2021.10.24
説教 「あなたがたはわたしの友」
聖書 ヨハネによる福音書15:11~17 イザヤ書59:21
先週は、特別伝道礼拝・講演会を実施することができ感謝でした。レイチェル・カーソンという人物との出会い、また特別講演会の講師である上遠恵子姉のメッセージとの出会いは、わたしたちの“いのち”と直結するたくさんの大切な気づきを与えてくれたことと思います。
さて本日は、ヨハネによる福音書講解説教に戻ります。本日の聖書箇所は、11節「これらのことを話したのは…」という主イエスの言葉で始まります。「これらのこと」とは何だったでしょうか。直前の15章1節以下には、2種類の印象的なメッセージがありました。その一つは、主イエスがご自身をぶどうの木の幹にたとえられ、わたしたちをその幹につながる枝にたとえられたお話しでした。
15章5節「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」
もう一つは、「愛(=アガペー)」をめぐるメッセージでした。
15章9節。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」
主イエスが、わたしたちを愛してくださっているという力強い言葉です。そして「互いに愛し合いなさい」とあるように、これを心にとどめ、守るように、そしてそこに生きるようにというメッセージです。ぶどうの幹と枝のたとえ、そして、愛にとどまるようにとの勧め、それが11節の「これらのこと」が指し示しているものです。そして、これらのことを主イエスがお話しになったのには目的があるとおっしゃいました。
11節。「これらのことを話したのは、わたし(=主イエス)の喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」
「わたし(=主イエス)の喜び」とは何でしょうか? 福音書の中で主イエスご自身が喜ばれたことをこの「喜び」という言葉を用いてはっきりと記している箇所が2例あります。その一つは、ルカによる福音書10章21節です。それは、弟子たちが宣教の旅から喜んで戻り、主イエスに報告した時です。
「そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。』」
聖霊なるお方、主イエス、そして、父なる神が一つになったその瞬間、主イエスは喜びにあふれたのです。
もう一つは、ルカによる福音書15章7、10節です。100匹の羊を持っている人がその1匹を見失って、捜しまわって見つけたというたとえ話をなさっておっしゃいました。
「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
その天にある「喜び」を、失われた1匹を見つけ出した一人として、共に喜ばれる主イエスが、ここに記されています。その後には無くした銀貨を発見したというたとえ話をもって「喜び」を伝えています。魂の救いを喜ぶ主イエスのお姿です。そのような「喜び」、主イエスの「喜び」をもって、わたしたち一人ひとりの心を満たしてくださるというのです。
そして、それまで話されてきたお言葉の中から、繰り返して語られました。
12節。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」
13章34節をご覧いただくと、「新しい掟」として、おっしゃった「主イエスの新しい掟」であることが分かります。神の御独り子であられる主イエスがご自身の命をかけるほどに愛してくださるという点において、まったく新しい「掟」なのです。
そしておっしゃいました。
13節。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」
「命を捨て」るほどの「愛」を、ここでは「友のために自分の命を捨てる」という言葉をもって示されました。しかも、主イエスは14節「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」とおっしゃいました。主イエスが、わたしたち一人ひとりを「友」と呼んでくださるというのです。
わたしたちは、主イエスの愛の大きさ、そのやさしいまなざし、知恵に満ちたお言葉を思う時、自分が「友」と呼ばれるには到底ふさわしくないと、即座に思うことでしょう。「僕(しもべ)」という言葉の方が何倍もふさわしいように思います。しかし、主イエスはおっしゃいました。
15節。「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。」
なぜならば
「僕は主人が何をしているか知らないからである。」
つまり、「僕」は、主人の行動の意図を100%理解して行動するのではなく、命じられたから行動するというのです。しかし、「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」というのです。
父なる神が何を望んでいらっしゃるか、み旨は何なのか、主イエスは、はっきりと語られました。
ヨハネによる福音書6章39~40節。
「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」
もちろん、その意味の深さゆえに、その恵みを100%受けとめることのできない、わたしたちかもしれません。しかし、主イエスは、「知らせた」のだ、とおっしゃるのです。そして、その言葉ゆえに、「友」と呼んでくださるのです。主イエスがそう呼んでくださるのです!
ヘレン・ケラーが、「友」という言葉をめぐって次のようなひと言を残しています。
「光の中で1人よりも、闇の中で友といる方がいい(I would rather walk with a friend in the dark than alone in the light.)」
「友」とは、自分にとって役に立つから「友」であるわけではありません。自分が、孤独を感じ、誰も自分を理解してくれないのではないか、と不安になるような時、自分が話しをしてそれを黙って聴いてくれるような存在ではないでしょうか。共にいてくださるのです。
主イエスは、わたしたち一人ひとりを「友」と呼んでくださいます。そして、「友」とは、一方通行の関係ではありません。双方向の関係なのです。
16節前半の御言葉は有名な一節です。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」
わたしたちの選択する前に、主御自身がわたしたちを選んでくださったという、すばらしい御言葉です。しかし、今朝、この御言葉を「友」と呼んでくださるお方との間柄において、あらためて受けとめてみたいと思います。わたしたちが「友」になって欲しいなあ、と願い、近づき、コンタクトをしてその結果として、主イエスが、「よし、オッケー」と応えてくださったのではないのです。主イエスの方から、「あなたと友だち同士の関係になりたいのだ」とアプローチしてくださったのです。
そして、主イエスの「友」として、あなたにはすべきことがあるのですよ、とおっしゃっています。
16節後半。「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」
主イエスの御心は、わたしたちが「出かけて行って実を結ぶ」ことです。一箇所にとどまっていて、自分にできるだろうか、できないだろうか、と悶々と時を過ごすことではないというのです。その「実」は一時的な「実」ではないとも言われています。収穫の秋を迎え、枝にたわわに実る果物を見ることはうれしいことです。それは食べたら終わりですが、「その実が残るように」とあるように、ここで語られているのは「永遠の命の実」です。そのような働きに自分が携わることなどできるのだろうか、と思うかもしれません。「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられる」とは、そのように躊躇しそうになる一人ひとりに対しての励ましです。主イエスの名によって願いなさい。祈りなさい。そうすれば、「永遠の命の実」を結ぶために必要なものはすべて備えられるのだよ、とおっしゃっているのです。
最後の「わたしがあなたがたを任命したのである。」の「任命した」という言葉は、ギリシャ語で「ティセーミィー」という動詞なのですが、その意味は「(土台を)置く、すえる」です。実は、この「ティセーミィー」という動詞は、13節にすでに一度用いられているのです。
13節をもう一度ご覧ください。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」
この一文の中の「捨てる」と訳されている動詞が、実は、まったく同じ「ティセーミィー」なのです。
主イエスが「友のために自分の命を捨てる」とおっしゃったとき、その「捨てる」は、ゴミ箱に捨てるというのではなく、しっかりと、ご自身の大きな大きな目的のために「すえて」くださるという意味を含んでいるのです。
17節に、まとめのようにして、主イエスは繰り返します。
「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」
命をかけて、わたしたちにお与えくだる恵みがあります。主イエスご自身のこのような手厚い配慮の中で、受けとるようにと促されているのです。
安心して、一歩を踏み出しましょう。