにおっしゃってくださったのです。
「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。」
主イエス御自ら、父なる神に願ってくださるのです。そして、尻込みする弟子たちに、そしてわたしたちに「別の弁護者=真理の霊」をお遣わしくださるというのです。そのお方によって、尻込みするのではなくて、主イエスを愛することにわたしたちの目を向けさせてくださるのです。
ここに、とても大切なメッセージがあります。17節に「世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。」とあるように、多くの人々が素通りしてしまうメッセージかもしれません。クリスチャンであっても、あまり心に留めていないこともあります。また少し異なった意味で「真理の霊=聖霊」を受けとっていることがあるかもしれません。わたしも、今回、この箇所と出会い、あらためて何度も読み返すまで、正直言って素通りしていた一人でした。
「しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」
「あなたがた」とは、主イエスと話しをしている弟子たちです。主イエスと話をしているその時、その瞬間、すでに、①知っていて、②共にいて、③内にいる、というのです。
聖霊の働きというと、わたしたちは、聖霊降臨日=ペンテコステの出来事を思い浮かべます。十字架、復活の後、天に昇られた主イエスが約束された聖霊が弟子たちに降され、弟子たちは力を受けて、全世界へと福音を宣べ伝えたのです。今日も週報に聖霊降臨節第18主日と記されているように、教会の誕生と結びつく大切な聖霊降臨の出来事です。それゆえ、わたしたちは、そのような大きな出来事、劇的な霊的体験がなければ聖霊にあずかれないと思ってはいないでしょうか? しかし、聖書を注意して読むと、それ以前にも聖霊の働きははっきりと記されています。主イエスの誕生の場面でもそうです。とまどうマリアに対して、主の天使は言いました。
「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。」(ルカ1:35)
主イエスと向かい合う一人ひとりに、すでに、聖霊による御業は始まっているのです。主イエスは弟子たちに「今すでに聖霊の働きは始まっているのだ」ということを伝えたのです。(それゆえ、今、この瞬間も!)
父なる神、子なるキリスト、聖霊…と三位一体であるゆえに、ある歴史的な一点より前にはいらっしゃらないということがないことは、当たり前と言えば当たり前なのです。しかし、その当たり前のことに重きを置かずに、その前を通り過ぎたりしてしまうことがあります。
「主イエスを愛しています。」と、告白する勇気のないわたしたちのために、それだからこそ、主イエスは、「別の弁護者=真理の霊」を遣わしてくださるというのです。このお方がいらっしゃるゆえに、「わたしは主イエスを愛しています。」と告白できるようにしてくださるのです。何とすばらしいことでしょうか。
18節には、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」とあります。主イエスは、十字架にかかられ、墓に葬られ、弟子たちの目の前から見えなくなるが、よみがえられ、戻ってくると約束なさいました。しかし、19節には少々不思議なことが記されています。
「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」
「しばらくすると、」は、新改訳聖書では「あと少しで」、フランシスコ会訳聖書では「もう少しすると」と訳されていて、差し迫った「時」を指しており、主イエスの十字架の「死」を意味していることは明らかです。その時、世の人々の目からは見えなくなるが、「あなたがた(=弟子たち)はわたし(=主イエス)を見る。」というのです。ここに聖霊のすばらしい、かけがえのないお働きがあります。
十字架の「死」という絶望でしかないはずの出来事の只中で、主イエスが「生きておられる」、目にはみえなくても、その十字架の「死」は、滅びではないのだ、終わりではないのだと、受けとめることができるというのです。わたしたち自身想像もしなかったようなことですが、目には見えないのだけれど、主イエスが生きておられる、主イエスのお働きは続いているのだ、十字架にかかられて目の前からは見えなくなったにもかかわらず、「ブチッ」と途切れてしまったのではなく、主イエスの愛の御業はそこにも貫かれているのだと信じることができるように、霊の目をもって見ることができるようにさせていただけるのです。それをさせてくださるのが、「別の弁護者=真理の霊」であるというのです。
16節「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」
どんな時も、ご一緒してくださるお方がいらっしゃるのです。「永遠」というと遠い未来にわたしたちは目を向けますが、主イエスが十字架にかかられて、目に見えない、夢も希望もないかのように思えるようなそのような「時」も貫いて、「永遠に(途切れることなく)」と言われているのです。どんなときにもご一緒してくださる方ゆえに、わたしたちも、「わたしは主イエスを愛しています」と告白することができるのです。そして、「互いに愛し合いなさい」という「新しいい掟」を生きることができるようにしてくださるのです。
この「弁護者」と訳されている言葉は「パラクレートス」という言葉です。口語訳では「助け主」、他には「慰め主」と訳すことのできる言葉です。新共同訳が、「弁護者」と訳した意図としては、弟子たち、そしてわたしたちが、主の御前に立った時に、凄腕の弁護士のように、わたしたちのために執り成してくださるという意味を強調したかったのでしょう。わたしたちが「こんな自分なんか」と絶望して打ちひしがれそうになるとき、「弁護者(聖霊)」は、わたしたちの目をいろいろなところに向けさせて気づかせてくださいます。わたしたちは誰もが完全から程遠い存在です。「弁護者なる真理の霊=聖霊」の執り成しとは、犯してしまったあやまちを無かったかの如く揉み消すというのではありません。この地上でも弁護士は、「真実」に立ちます。犯罪を犯して捕えられた人に弁護士が向かい合う時、弁護士がまず求めるのは、自分が弁護しようとする人の「真実」です。もし「真実」を語ってくれなければ、弁護士は弁護をスタートできません。その人が弁護士に対して心を開いて、「自分はこういう存在だった」という告白が大切です。「真実」に向かい合うということから、弁護の仕事が始まります。それと同じように、「弁護者なる真理の霊=聖霊」は、わたしたちをありのままの姿に立ち帰らせてくれます。わたしたちが「ありのままの自分」と向かい合う時、多くの場合、苦痛を伴います。目を向けたくない自分の姿であったり、掘り返されたくないような自分の行なってきたことを、責めるためではなくて、「すべてわかっているんだ、ありのままと向かい合うあなたを神様は待ち続けてくださっているのだ、ありのままの自分に覆いをかけるのではなく、隠そうとするのではなく、向かい合いはじめるときに、わたしの弁護は始まるのだよ」と、聖霊なる方は一人ひとりに臨んでくださるお方なのです。信頼して、委ねて、「わたしは主イエスを愛しています」と、幼子のように告白するように導いてくださるのです。それが、「別の弁護者=真理の霊」の働きです。
20節の「かの日」とは、主イエスの栄光があらわされるその「時」です。復活の日でもあり、また、やがて来る主イエスが再び来られる「再臨の時」でもあります。その時に、「わたしが父の内におり、」すなわち、主イエスと父なる神が完全に一致しておられることを分かることができ、同時に、「あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいる」すなわち、主イエスとつながっている“わたし”を認識することができるというのです。そのようなすばらしい「かの日」に向かってわたしたちは生かされているというのです。
21節に、主イエスを愛することこそ、わたしたちの歩みのスタートであることが、繰り返して語られています。そして、イスカリオテでないほうのユダが自分たち(弟子たち)とこの世の違いについて尋ねています(22節)。主イエスは、「わたしの言葉を守る」か「わたしの言葉を守らない」かが、その違いであるとお答えになりました。「守る」とは「聴いて従う」ことです。それは、わたしたちの行為にとどまらないのだ、と、主イエスはおっしゃいました。「わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」(23節)というのです。主イエスを「愛する」とは、主イエスと共にいることを「喜ぶ」ことです。この奥の深い世界を、わたしたち一人ひとりが自分の経験として受けとることを、主イエスは願って、15、16節の御言葉を語られたのです。
最後に15~17節をもう一度読みましょう。
「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」
わたしたち一人ひとりが、この主イエスの御言葉と出会ったこの瞬間こそ、まさに「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。」ということを一人ひとりに実現すべき時なのです。その結果として、「わたしは主イエスを愛しています」と、わたしたちが告白でき、そこから「互いに愛し合いなさい」という世界へとつながってゆくことができる新しい一歩が始まるのです。この大切な出会いをしっかりと受け取りたいと思います。ご一緒に告白したいと思います。
「わたしは主イエスを愛しています。」