2017年9月3日 礼拝説教「わたしの言葉は決して滅びない」

エレミヤ書36:27~32
マタイによる福音書24:15~35

櫻井重宣

世界情勢に不安を覚えている私たちですが、今朝は、ただ今お読み頂いたマタイによる福音書24章15節から35節を通して、神さまのみ旨にご一緒に耳を傾けたいと願っています。

 今日の箇所にはイエスさまが、十字架に架けられる二日か三日前に語られた終わりの日の預言が記されています。イエスさまは、ご自分が十字架に架けられた後、弟子たちが、天変地異や戦争に直面したとき、これからの世界はどうなるのだろうと深刻に考えるに違いない、そのとき、こう考え、行動して欲しいという思いからお話しされたことが記されています。

今日の箇所を学ぶに際し、確かめておきたいことがあります。終わりの日が近づいているというと、不安を覚える人、不安をあおる人がいますが、イエスさまは今日の箇所に先立つ24章3節以下でこういうことを語りました。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだけでなく、実際に国は国に敵対して立ち上がり、飢饉や地震が起こるかもしれない。しかしそれで終わりではない。産みの苦しみの始まりだとおっしゃるのです。イエスさまは終わりの日は、新しい命の誕生、喜びの時だ、というのです。そして今日の箇所の直前、11節から14節で、こうおっしゃいました。

「偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」

イエスさまがありとあらゆる病気や苦しみに悩む人一人一人に御国の福音を宣べ伝えたことをマタイは繰り返し語ってきましたが、十字架を前にしたイエスさまは、いろいろな病、苦しみ、悲しみを持つすべての人に福音が宣べ伝えられてから、終わりが来るとおっしゃるのです。

これはわたしたちが心に留めたいことです。一部の人だけに福音が伝えられ、時間切れで終わりが来るのではありません。すべての人に福音が伝えられてから終わりが来る、それも新しい命の誕生のような喜びの時だ、終わりの時というのはそういう時だ、と十字架を前にしたイエスさまがおっしゃっているのです。

そこで今日の箇所ですが、15節で、「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら、-読者は悟れー」とあります。今、水曜日午前の聖書研究祈祷会でダニエル書を学んでいますが、イエスさまはダニエルが語っていることをここで語るのです。

そして16節以下で、憎むべき破壊者が聖なる場所に立つのを見たら、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい、戦うのではなく、山に逃げよというのです。また、屋上にいる者は、家にある物を取り出そうとして下に降りるな。畑にいる者は上着を取りに帰ってはならない、とおっしゃっています。今の時代、大津波のとき、心がけようと言われていることと重なります。

そして、それらの日には身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。逃げるのが冬や安息日にならないように祈りなさい。これまで経験したことがないような大きな苦難が来るからです。神さまがその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われないが、神さまは縮めてくださるというのです。こうした大きな苦しみの時にも、神さまはわたしたちに心配りしてくださるのだ、とイエスさまはおっしゃるのです。

パウロは、コリントの教会に書き送った手紙の中で、「あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」と書き記していますが、神さまはそういう方なのです。

23節以下には、そうした時代になると、偽メシアや偽預言者が現れて、不安を、恐怖をあおる人がいるが、信じてはならない、人の子イエスさまは大きな苦しみ、不安の渦中にあるあなたがたを見放さない、一緒にいるとおっしゃるのです。

そして、29節以下には、終わりのとき、イエスさまはもう一度この世界においでになるとおっしゃいます。「その苦難の日々の後、たちまち 太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子の徴が天に現れる」と。

終わりのときには、十字架の道を歩まれ、十字架の死を遂げた人の子イエスさまがおいでになるというのです。イエスさまを十字架に追いやった人々が、十字架に架けられたイエスさまが終わりの時においでになるとき、自分自身を深く見つめ、嘆き、悲しむが、人の子としておいでになったイエスさまは、その人々をも抱え込まれるのです。

最後の32節から35節を読んでお読みします。

「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」

終わりの時が近いということは、人の子がすぐそばまで近づいていることなのだ、天地が滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない、とイエスさまがおっしゃることは本当に大きな慰めです。イエスさまは、この地上で歩まれた3年の歩みを通して、神さまはどの人をも愛しておられることを証しされました。終わりのとき、「神は愛なり」ということが明らかになるというのです。

最初に、預言者エレミヤの言葉に耳を傾けました。今、わたしたちが手にしているエレミヤ書は、預言者エレミヤが語ったことを書記のバルクが書き記したものです。いわゆる口述筆記です。今お読みいただいたところには、エレミヤが語り、バルクが書いたものを当時のユダヤの王さまが少しずつ読ませるのですが、気に入らず、読ませては焼き、また読ませては焼くことをくりかえし、それまでバルクが書き留めた巻物を全部焼いてしまったことが記されていました。けれども神さまはエレミヤにもう一度語り、書くようにとおっしゃり、エレミヤは再度語り、バルクがそれを書き記しました。それが今わたしたちの手にしているエレミヤ書です。

労苦しながらようやく書いた物が燃やされるそのことがあって、7、8年後、ユダヤの国はバビロンとの戦争に敗れ、多くの人が捕虜として連れて行かれました。捕虜になった人の中には、千キロ以上も遠いところまで連れて来られ、生きる希望を持つことさえできなくなった人々がいました。その人々にエレミヤが書き送った手紙があります。その手紙にこういうことが書いてあります。

捕囚の期間は70年だ、70年経ったらエルサレムに戻れる、それまで日常生活を落ち着いてしなさい。神さまがこの世界に立てた計画は平和の計画であって、 災いの計画ではない。将来と希望を与えるものだ、と。70年たったら故郷に戻れるというのですが、手紙を受け取った人々のなかには70年後、この地上にいる人はほとんどいないのですが、その人たちにエレミヤは、神さまが用意しておられるのは平和の計画であって、将来と希望を与えるものだから、その日を望み見て日常生活に励め、と言うのです。

長年労苦して書き記したものが燃やされ、労苦が水の泡になるような悲しみ、空しさを覚えたエレミヤがこうした内容の手紙を書いたことに大きな慰めを覚えます。 

わたしの先輩の杉原助牧師は、伝道・牧会の傍ら、聖書学者ブルトマンのいくつかの論文を翻訳されましたが、最後にヨハネによる福音書の注解を翻訳されました。原書は600頁あります。埼玉の教会で奉仕しながら8年かけて翻訳し、ようやく翻訳を終え、出版社にまもなく届けようとしていたある夜、一人の生きる希望を失った青年を教会に泊めたところ、その青年は火事を起こし、教会、牧師館が全焼し、8年かけて翻訳した原稿もすべて燃えてしまいました。しばらくして杉原牧師はもう一度翻訳に着手しました。隠退してから広島におられたので、わたしの所にも本を借りにこられました。そして9年かけて完成しました。1000頁に及ぶ書です。

ヨハネ福音書には、イエスさまは命であり、光であり、その光は闇の中に輝いていること、神さまはひとり子をたもうほどこの世を愛してくださっていることが記されています。杉原牧師はブルトマンのヨハネ福音書の注解の翻訳を通して、命であり、光であり、愛であるイエスさまのことを証ししようとされたのです。

最近、岩波新書で『矢内原忠雄』という書が出版されました。著者は若い研究者です。この本の最後の方に、矢内原忠雄先生のところで聖書を学んでいた何人かの青年たちがガタルカナルや広島で死んだとき、矢内原先生は「一粒の麦が永遠の平和を打ち立てるために礎となったことをわたしたちは信じる」とおっしゃったことが紹介されていました。そして晩年の矢内原先生は、イエスさまは もう一度この世界においでになって完全な平和と正義を実現されることを繰り返し語っておられたことをこの書の著者は強調しています。

イエスさまが、十字架の死が数日後には避けられないという緊張した思いで語ったことに耳を傾け、慰めを、励ましを与えられたいと願っています。

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