2019年10月13日 礼拝説教「良い土地に落ちた種」

コヘレトの言葉11:1~10
マルコによる福音書4:1~9

櫻井重宣

昨日は台風が到来し、大変な一日でしたが、こうして日曜日の朝を迎えました。

夜が明けて、被害にあった方々、不安な夜を過ごされた方々があまりにも多く、心が痛みます。お一人お一人に主の支えと励ましを祈ります。

今日は、イエスさまのお話しされた種蒔きのたとえに耳を傾けます。冒頭の1節をもう一度お読みします。

「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。」

 イエスさまが赴かれるところに多くの人々が集まってきたことは、2章13節、3章7節~9節、3章20節にも記されています。イエスさまは集まって来た多くの人々にいつも心を込めてお話しされました。今日の箇所では、イエスさまが舟の上からお話しされ、群衆は湖畔でイエスさまのお話に耳を傾けました。

 わたしが中学、高校の時代、夏に、秋田、青森、岩手三県の教会の中学生、高校生の修養会が田沢湖畔で開催されていました。当時、田沢湖畔は本当に静かで、イエスさまが舟の上から、人々は湖畔でイエスさまのお話に耳を傾ける、その光景を思い浮かべることができました。

2節にはこう記されています。

「イエスはたとえでいろいろ教えられ、その中で次のように言われた。」

イエスさまはしばしばたとえで、神さまはどういう方か、神の国はどういうところかをお話しされました。百匹の羊を持つ羊飼いのお話、来週の伝道礼拝で田村先生が取り上げてくださるぶどうの木のお話し、よきサマリア人のお話、放蕩息子のお話など、皆さんもよくご存知です。イエスさまがお話しされたたとえ話はそれを聞く大人にも子どもにもよく分かり、みんなを励ましました。

ところで、今日は、種蒔きのたとえ話です。3節~8節をもう一度読みます。「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」そして最後の9節で、「そして、聞く耳のある者は聞きなさい」とおっしゃいました。

このたとえの冒頭は「よく聞きなさい」です。最後の9節「聞く耳のある者は聞きなさい」です。イエスさまは、イエスさまに慰められたい、励まされたいと願ってやってきた多くの人に、よく聞きなさいとおっしゃって種蒔きのたとえを語り、聞く耳のある者は聞きなさい、とおっしゃるのです。すなわち、イエスさまはこの種蒔きのたとえであなたがたに伝えたい、語りたいことがある、そのことに耳を傾けて欲しい、とおっしゃるのです。わたしたちもイエスさまがこのたとえでおっしゃろうとすることを聞き取りたいと願うものです。

ところで、種蒔きというと、わたしたちはしゃがんで一粒、一粒植えていく光景を思い浮かべますが、ここでわたしたちはミレーが描いた「種蒔く人」を思い浮かべることが大切です。広い畑で、農夫が種をたくさん手にして蒔く光景です。

 実はこの個所を学ぶとき、わたしが心を動かされることは、日本語でははっきりしないのですが、道端に落ちた種、石だらけで土の少ない所に落ちた種、茨の中に落ちた種はいずれも単数です。そして良い土地に落ちた種だけが複数形です。すなわちイエスさまは、種蒔きが蒔いた種のほとんどが良い土地に落ち、三十倍、六十倍、百倍もの実を結ぶというのです。そして、このたとえを聞く多くの人に、あなたがたも良い土地に落ちた種だ、多くの実を結ぶ人だとおっしゃっているのです。

 イエスさまのお話しを聞きに集まった人の多くは、病気や試練を繰り返していて、自分の人生は何なのか、そういう思いを持っていました。わたしたちの周囲にもそうした方々が多くおられます。

イエスさまはそうした苦しみを持つ人に、あなたは道端に落ちた種だ、だから鳥が来て食べられた。あなたは石だらけで土の少ない所に落ちた種なので、根がないので枯れてしまった。あなたは茨の中に落ちたので、実を結ばなかった、そうしたことをおっしゃいません。そうではなく、あなたがたは良い土地に落ちた種だ、いろいろな苦しみ直面しているけれどもあなたの人生で豊かな実を結ぶのだと励まされるのです。

最初に耳を傾けたコヘレトの言葉11章1節に、「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい」と記されていました。これは船での貿易をたとえていると言われます。昔、海上の貿易は悪天候のため船が遭難する危険性がいつもありました。せっかく船で生産物を運んでも、無事に港に着くかどうか分かりません。それでも、貿易しなさいとコヘレトは勧めます。あるいは愛の業を勧めている言葉だという人がいます。徒労に終わっても、愛の業をなせということでしょうか。

このあと御一緒に歌いますが、讃美歌536番の1節はこういう歌詞です。

「むくいをのぞまで ひとにあたえよ こは主のかしこき みむねならずや 水の上に落ちて ながれしたねも いずこのきしにか 生いたつものを」

この讃美歌は、コヘレトの言葉11章1節から作られました。さらに読み進みますと、11章6節は「朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな 実を結ぶのはあれかこれか」です。コヘレトは朝から晩まで種を蒔けというのです。実を結ぶかどうかわからなくても種を蒔き続けよというのです。

「種をまく人」を描いたミレーは今から205年前、1814年10月4日に生まれました。8人兄弟の2番目です。父親は牧場、母親は畑で働き、お祖母さんが子育てしました。お祖母さんは、アッシシのフランシスの信仰に励まされていた人でした。ミレーは、1849年に農民の画家となるためにバルビゾンへ移り住みました。バルビゾンは貧しい小さな村でしたが、村の美しさに魅了された画家たちが、ミレーが移り住む20数年前から移り住むようになった村です。「種をまく人」は、ミレーがバルビゾンに移り住んで最初の作品です。1850年、ミレーが36歳のときです。

実は「種をまく人」を購入し、山梨の美術館に寄贈した飯田祐三さんは、ミレーとの出会いということでこういうことを書いています。フランスの大きな美術館でいろいろな絵を見て周り、疲れ果て、古びた画廊に入ったとき、森の中の風景を描いたミレーの絵に出会ったというのです。緑一色の森の中に、一本の小径を赤い頭巾をかぶって籠を抱えて歩く一人の農婦が描かれ、農婦の行こうとしている森の中に、わずかな光が差し込んでいる、そういう絵でした。飯田さんはこの絵に心打たれ、砂漠の中でオアシスに出会った感動を覚えたというのです。農婦の歩く道の先に光が差し込んでいる、この絵にミレーの信仰を深く覚えたというのです。ミレーは、「種をまく人」に続いて、わたしたちがよく知っている「晩鐘」や「落ち穂拾い」を描きました。どんなに労働で疲れた人にも光が注がれています。

ミレーは、種を蒔く人のたとえを語ったイエスさまの心を心として受けとめていることが分かります。

パウロはコリントの信徒への手紙(一)15章で、イエスさまの十字架と死を語ったあと、「いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである」、と記しています。わたしたちのこの世界はイエスさまが十字架の死を遂げ、よみがえられた世界なのです。どんな労苦もむだにならないのです。

そのことを信頼して、種を蒔き続けましょう。

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