2021年5月16日礼拝説教「イエスは涙を流された」

牧師 田村 博

2021.5.16

「イエスは涙を流された」             ヨブ記16:18~20  ヨハネによる福音書11:28~37

 先々週からヨハネによる福音書11章のラザロをめぐる出来事について、4回に分けて、ご一緒に受けとり始めました。今日は3回目にあたります。

 エルサレムからほど近いベタニアという村に住んでいたラザロと二人の姉たち(=マルタ、マリア)でした。そのラザロが、病気になってしまいました。日に日に病状は悪化をたどるばかり。姉たちは、主イエスをお呼びして祈っていただく以外にない、そう考えました。人を遣わして窮状を伝え、すぐに来てくださいと頼んだのです。

しかし、先週の箇所です。11章17節。

「さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。」

 当時の様々な記録によると、人が召されたとき、遺体はしばらくの間、室内に安置され、親族や隣人が訪れ、最後の別れが告げられました。そして、遺体は洗われ、香料が塗られ、亜麻布で包まれ、顔覆いが施され、ひと段落すると墓地に運ばれました。遺体は棺に収めず、担架に載せてゆっくりと行列をつくって運ばれたそうです。埋葬が終わると、それで解散ではなく、家族は家に戻り、集まって喪のパンを食べ、ぶどう酒を飲みました。その期間は通常7日間(1週間)ほどでした。「墓に葬られて既に四日もたっていた。」とは、その喪の期間に既に入り、既定の半分以上が経過していたということです。そこに主イエスが、弟子たちと共に到着したのです。

 その知らせを聞いて、マルタが家を飛び出して、迎えに行きました。

 マルタは言いました。21節。

「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」

 しかし、そこで終わりではありませんでした。22節。

「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」

 そのマルタに主イエスは言われました。23節。

「あなたの兄弟は復活する」

 マルタは、答えます。24節。

「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」

「終わりの日の復活の時に(人は)復活する」ということは、主イエスのみが弟子たちに教えていた特別な教えではありませんでした。ごく一部の人々(サドカイ派の人々)を除き、当時の、ユダヤ人の多くが信じてたことでした。彼らは、旧約聖書の預言書に繰り返し記されていることを受けとめていたのです。

 ダニエル書12章1~4節。

「その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。

 その時まで、苦難が続く

 国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。

 しかし、その時には救われるであろう

 お前の民、あの書に記された人々は。

 多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。

 ある者は永遠の生命に入り

 ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。

 目覚めた人々は大空の光のように輝き

 多くの者の救いとなった人々は

 とこしえに星と輝く。

 ダニエルよ、終わりの時が来るまで、お前はこれらのことを秘め、この書を封じておきなさい。多くの者が動揺するであろう。そして、知識は増す。」

 「時」は、すべてのことが主の目の前に出され、清算される「終わりの日」に向かっているのです。マルタもその「終わりの日」に、ラザロが復活することを信じていました。

 しかし、主イエスは言われました。25節。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」

「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

 ラザロが終わりの日に復活する…そのことについて話しているのではなく、「わたし」は「復活」そのものである、「命」そのものであるとおっしゃったのです。将来の出来事ではなく、今、主イエスがなそうとしている現実に、マルタの目を向けさせたのです。そして、それは、今、「信じるか否か」という一点にかかっている、とおっしゃったのです。

 マルタは、この主イエスの言葉を、ラザロの「死」という現実の中で聞きました。ラザロも主イエスをメシアであると信じていたに違いありません。にもかかわらず、「死」に呑み込まれ、すでに墓に葬られて4日もたってしまっていました。たくさんの祈りがささげられたにもかかわらず、それらを嘲笑い、吹き飛ばすかのように自分たちに降りかかった「死」の現実の真っ只中で聞いたのです。

 マルタは、答えました。

「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」(11:27)

「死んでも生きる」「決して死ぬことはない」という一つ一つのことを「信じます」とは、とても答えられませんでした。彼女の頭の中で整理しきれないことでした。27節のマルタの答えは、マルタの精一杯の告白でした。

 主イエスは、目の前にいるマルタと同様に、深い悲しみの中にあるマリアのことを忘れてはいませんでした。

それが、本日の聖書箇所です。28節。

「マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、『先生がいらして、あなたをお呼びです』と耳打ちした。」

 ここには記されていませんが、おそらく主イエスが、マリアのみに自分のことを告げるようにおっしゃったのでしょう。「耳打ちした」は、口語訳聖書では「小声で言った」、新改訳聖書では「そっと伝えた」と訳されています。31節の「家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。」という記述からも、周りにいたユダヤ人たちには、マリアがどこに何をしに行こうとしているかがわかっていなかった、つまりマリアのみがわかるような方法でマルタがマリアに主イエスの到来を伝えたことがわかります。

 30節には少々不思議なことが記されています。

「イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。」

 主イエスは、あえて、悲しみに打ちひしがれているマリアのところに近づかずに、村に入らず、外に立っていらしたのです。なぜでしょうか。一刻も早く、そばに行って慰めの言葉を伝えようとは思わなかったのでしょうか。しかし、ここには大切な意味があるように思います。31節には、マリアの周りにいたマリアを慰めていたユダヤ人たちの存在が記されていました。マリアのことを親身になって心配し、手伝うことがあるならば手伝って、何とかマリアが悲しみの中で倒れてしまわないようにと心にかけてくれている人々でした。

 にもかかわらず、主イエスはその人々の作る群れに加わらず、つまり、あえてマリアと親切なユダヤ人たちがいるその家にはおいでにならず、マリアをそこから引き離すようにして「呼ばれた」のです。

36節、37節には、そのユダヤ人たちのことが記されています。

「ユダヤ人たちは、『御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか』と言った。しかし、中には、『盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか』と言う者もいた。」

 ラザロが死なないようにはできなかった…というひと言、これは、ごく自然な感情、常識的に理解できる心の動きであるに違いありません。しかし、主イエスは、そこからマリアを「呼び出された」のです。

 わたしたちも時には、同様の経験をすることがあるのではないでしょうか。悲しみの中に埋もれそうになっているとき、主イエスが来てくれるといいのにと願い続け、なぜ来て下さらないのだろうかと悶々するような時があります。そのような時、神様は、わたしたちの周囲にいる隣人や、ちょっとした出来事を用いて、「呼び出して」くださるのです。

 それは神様が、わたしたちの「弱さ」をご存じであるお方だからです。善意からの行為であったとしても、結果として、本人が純粋に神様に向かい合うことのさまたげになる場合があります。それゆえ、そのすべてをご存じである神様は、わたしたちをそれぞれの場所にとどまらせず、呼び出してくださるのです。

 このようにして、マリアは主イエスの前に到着しました。そのときの様子が32節に記されています。

「足もとにひれ伏し」

 彼女が全幅の信頼を、主イエスにおいていたことがわかります。そして、その口から出た言葉は、まさにマルタの第一声とまったく同じでした。

「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」

 マリアは、それ以上、言葉を続けることができませんでした。マルタのような信仰告白ができなかったというわけではないと思います。33節をご覧ください。

「イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、…」

とあります。嗚咽ゆえに、言葉にならなかったのでしょう。

 マリアが泣いているのをご覧になった主イエスのご様子について、33節には、

「心に憤りを覚え、興奮して、」

と記されています。正確にどのようなお気持ちで、どのような表情をされていたのかを受けとめることは、なかなか難しい部分です。

新改訳聖書は、

「霊に憤りを覚え、心を騒がせて」と訳しています。

聖書協会共同訳は、

「憤りを覚え、心を騒がせて、」と訳しています。

塚本訳聖書は、

「イエスはマリヤが泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣くのを見ると、(その不信仰を)心に憤り、かつ興奮して、(マルタとマリアに)言われた、「どこにラザロを納めたか。」二人が言う、…」

と、なにゆえに「心に憤り、かつ興奮」したかということについて「その不信仰」だったと伝えています。

だとすると誰の不信仰だというのでしょう。「憤り」は説明がつきますが、「興奮(心を騒がせ)」の方は説明がつきません。

「心に憤りを覚え、興奮して、」

というところに用いられているギリシア語について、ある神学者は、「まれにみる激しさをもった表現である。」

と指摘しています。悲しみに打ちひしがれたマルタとマリア、そして、彼女たちの信仰が、ラザロとの別離によって、人生の海の嵐の中で翻弄され、たとえて言うならば風速50キロメートルを越えるような暴風雨の中に一人たたずむような過酷な挑戦を受けているその姿に「心に憤りを覚え、興奮」されたのでしょう。

 主イエスは「どこに葬ったのか」と言われました。

 そこで彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言いました。

 そして、35節が続きます。

「イエスは涙を流された」

 より自然な流れを求めるならば、おそらく、35節を33節に続いて記すべきでしょう。マリアが泣き、ユダヤ人たちも泣き、主イエスも「心に憤りを覚え、興奮して、」そして「涙を流された」という順番です。しかし、そうではないのです。小さなことのように見えますが、このことはとても大切なところです。

 「どこに葬ったのか」という主イエスの問いかけに対しての「主よ、来て、御覧ください」という彼女たちの答えは、決して当たり前の答えではないのです。彼女たちは悲しみのどん底にありました。もう少し早く来てくれればラザロは助かったのに…もう遅い…という諦めが隙があれば襲いかかって来るような状況でした。しかし、彼女たちは流されませんでした。主イエスの言葉とその心を妨げることなく、「主よ、来て、御覧ください」と、ラザロと主イエスとのつながりのために、いっさいの自分の感情すら後回しにして、その道に主イエスをご案内したのです。「主よ、来て、御覧ください」という彼女たちの言葉は、「さあ、来て花の一つでも手向けてやってください」といった社交儀礼とはまったく異なる言葉なのです。

 それゆえ主イエスは「涙を流され」ました。

 同情でも、もらい泣きでもありません。

 この「涙を流す」という動詞は、新約聖書でたった1回だけ使われているギリシア語です。直前に出る「泣く」とまったく別の言葉なのです。このギリシア語の名詞形「涙」は何度か用いられているのですが、福音書の中では、やはり1回のみです(ルカ7:38,44)。それは、罪深い女と呼ばれた一人の女性が、主イエスの足を涙で濡らし、自分の髪の毛でそれをぬぐって、その足に口づけしたという場面です。主イエスとの出会いの中で自らの罪を深く悔い改め、その出会いを与えられたことを感謝するところに流された特別な涙でした。

「イエスは涙を流された」

 主イエスのその「涙」は、死という深い絶望の真っ只中で、その壁が破られ、新しい勝利の歴史が近づいているそのことを覚えての「涙」だったのです。

 主イエスの「涙」の貴さを、今朝、深く受けとめたいと思います。

 困難のど真ん中にあって、主イエスは、わたしたちに語りかけてくださいます。

「どこに葬ったのか」

 向かい合っている困難、課題の本質はどこなのか? と

 わたしたちは、もう遅いのです、と現状のみを見て答えるようなことはすべきではありません。もう少し早かったら、よかったのですけど、と泣き続けるべきでもありません。

「主よ、来て、御覧ください」

とお答えしましょう。

 その時、主イエスは、涙を流してくださるのです。そして、主の御業が前進するのです。

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